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 自分で考えていると収拾がつかなくなってしまいそうになりましたので、助けてください。
 私と他人がいます。2者は、別の人格であることは理解できます。この両者が話をした場合で、完全にコミュニケーションが図れるということはあるのでしょうか。私が、彼女(もしくは彼)に、「今日は寒いですね。」と時候の挨拶をするとします。すると、「そうですね。」という返事が返ってくる。なぜでしょうか。なぜ、共感したのでしょう。共通の意識というものが存在するのでしょうか。この時候の挨拶に対して、「おなかすいたね」とか「もう帰ろう」とか、頓珍漢な返事と思われるものが返って来ないのは何故でしょう。
 「今日は寒い」という時候の挨拶に、他者は、自分と別の人格であるにもかかわらず、なぜ、共感を寄せるのでしょうか。他者の意識、考えは想像、推測するしかないのに、そのような不安定なものに基づいて、なぜ、会話が成り立つのでしょうか?
 要領の得ない質問ですみません。彼と我の関係を考えていると訳がわからなくなりました。

A 回答 (5件)

>共通化されたもの



生物学のカテゴリで聞かれてもおもしろい反応が返ってきそうですね。というのも、すべての人間が共通に持つものは"身体"だなぁ、なんて思うからです。私は生物学に詳しくないですが、同じ物質が同じように有機的につながり、同じような構造を持っているのだろうなということは予想できます。その意味で知覚や認知の構造もある程度までは、あらかじめ共通化されたものがあるのでしょう。

ちなみに「頓珍漢な返事と思われるものが返って来ないのは」学習の力だと思います。まだ学習していない幼い子どもは、頓珍漢なというか意味不明な反応しますよね。学習能力が低い動物だとコミュニケーションが限られてしまいます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。生物学のカテゴリーで質問してみます。(ワクワク!)そうか、学習能力か。学習能力って不思議ですね。どういう仕組みで学習していくのでしょう。興味は尽きません。ありがとうございました。

お礼日時:2002/01/13 19:52

元心理学専攻のburanです。

といってもよくわからなかったんですが。

なぜ「適切」な言葉を返し、「共感」を寄せるか?
なぜ、「会話」は成り立つか?

人は生まれたときから持っている本能によって育ちます。
その後は行動様式を獲得し成熟していきます。
獲得するためには五感などの感覚や記憶を総動員します。
そして、刺激に対する反応の型を、元から持っているもの(遺伝的要素)と周り(環境的要素)により各々作っていきます。

で、何がその鍵になっているかですが、私はこう思います。
1.快・不快の感覚
2.動機付け
3.試行錯誤
4.社会性の獲得
要は、自分が「快く」感じるように動き、実際に快ければ行動様式として習慣化する、そのためにいろいろ試みる、周りから不快を与えられ且つそれが自分の快を上回るるような場面は避ける、そんな過程で「社会化」されていくのではないでしょうか。

相手がどんな反応をしても自分の受け取り方でその状況の解釈は変わります。
「そうね。」と言われた時に、「素っ気無い」ととるか「何も感じない」か「うんうん」か「さっぱりしている」ととるかは、自分のその時の気分にも大きくされますよね。
そんな中で、今まで生きてきた中での経験則を他者への行動に適用する際に自分の快を求めるためには、「相手に合わせる(もしくは合わせない)ように推測して行動する」のが最適だと学習して行動するのが効率的だからなんじゃないでしょうか。
もちろん、他者と自分とは考えている中身を完全に共有できないこと、不安定なこと(そしてそれを相手も自分と同様に無意識に学習していること)も学習して前提として無意識に認識・行動できるように動機付けられています。

ですから、不安定ではあるけれどみんなが試行錯誤して自分の思いを言語化してコミュニケーションを図ろうとする努力の賜物だといえるんじゃないでしょうか。
試行錯誤の末、共通化されたものがあいさつや社会習慣や常識なるものなんじゃないでしょうか。
言葉自体も人によって異なるニュアンスを持つというその「幅」もみんな経験上知り得ている範囲で、伝えよう理解しようとするための努力を続けているのでしょう。自分の言っていることの中身よりも自分の言っているということ自体に承認や理解が得られると快いですからね。
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この回答へのお礼

 buranさん、その節はお世話になりました。
 ところで、
>試行錯誤の末、共通化されたものがあいさつや社会習慣や常識なるものなんじゃないでしょうか。
と、お答えになっている、共通化されたものに、私も関心があります。
快・不快は当然、個人差がありますよね。したがって、獲得していくものにも個人差があるはずで、それがなぜ共通化されていくのだろうと考えてしまうのです。
確かに、コミュニケーションを図るために、お互いの理解を得るために、努力し、共通の認識を得ようとして、得られたものが共通のものとして、結実していく過程は理解できるのですが。しかし、それだけでは、あまりにも不安定な関係、危うい関係のような気がしてしまうのです。ひょっとしたら、目に見えない、共通の意識のようなものが、脳の奥ふかくに刻み込まれているような気がしてなりません。
ありがとうございました。

お礼日時:2002/01/12 11:27

昔なんかのテレビを見たのですがやはり共感することにより安心するのではないのでしょうか?


もし、まったく知らなく言葉も通じないような未知のものには恐怖するようにできているっぽいです。
確かに他人とはわからないことだらけだと思うのですが、少しでも近づいていこうとしていくことによって少しずつわかっていくものだと思います、。
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この回答へのお礼

 アドバイスありがとうございます。
>共感することにより安心するのではないのでしょうか?
 他者は、自分にとっては不安な存在かもしれません。自己と他者、我と彼は、別の人格であり、分離した存在です。人間は生まれたときは孤独ですが、母親と一体となることによって、安心すると聞いたことがあります。しかし、やがて、自我が形成され、すなわち、自己と他者の区別がつくようになると、他者から分離し、また、孤独な存在であることを認識するのかもしれません。
 コミュニケーションを図ることは、他者との一体感を深めることもあるかもしれませんが、逆に、他者との違いを知り、孤独感を強めることもあるような気もします。ありがとうございました。

お礼日時:2002/01/11 12:52

面白そうなご質問ですね。



私の場合の余談ですが...。

「今日は寒いですね。」と聞かれると、私は「そうか?」と答える事が多いですね。

これは私の体感温度と、相手の体感温度が違うのでしょうが、それをこの会話によって「理解」に近づく事は有ると思います。
(完全に「理解」する事は、かなり困難でしょうが...。)

これは、御質問のケースの「同意する」場合と等価では無いでしょうか?
このケースの場合は、同意しても同意しなくても全く同じ感じを感じた訳では無いと思いますが、その受け答えによって相手の理解に近づく事ではあるかも知れません。
勿論、「納得」している訳では無いのですが、これらのコミュニケーションの積み重ねで、相手との「理解」を深める事は有るとは思いますね。

う~ん、日本語が下手ですいません...。
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この回答へのお礼

 アドバイスありがとうございます。
>これらのコミュニケーションの積み重ねで、相手との「理解」を深める事は有るとは思いますね。
 そうですね。相手のことを理解するということを、私は考えたかったのかもしれません。別の人格である、他者の気持ち、考えを共有できないものか。そのための手段である言語はどうあるべきなのか。心理学はどのように手助けをしてくれるのか。最近の携帯メールにおいての、短い文章では(長い文章がいいという訳ではありませんが)、気持ちは伝わるのでしょうか、なんて、考えてしまいます。
 相手のことを完全に理解することは困難でしょう。だから、相手はこう考えているに違いないという推測に基づいて会話は進行していくのかなとも考えたりします。時には、頓珍漢な推測をして、返事を返す場合もあるのでしょうが。
 しかし、このような推測に基づいて、コミュニケーションが積み重ねられているとしたら、いかにも、人間関係は危ういような気がしてなりません。別に、このような危うい関係を支える、彼と我の間に、共通の意識のようなものが存在するような気がしたりもします。

お礼日時:2002/01/11 08:39

面白い質問ですね。


たとえば、AとBの二者の会話でたとえましょう。
A曰く、『今日は寒いですね』ここでBが『そうですね』と答えてもBの感じた寒さとAの感じた寒さが全く同じとは限りませんし、おそらく同じではないでしょう。それなのになぜBはそうですねと答えたか?それはその会話に体感温度が完全に合同である必要がないからでしょう。ファジーであるから会話が成り立つのではないでしょうか。もっともポピュラーな例をあげるとC『お出掛けですか?』 D『ええ、ちょっとそこまで』 C『よろしおまんなぁ』 なんて会話が昔から大阪では交わされています。Cのお出掛けですか?の問いにDはそこまでと非常に曖昧な答えです。(笑)
前例のBの『そうですね』と答えたBの真意は解りません。
本当にAと同じく寒いと感じたのか、本当は寒いとは感じていないが、Aに逆らうとAの機嫌を損ねるから肯定したのか、Aとの会話が嫌であるから、あえて否定しなかったのか…それをいちいち証明、確認していたのでは逆に会話は成り立たないでしょう。
ゆえに曖昧であることを容認することによって会話が成り立つとも考えられませんか?
私も書いていて訳が解らなくなってきました。
すいません。
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この回答へのお礼

アドバイスありがとうございます。
>ファジーであるから会話が成り立つのではないでしょうか。
 私も、今までは、そう思っていました。相手が本当はどう思っているのかわからない。ゆえに、仕方がないので、それ以上追求しない。あるいは、時候の挨拶は、型どおりでよいという、暗黙の了解があるのではないか。これが、彼と我の、共通の意識といえるものかなあとも思ったりもします。
 しかし、日常会話において、相手が本当はどう思っているのか、わからないままに、会話が進んでいることが多いように思います。最近それが妙に不思議です。
 たとえば、甲「飯食う?」乙「食う」甲「よし食おう」乙「うん」という会話において、厳密に言うと、甲は乙の本当の気持ちはわかりません。ただ、乙の了解を得たと思っているに過ぎないのではないか。こう考えると、会話というのは、お互いの錯覚のようなものにも支えられているようにも思えるのです。

お礼日時:2002/01/11 08:05

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