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鈴木ましやさんの「鉄砲隊と騎馬軍団」という本をよく読みました
信長軍と勝頼軍の「長篠合戦」について深い分析が行われた、非凡な研究だったと思います
でも、今まで私の歴史知識というはほとんど中国と韓国の方のため、当然そんな方より疑問が起こりました。これに対する皆さんのお答え、待っていますね

1。日本土産の馬について
「武田騎馬隊」を否定する人は「日本には元々騎馬隊というはなかった」と話します
これに対する根拠として、戦国馬の背が高くない点を挙げる。戦国馬の背については当代の記録や今まで残ってある馬の骨ばかり見てもよく分かりました。
でも、ここに疑問があると、
 1)当代のすべての人は元々背が高くなかった。それでは戦国馬の背が特に問題になる点はあるか

 2)韓国の史学系には「韓国でも騎馬隊ということがあった」と言われます。「満州の騎馬民族に対抗するために」と思いやすいけど、実には、朝鮮半島の南部でも「騎馬隊」の証拠が発現されました。これについて、「モンゴルから始めた騎馬民族が朝鮮半島を通り過ぎて日本で到着した」という「騎馬民族移動説」が人気を集めたものの、「騎馬隊日本不在説」によると、海外からの影響は少なかったと見ても当たらないか、それが可能したかと疑問があります
即ち、「騎馬隊日本不在説」は「元々日本的なこと」だけ誇ることはないか
遺伝的には日本の馬と違い点がない朝鮮半島の南部にも「騎馬隊」ということはありましたと話したいです。


続きます

A 回答 (4件)

武田騎馬軍団が否定されるのには


次のような数字があります。
    戦闘員総数 騎馬兵の数 騎馬兵の割合  資料の出典
武田軍  237   23   9.7%    永禄・天正期の甲斐・信濃の軍役状
上杉軍 5514  566  10.3%    天正3年の軍役帳
※鈴木眞哉著『鉄砲隊と騎馬軍団』(洋泉社 2003年)P92
割合からいって、そんなに多かったというほどではありません。
他ともあまり変わりはなかったようです。

1)小型の馬では、重い具足をつけた、大人を乗せて移動していると、馬がつぶれてしまう。
2)たしか近年の研究で、DNAの分析の結果、騎馬人説が崩れたはずです。

質問内容が支離滅裂で、答え方が難しいです。

この回答への補足

関が原合戦で伊達正宗軍のなかには鉄砲衆が60パーセントを占めていました
それでは「当時の戦国軍には鉄砲隊が60パーセント」と言えるはずですか
実にそんなに論じる人も韓国にはいますけど。
それぞれの合戦の様相を詳しく見なくて少ない史料だけ、例をあげては無理な歴史研究ではありませんか、と思います

モンゴルの馬もヨーロッパの馬より背が高くなかったですよ
でも、モンゴルの方が旋回力はもっと優越だから戦闘にも抜群だったと知られます
戦いのなかに馬がどんな能力を見せてはただ「馬の背」とか「馬の筋肉」とか、それようにご存じなら、ご誤解しかありません
何よりも、当時の東アジア人たちは150~160cmが普通でしたから。
近頃の若者の背が昔のより高いから、必ず、ちからも良くて健康だというように無謀な発想と思います

質問が複雑なのについては、すみません
次の機会にはもっとまとめて申し上げましょう

補足日時:2006/01/20 12:58
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関ヶ原合戦に伊達勢は参戦していません。


どの資料で得られた情報ですか? まして鉄砲の装備率が60%というのは近代軍隊なみで到底かんがえられない数値です。

大阪城戦の時代にはかんがえられないでもありませんが・・・
当時の軍制にもそのような規制はありません。

モンゴルの騎兵は軽装でしたし、幼時から馬術になじんでいました。
戦闘や移動時は必ず数頭の換え馬を携行していて馬の疲労を防いだといいます。 だから長時間の疾走にも耐えられたのです。

この回答への補足

なるほど伊達正宗は関ヶ原合戦には参加していませんでした
これはこちらの誤解でした。すみません
それでも、申し上げました観点、それぞれの合戦を見るべきというは相変わらなく有効あると思います
大阪冬と夏の陣に参加した伊達正宗軍で鉄砲の占めるというほどは60パーセントで達しました
したがって「当時の日本軍の60パーセントは鉄砲隊」と言えるはずはありません
当時の戦国軍で鉄砲の装備率がどのくらいだったかに対するのは確かに話すことがありません
戦国時代にはそれぞれの大名によって、さらにそれぞれの部将によって、そして各々の合戦によって編制というはどこまでも変わるはずのでした。
モンゴルの例はただ一つの例ばかりです。モンゴルはともかく、西アジアと中央アジアの山脈にも騎馬隊、騎馬団の歴史的な例が稀ではありませんでした
騎馬隊にもこれような観点で見てば「戦国時代に騎馬隊というのは有り得なかった」ってこそ、有り得なかったと思います

補足日時:2006/01/22 18:00
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「騎馬隊」というイメージは多数の騎馬隊による急速な襲撃を想像するものです。



他の回答にあるように当時の日本土着の馬は体格、馬高も低く、負担する荷重も多くない貧弱な馬でしたから、重い兵を乗せて高速で疾走を続けられるような運動には耐えられなかったのです。

乗馬出来るような身分の武士は、大鎧を着用出来る身分が多く、モンゴル騎兵のような軽装ではなく重量も大きいので体力的に持久力の乏しい日本馬では「騎兵隊」のような行動は困難だったのです。

また兵力中における騎馬兵の比率が少なく、集合使用する着想は生まれなかったとおもわれます。
唯一例外は伊達の騎馬鉄砲隊で、これも伊達の領地が馬産地で良馬が得安かった為です。
この場合も乗馬突撃は行わず、敵前で停止、銃撃する方法でした。

騎兵という兵種がその高速移動、乗馬突撃という行動をとれるようになったのは、外国馬との交配による馬匹改良がおこなわれた日露戦争当時からです。

質問2は意味がよくわかりません。
騎馬民族というのは、馬と人の集団を表し騎馬隊とは限りません。

この回答への補足

関が原合戦で伊達正宗軍のなかには鉄砲衆が60パーセントを占めていました
それでは「当時の戦国軍には鉄砲隊が60パーセント」と言えるはずですか
実にそんなに論じる人も韓国にはいますけど。
それぞれの合戦の様相を詳しく見なくて少ない史料だけ、例をあげては無理な歴史研究ではありませんか、と思います

モンゴルの馬もヨーロッパの馬より背が高くなかったですよ
でも、モンゴルの方が旋回力はもっと優越だから戦闘にも抜群だったと知られます
戦いのなかに馬がどんな能力を見せてはただ「馬の背」とか「馬の筋肉」とか、それようにご存じなら、ご誤解しかありません
何よりも、当時の東アジア人たちは150~160cmが普通でしたから。
近頃の若者の背が昔のより高いから、必ず、ちからも良くて健康だというように無謀な発想と思います

補足日時:2006/01/20 13:00
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 あなたは明治時代に撮影された日本の馬の写真を見たことがありますか?その写真を見ると騎兵突撃の出来る馬ではないということがわかります。



 骨格云々よりもトモ(馬の後ろ脚の太もも)に肉がついていません。サラブレッドと比べると1/3位でしょうか。この筋肉は瞬発力に影響するもので、この筋肉が発達していないということは騎兵の突撃を行いたくても馬が走れないのです。

 日本の馬は乗って移動したり畑仕事するには使えますが、戦争には使えない馬なのです。幕末にアラブ種の馬をフランスから購入し馬匹改良を行ったのはそのためです。

この回答への補足

モンゴルの馬もヨーロッパの馬より背が高くなかったですよ
でも、モンゴルの方が旋回力はもっと優越だから戦闘にも抜群だったと知られます
戦いのなかに馬がどんな能力を見せてはただ「馬の背」とか「馬の筋肉」とか、それようにご存じなら、ご誤解しかありません
何よりも、当時の東アジア人たちは150~160cmが普通でしたから。
近頃の若者の背が昔のより高いから、必ず、ちからも良くて健康だというように無謀な発想と思います

補足日時:2006/01/20 12:59
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