A 回答 (44件中31~40件)
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No.14
- 回答日時:
>精神と肉体の定義は解りましたが、どうも精神とは何なのかが良く解りません、
僕の勝手な解釈の語彙による長文を読ませてしまい、ご苦労をかけて申し訳ないです。
精神とは、人間の言葉で理解する事は出来ません。もし出来たとするなら、それは嘘です。概念によるイメージに過ぎません。科学は、外部由来の概念です。精神は外部に由来していません。あなたに由来しています。
タマゴのようなものを考えてください。
タマゴの真髄はひよこです。殻があって、白身があって、黄身があります。
概念は、殻です。殻がなければふよふよした白身には形はないので、白身の形は?ときかれても答えれません。殻は、外部に対してありえます。形作られた精神は、黄身を守り、そしてついに、ひよこのもとになるのは、胚です。タマゴの成分に列挙されない小さい胚がひよこになります。つまり、胚があなたの本質で、未だ実現していません。精神はどれでしょうか?白身ですか?黄身は体かな?なんか訳わかんないことになってすみません(泣
へたくそな例ほどくだらないものはないですね(TT)
No.13
- 回答日時:
人間を肉体と精神に分ける考え方のことを一般に心身二元論といいますが、これは近代に生まれた考え方です。
これは、世界は物質界と精神界の二つに分かれるという考え方を人間に適用したものです。それまでは、世界は物質界・心魂界・精神界の3つに分かれると考えられていました。この3つうち、人間は肉体を持った生き物として動物などと同様に物質的な生き物だが、心をもつことで心魂界におり、さらに様々な経験から世界を知り洞察を得ることで、世界の理法・摂理・真髄(これが本当の精神)に到達することを目ざす存在だということになっていました。
一般に、人間を肉体と精神の合成物だと思われていますがそれはここ数百年ほどに生み出された相対的な考えです。
その上で言うのですが、「肉体はどうしょうもなく存在してしまうのに精神は何故こんなに存在して無い物なのだろう」という設問ですね。
確かに肉体は、物理的に、現前に、可視的に存在します。しかし常に一定ではありませんね。もともと小さかった赤ちゃんでも成長して大人になりますし、どんなに綺麗な女性でも年齢とともに肌にハリはなくなり、魅力はどんどん減ってしまいます。
逆に、心は移り変わりがはげしく、目にも見えず、失恋でもすれば冷静な判断力はなくなり、歳をとれば記憶力はなくなってしまいます。しかし、芸術作品からうけた感動はいつまでものこりますし、「三つ子の魂百まで」というように一度理解したことは死ぬまで身についていたりしますし、例えば三角形という概念は何千年もかわらずに三角形という図形のカタチを保持しています。
人によっては、「精神はどうしょうもなく存在してしまうのに肉体は何故こんなに存在して無い物なのだろう」という逆の疑問を持つ人もいるくらいです。実を言うと、肉体にしても心にしてもどちらにしろ普遍・不変ではないですし、しかしだからといって存在していないとはいえません。普遍的で恒常的なものこそ真に存在するものであるという考え方は、間違いとは言いませんが、絶対のものではありません(おそらくプラトンがその源流)。
そもそも、人間は肉体と精神の合体物なのでしょうか。あなたの心はあなたの身体に「宿っている」のでしょうか。肉体のない心なんてあるでしょうか。逆に、心のない肉体はあるでしょうか。死体には心はありません。しかしそのとき、死体は果たして人間でしょうか。また、肉体を離れて心は存在しません。歯が痛ければ、憂鬱になりますし、逆に気分が優れなければスポーツをやってもうまくいかないでしょう。身体と心は連動しつつ、それぞれ成長し、衰退し、そして死んでいきます。
人間は肉体と精神の合体物ではなく、人間は肉体的であると同時に心的でもあるのではないでしょうか。もし人間の本質をその精神的・理性的存在であることにおくとしても、その精神・理性は肉体的に存在しています。
確かに身体と心はアンパランスです。しかし独立しているわけではないですね。だから、身体を鍛えることで精神力がつく場合がありますし、逆に心があやふやだと身体にも変調をきたします。両方を鍛えるのが理想ではありますが。
さて「肉体の死=精神の死」かどうかですが、多分「肉体の死⇒その人の死⇒精神の死」というのが、存在論的にはいえると思います。
これでお悩みの答えになっているかどうか、私にも心許ないので、最後に、二人の先人を紹介します。一人は宮沢賢治です。「月天子」という詩にこんなフレーズがあります。
(前略)
もしそれ人とは人のからだのことであると/さういふならば誤りであるやうに
さりとて人は/からだと心であるといふならばこれも誤りであるやうに
さりとて人は心であるといふならば/また誤りであるやうに
(後略)
もう一人は、ドイツの哲学者ハイデガーという人です。主著『存在と時間』という大部な本があり、実存主義の古典とされていますが、これは存在とはなにかという問題を人間の有り方を分析することで思索したものです。特に、人間の死の意味を考察している部分は圧巻です。難しいので、木田元という日本人がたくさんの入門書を書いているのでそちらを当たるといいでしょう。
この回答への補足
肉体や精神は変幻する、だから存在しないのですか?
あと、「肉体の死⇒その人の死⇒精神の死」との事でしたが、ereignisさんのお考えでは人間の死=精神の死とイコール化が出来るとお考えですか?
デカルトの説を引用されましたが、では、手を動かしたいと思った時に手が動くのは何故でしょう?
自分は頭を使うのが得意でないので解りやすく説明していただきたいです。申し訳ないです・・・・
No.12
- 回答日時:
精神の稀薄さ・・・、ということに対してです。
かつては、「我思う、ゆえに我あり」と心、主体の考えがありましたが、普段、生活していて、自分を意識して行動することは少ないかと存じますし、意識していると、行動が芝居じみて虚構のように感じられます。
本来は、自分という「我」は存在しないとするのがいいのでしょう。まわり(縁)によって動かされているとするほうが、いいのではないでしょうか?
我にとらわれない。とらわれているとすれば、空しいことに気付かれないでしょう。
私たちの心は時にふれ、折にふれて、ある時は喜び、ある時は悲しみ、怒り、そして安らぐというようにさまざまに変化します。その変化は心だけでなく、顔つきや態度に現れます。なぜ私たちの心がさまざまに変化するのかといいますと、周囲の環境世界(これを縁といいます)に触れることによって、私たちの生命(身心両面 にわたる人間全体の働き)に、本来潜在的に具えている十界三千といわれるさまざまな働きの一部分が瞬間瞬間に反応するからなのです。
私たちの内なる心と外界を結ぶ窓口が眼耳鼻舌身の五根です。外界の色彩 や物質は眼根を通して心に伝えられます。音は耳根により、香りは鼻、味は舌、冷暖・柔剛などは身体の皮膚感覚によって心に伝達されます。これらの情報を受けた心(意根)は、これを識別 して好悪・喜怒などの反応を生ずるわけです。
人間は自分の心に適ったり満足した時に幸福を感じますし、反対にきらいなことが続いたり、不快なことが直接我が身にふりかかった時に不幸を感じます。これは人間として本能的なものであり、きわめて当然のことです。
まだまだ、十分ではありませんが、如何でしょうか?
この回答への補足
ええと、ではodd-artさんは精神は縁だとおっしゃられるのでしょうか?では、精神は我だから存在しない方が良いとのお考えですか?
それと、重ね重ね申し訳有りませんが、あくまでも自我が幸福を感じようが不幸と感じることで救済を求めようがどうでも良いのです。論点は精神の有無で、有ると仮定した後の答えが欲しいのではないのです。精神は有る、だからこうなんだ ではなく 精神はこうだから有ると考えるってところのodd-artさんの考えを請いたいです。適切なアドバイスお願いします。
あとすいません、質問です
十界三千って何ですか?
No.11
- 回答日時:
>概念って「~とは何か」を比喩する言葉だったような気がするのですが・・・精神とは概念ですか?
概念は精神にあります。だから、概念と精神は違います。概念は外部によるものなので、それを認識する主体としての精神がないと始まりません。しかし、概念が認識を左右する事は明らかです。つまり、認識主体の周りに、張り付いて行くわけです。それで、概念があたかも精神に由来するように思うのでしょう。
概念は言葉です。言いたいことはそこなのですが、語弊がどうにもとれないようであれば、概念の話は無視してください。僕はあまり知識がないので、語弊がよくおきます。「概念」の語弊を埋めたければ、僕もすっきりするのでそうしますか?
話は長くなると思いますが(笑
No.10
- 回答日時:
しかし、概念ですらも壊れます。
それは、「誤解」という形で壊れ、「忘れ」という形で終わる(死ぬ)のです。そういうことで、世界に生成したもので、何一つ消滅しないものはありません。ここからが主文です。以前の回答は、めんどくさかったら読まなくても結構です。
魂というものがあるなら、ドコにあるのでしょうか?
それは、世界>自分>自分の本質 であるので、自分と自分の本質の間に立つ者でしょう。「自分自身を見つめろ!」とかいうのは、魂によって、精神と肉体で出来た人間としての自体を見るということでしょう。はっきりいって、客観的に見るということは出来ません。客観視というものは、嘘です。失敗を冷静に見るということは、客観ではありません。「自分を見ている」と言うイメージに過ぎません。そういう意味で、科学は嘘です。そこに真実はありません。しかし、嘘も方便とゆう事で、人間はそれを利用しています。
本当に客観するには、主体をもって客観する以外にありません。つまり、視野を拡大することです。自分をも視野に入れるので、世界のことなど、もちろんはいっています。主体をもってしているので、客観とはいえませんが、以前の状態に「比べて」客観であると言えます。「人の気持ちになる」とはそういうことです。「人の気持ちを考える」とは違います。「人のこと考えろや!」とか気安く言いますが、わかっているものは、あまりいません。そのようなことがいわれる場合、大体が私欲のために言っています。倫理的規範によって言う啓蒙的な意味もあるでしょうが、倫理規範と人間規範は違います。人間規範は百人あれば百ありますが、本質において一緒です。しかし、倫理は統一的です。大事な事を言いますが、正しい事は、数えるものではありません。一緒である事は出来ますが、一ではありません。
つまり、魂という者をそういう立場の者として、考えれます。魂は人間ではなく、そこに、人間の言葉は適用できない。人間の言葉は、世界と自分の間に立つものです。それは、その人のものです。魂は、自分と自分の本質の間に立つ言葉です。その言葉は、その人の本質の言葉です。
また、魂は自他の違いもなく、あなたの魂と、僕の魂の機能はいっしょです。僕は僕になり、あなたはあなたになります。それは、魂によってです。自他の違いはない。だからこそ、完全な個性がそこにあるのです。そのものに、他者の認識はできません。しかし、自分を認識する事は出来ます。つまり、自分以外をそのものは知っています。それだけです。
その人の言葉と、魂との違いは何かと言えば、人間の言葉は
あー!わかりましたよ!、つまり、あなたは人間の言葉であなたの世界を見ます。世界はあなたのおかげであります。あなたの本質は、言葉(魂)であなた(世界を含む)を見ます。あなたはあなたの本質のおかげであります。つまり、僕は、僕の本質の言葉的なもの「魂」によってあるということです。
人間の言葉は虚で、自己の本質の言葉(魂)は真です。虚は無数にありますが、真はすべてです。存在そのものです。
人間の見る世界は虚です。しかし、自己の本質の言葉(魂)によって見る世界は真です。
さらに、人間の問題がわかりましたよ。人間の問題は、人間は自分の言葉を使っていると思っても、それは外部に起源を持ちます。経験や、教育をとおしてあります。つまり、実は自分の言葉じゃないって事です。自分の言葉と言うのは、まさにその魂によって、自分の本質を起源とするのです。
人間は言葉を二つもつ。その二つとは、真と虚です。
虚を使うものはマジで死に、真を使うものはマジに生きます。
死ぬことは、虚から放たれる事を意味します。ウソウソ人生にさよならをって感じでしょうか?
この回答への補足
倫理的規範によって言う啓蒙的な意味とは何に対する啓蒙的意味でしょうか?魂は概念で本質は真と虚に分かれるとの事でしたが・・・すいませんそうではなく魂とは何かを解りやすく教えていただきたいcaballeroさんのおっしゃっている論点はもう質問から一歩も二歩も前に進んでいらっしゃいます。それと長くなってもかまいませんので、caballeroさんの概念の適切な解釈の仕方を教えて頂きたいです。でないとせっかくの良いお話がよく見えてきません
補足日時:2001/12/24 22:37No.9
- 回答日時:
概念は、壊れますか?おおよそに、壊れにくいと思われています。
じじつ、壊れにくいです。FD何枚にも、複製できたりします。しかし、いくらFDが何枚あろうとも、その実態、形、といわれるものは一つです。正三角形は一つの形しかありませんよね?同じ事です。しかし、概念と、肉体のような存在と、どちらが確かか?と言えば、どうでしょう。概念というものは、見出された存在、法則と言うようなものです。ある事物を成り立たせている骨格、設計図?と言うようなものです。それは、ものの形です。形によらずに、世界に存在する「もの」はないです。この二つがあって現象が起こります。この二つがあるという事と同時に、現象があります。万有引力という言葉がなくても、ものが落ちる事は経験的に分かっています。惑星間の引力は、身近に経験したと思いにくいことですが、言葉によって理解できます。人間(動物)が世界を見れるのは、脳ミソのせいかどうか知りませんが、いくつもの概念を使用することが出来るからです。いくつもの形を、何らかのその形とも言えるべきものを、とおして、世界を見るので、その形にあったものが見えるという事です。ですから、概念の発達していない生後間もない人は、多分、見えているものが少ないと思います。聞こえる音も同じく少ないでしょう。食べ物を食べる事を分からず、ドアが開くものである事がわからないので、それがついている一平面(壁の事ですが、「壁」と言う事も分からないでしょう)にうもれます。この埋もれると言う表現はけっこうずばりです。言い当てていると思います。概念が発達しないことは、認識が発達していない事をいいます。
その赤ちゃんの世界は、世界に埋もれるのです。浮いてきていません。
しかし、人間も、肉体による経験が、言葉にさきだつ概念として、認識の糧となります。
No.8
- 回答日時:
読みずらいと思いますので、わけます。
大事な事は最後の回答の方にくると思うので、。読みづらかったらそれだけ読んでください。例えば、魂というものが、「これだ!」と、ピン球のように、つかめたとします。そうすると、僕はそのようなものの存在はしんじません。なぜなら、つかめるものは、はなせるからです。手のひらでつかめるもので、壊れないものはないですよね?次に、概念というものはどうでしょう。代表は言葉です。「飴玉」といわれて、記憶にある記録の内、味覚や触覚、視覚といったようなもので、もっとも一致したものが、瞬時に思い出されます。それは、例えば茶色いベッコウアメの様であったり、あわだまの様であったり、ドロップの様であったり、チュッパチャップス(でしたっけ?)のような、棒についたタイプ(型)かもしれませんが、重要なことは、「様な」として、思い出されることです。商品名までは、飴玉の概念だけでは行き着きません。まさに、形にあうものが、想起(イメージ)されます。
もし、実際にない言葉、「美しい」だとか、「概念」だとかいう言葉は、概念そのものが言葉になったものであるので、記憶にはありません。思い出されるときは、何か他のイメージに付随しておきます。(美しい雪とか、。)「概念」と言う言葉は、とくにイメージには出てきません。それは、あなたの頭の処理過程にしか存在しないからです。人間の造物ともいえます。それは、人間の言葉です。
No.7
- 回答日時:
>自分自身の答えを出すのに重要な鍵になるような気がしてなりません。
その通りだと僕も思います。宗教というと、その社会機構における排他性から、敬遠したくなります。ぼくも、そのような宗教には微塵の魅力も感じません。そのような宗教機構に依存する人間は、流行にのる若者のようです。自立できていません。その信仰は薄いので、救いにはなりません。宗教で得れるホントの自立とは、すべてによって立つということです。それが、自立と言われるのは、すべてはその人のうちにあるものだからです。
714020さんのように、自分自身でそれを見出そうとする姿勢は、714020さんの求めているものに、必要です。714020さんは、答えから遠くないです。なぜなら、その姿勢は内側を向いています。答えは外にはありません。ですから、肉体は実感を持ちますが、それはホントは虚感であり、肉体感にすぎません。
もし、哲学的な思考でそれに到達したいならば、僕の知っている限りでは、永井均という方(哲学者)の著作は参考になります。彼は、例えばこんなことを言います。「魂に対する態度」とか。結構、渋いなぁって思いました(笑 彼は「子どものための哲学」という本で、魂や、自我の自我とかいったようなものに触れています。分かりやすくかかれているので、僕にも結構読めました。
僕は、「人間に対する態度」を考えます。(笑 僕も人間なのに、僕に対する態度ってことになります。しかし、それは同時に、他人に対する態度でもあるのです。僕にするように他人にします。しかし、僕にはわからない事が多すぎます。僕にいえることはまだ少ないので、714020さんの、助言になれるかは分かりませんが、言ってみます。(長くて、読むのがめんどくさかったらすみません。特に読んで欲しいところは、多分最後の方にきます)
その内に、「世界(他者)に対する態度」というものが、あきらかになります。そのとき、自分は同時に他者です。
No.6
- 回答日時:
う~ん、さっぱりわからんですね~。
肉体の定義もまちまちでは、ないでしょうか。私が思うに、外面的な肉体は、視覚的にも、医学的にも発展しているので言うことナシです。内面的肉体と言えば、私は生命力であり精神力であると考えています。植物人間を例にした場合、外面的肉体である筋肉?などいろいろな要素が、自分の意思ではコントロールできない状態にあり、それは感情を動作を表現できないだけではないでしょうか。この場合、私は肉体は死んでいるが、精神は生きていると思います。逆の場合を考えると、精神の死というのは、私はアイデンティティー(ID)の喪失を意味するのではないでしょうか。もちろん、医学的に死亡することもIDの喪失です。マインドコントロールなどによって、IDはなくなりますが、肉体は生きています。
結論は、肉体にしろ、精神にしろ、医学や哲学と言った枠の中でしか捉えることができないのが、現状です。そして、医学・哲学は学問・伝達の基礎である言語により表現可能な事物ではないでしょうか。しかし、言語が意味する物は、共通意識であり個人意識ではないと思います。すなわち、個人意識と共通意識にずれが存在する以上、言語として表現することは不可能だと思います。肉体は表現できていると思われるかもしれませんが、遺伝子をいくら解析したところで、肉体を動かす生命力に対して明確な答えがない以上、共通意識として答えを見つけることは不可能だと思います。
肉体について、矛盾した意見のようですが、最初の肉体が意味することは病気を想定しており、最後のほうは肉体と精神との繋がりについてを想定しています。わからないと思いますが、駄文で申し訳ないです。
この回答への補足
あの、共通意識が欲しいのではないのです・・・そのものが同じところに存在するのに全く別のものだと言うことに疑問があるのです、もし宜しければお力添え願いたいです。
アイデンティティの喪失のお話はとても楽しく拝見しました、有難うございました。
駄文だなんてとんでもないです・・・自分なんかの与太話に付き合っていただくだけでも申し訳ないですのに・・・すいません、有難うございました。
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