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歴史をさかのぼって...「あっ!」とおもいつく陰謀って、どんなのがありました?
タイトル通り「歴史をさかのぼって...「あっ!」とおもいつく陰謀って、どんなのがありましたか?」

わたし歴史には、疎くてよく知りません。むかし、こんなことがあったんだよ。と、なにかご存知なお話を聞かせて頂けませんでしょうか?なんとなく覚えている話は、蘇我馬子が宮廷内で暗殺されたとか...源実朝が鶴岡八幡宮で暗殺されたとか...

暗殺者側、暗殺された側、どちらの視点からでもかまいませんから少しお話を聞かせていただければありがたいです。よろしくお願いします。

A 回答 (6件)

う~ん。


そうですね。
やっぱり孝明天皇暗殺事件ですね。
この事件は本当に陰謀なので、歴史の本には一切出てきていないが、「天皇破壊史」という本に載っています。
殺した黒幕は岩倉具視と伊藤博文です。
なぜ殺したか。それは自分たちの動きと反対の動きをしていたから。その黒幕の黒幕はフルベッキと長崎グラバー邸のグラバーです。
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はじめまして、自分の知っている話を少しだけご紹介させていただきます。



まず、歴史上有名なもので思いつくのは、明治初期の「征韓論」問題だと思い
ます。あれが、岩倉具視らの下工作によって、可決から否決に急転したこと
によって、明治維新の原動力となった西郷や江藤らを下野させ、その後の相
次ぐ士族の反乱の原因の一つになりました。これは、調べてみると、結構お
もしろい事件だと思います。

暗殺のような陰謀をもっと知りたいのなら、戦国時代の「松永久秀」、「宇喜多
直家」の二人を調べると良いと思います。「松永久秀」は、名前は聞いたことが
あると思います。織田信長に「人には出来ない、三つの悪行を成した者」と、
言われた人物です。三つの悪行とは、「主家殺し」、「将軍殺し」、「大仏焼き討
ち」です。この人については、たくさん書籍が出ていると思ので、簡単に調べ
ることが出来ると思います。

次に「宇喜多直家」ですが、この人は、備後(備前、備中だったかも知れません)
の戦国大名です。彼の家は、元々はある大名家に仕えていたのですが、祖父が
家臣同士の権力争いに巻き込まれて暗殺されます。そこで一旦、野に下るので
すが、再びその大名家に仕官します。最初は本当に低い役目でしたが、徐々に
頭角をあらわし、力をつけていきます。そして、祖父の仇を討つ、ここまでは
人情話のようでもありますが、彼はここから、豹変します。権勢を高めるため
に暗殺を繰り返すようになるのです。そして、やがては主家を追い落とし、自
らが大名になるのです。簡単に説明しましたが、結構ダーティです。色々と悪
さをする人はいますが、彼の陰謀には凄まじさを感じました。

少し、マイナーな話になってしまいましたが、参考にして頂ければ幸いです。
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陰謀とはちょっとずれるかもしれませんが、


最近映画で話題になったパールハーバー(真珠湾攻撃)も当てはまるかもしれませんよ。
真珠湾攻撃は、旧日本軍が一方的に攻撃を仕掛けたことになっていますが(映画でもそう描かれています)、本当の攻撃目標は真珠湾に停泊中のアメリカの空母達だったのです。
しかし、攻撃を行った日には空母は一隻も真珠湾にいなかった…
最近テレビや書籍でいろいろ目にする話題です。なぜ?空母だけ真珠湾にいなかったのか?それも一隻残らず。

私の知っている説は、
真珠湾攻撃を事前に察知した米が事前に空母だけ逃がしてしまったとゆう説です。
アメリカはこの時点ですでに情報戦では勝っていたわけです。
なぜ空母だけ?っという疑問が残りますが、政治的、戦略的な判断があったのでしょう。真珠湾攻撃のおかげで、アメリカは堂々と日本を潰しにかかれましたし、国民の感情もコントロールできたわけです。

さいきんアメリカでテロがありましたよね~
あれを見て、日本が戦争に踏み込んでいった理由の一端を感じ取れたような気がします。いまアラブ諸国は当時の日本と同じ気持ちになっているのではないでしょうか?これも一種のアメリカによる陰謀でしょう。
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この回答へのお礼

yoshiki_reoさん~♪お礼が遅くなりごめんなさい。

yoshiki_reoさん~♪のお話をうかがってから、「東京裁判」のことがわたしの中で引っかかります。つらつら、あれやこれやと読みあさっているうちに「戦争」・「法」・「社会」絡み合う人と人のこころの動きが、目に見えない力となり世の中を動かしています。陰謀なのか策略なのか定かではないけれど、「正義」という名のもとに覆い隠された何かが、たとえて言うなら「光の照らすその背後に影がある。」影が何を意味するのか?光のあたらぬ影に何が潜んでいるのか、見過ごされがちな影の部分にいまとても関心が湧きます。

おもしろい読み物をひとつ参考URLを載せておきます。
また、なにかの機会にお話できること楽しみにしていますねぇ~♪
回答を寄せて頂きありがとうございました。
http://www.sankei.co.jp/pr/seiron/koukoku/seiron …

お礼日時:2002/04/04 05:31

少しずつですみませんが、続いて[源平争乱編]に行きます。


(奈良・平安時代はあまり詳しくないのでパス)

1.後白河法王 vs 源頼朝

 暗殺劇ではありませんが、この二人のバトルもなかなか激しく、調べて
 みると結構面白い内容です。

 武力を持たない後白河法王は、武家の勢力を互いに競わせ、そのバランス
 の中で自分の権勢を保つ政治手法を取ります。

 最初は平家を追い出した木曽義仲を重用しますが、木曽義仲の乱暴が度を
 越すようになると、源頼朝に接近します。

 頼朝は頼朝でこの機会に東国での自分の権益を法王に認めさせます。
 その上で軍を出して義仲を討伐し、さらに西進して平家を討伐します。

 言うまでも無くこの戦いで主役となったのは源義経ですが、後白河法王は
 強大になった頼朝を牽制するため、義経に接近し源氏勢力の分断を計ります。

 木曽義仲といい源義経といい、戦争は得意でも政略面では後白河法皇に
 いいように操られてしまいます。しかし頼朝だけは操られず、鎌倉に腰を
 すえたまま法王と虚々実々の駆け引きを繰り広げます。

 義経は頼朝と最後まで和解できず、法王の策略どうりに頼朝に反旗を翻します。
 しかし時代の流れは頼朝と共にあり、武士勢力の支持を義経は得ることが
 できませんでした。義経は奥州への逃げざるをえなくなり、結局は逃亡先
 の奥州で非業の死を遂げてしまいます。

 頼朝は頼朝で、義経の背後で糸を引いていた後白河法王を見逃しませんで
 した。これを機会に、義経追討を名目として諸国に守護・地頭の配置を
 朝廷に認めさせます。こうした駆け引きの中で、後の鎌倉幕府の政治体制
 が少しずつ作られていったのです。
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この回答へのお礼

cse_riさん~♪お手間かけさせてますね。あんがとね―☆

義経といえば思い浮かぶのが弁慶。弁慶といえば...牛若丸。牛若丸といえば...
八双跳び...八双跳びといえば...舞の海。あひゃぁ-☆(*^^*)>゛゛゛
冗談はさておき、古代編に引き続きご回答ありがとうございます。

義経...昔話に出てくる牛若丸のイメ―ジが大きいせいか、非業の死を遂げていたときくとなにやら寂しくなりますね。イメ-ジとは別に義経とはいかなる人物であったのかをちがう側面からも見てみたくなりました。義経の胸中を書き綴った書物など何かご存知ないですか?ご存知でしたら、お手数ですがお時間があるときにでも教えて頂ければ嬉しいです。よろしくお願いします。

お時間があれば続編を聞きたいなぁ~♪~鎌倉~戦国時代編~(*^^*)

お礼日時:2002/01/19 01:53

井沢元彦さんの歴史関係の本を読むと、こういう「陰謀話」がよくあるのですが。


とりあえず思いつくところを幾つか挙げてみます。

・蘇我馬子の天皇暗殺事件
 天皇を暗殺した黒幕が歴史の表に出ているのは、彼一人です

・大化の改新。名前はいい響きですが、実質は中臣鎌足と中大兄皇子による
 蘇我氏打倒の暗殺&クーデターです。

・壬申の乱。大海皇子(後の天武天皇)が起こしたクーデターです。
 勝者の天武天皇によって歴史が記された(日本書紀のことです)のではっきり
 と書かれていませんが、この時にも天皇殺し(天武天皇からみて甥になる)が
 あった様子です。
 井沢元彦氏によると、そもそも大海皇子が天智天皇の弟であるという日本書紀
 の記述もあやしいのではないかと言っています。

とりあえず、古代編はこんなところで。
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この回答へのお礼

ごめんなさい、お礼を申し上げるのが遅くなりました。ご回答ありがとうございます。「古代編」~から時代時代でみていけば、興味深い出来事が起きていたりするんですね。そのときの時勢であるものがないようにないものがあるように...視点をかえてみるとなにやら...です。

お時間があれば、古代編の続編も聞かせていただきたいものです。よろしく!
ありがとうございました。

お礼日時:2002/01/15 11:05

 日蓮大聖人は、御母・梅菊(妙蓮)の病篤しとの報せに、文永元年の秋、安房の国へ帰郷された。


 大聖人が生家に帰り着かれたとき、御母はまさに臨終を迎えられていたが、大聖人が、一念を込めて、力強く題目を唱えはじめられたところ、死の淵にあった御母は息を吹き返したのである。
 大聖人は、その後、なお故郷にとどまり、安房方面一帯の布教に専心せられたが、この地では、大聖人立宗の頃より憎悪の念を懐いてきた地頭・東条景信が、虎視眈々と、大聖人殺害の機会を狙っていたのである。
 文永元年(1264年)十一月十一日、大聖人は、信者であった近隣の天津の領主・工藤吉隆の請いに応じ、十人ほどの御供を連れ、布教に出向かれていた先の花房を発って、工藤吉隆の邸へと向かわれた。
 一行が小松原にさしかかった時、突如、東条景信が数百人の兵を率いて、大聖人を襲撃してきた。大聖人の一行のうち応戦しうる者はわずか三、四人という状態で、御弟子の鏡忍房は討ち死にし、駆けつけた工藤吉隆も、必死の防戦の末、深手を負って間もなく死去した。また大聖人自身も、東条景信が切りつけた刀によって額に傷を負われ、左手を骨折せられたのである。
 これを小松原の法難という。
 仏法上の大罪である五逆罪のひとつに「出仏身血(仏の身より血を出だす)」という罪があるが、このとき大聖人の御尊体を傷つけた東条景信は、その後、日ならずして狂死してしまった。
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この回答へのお礼

お礼を申し上げるのが遅くなってごめんなさい。

連休で旅行にでかけてました。先ほど車で家に帰り着きました。ご回答ありがとうございました。

日蓮大聖人のお話は、初めて聞きました。そうなんだ、そんなことがあったのかと興味わきました。自分なりに、聞かせていただいたお話を手がかりに「東条景信」を取り囲む時代背景なりを観ていこうかと思いました。ありがとうございました。

お礼日時:2002/01/15 10:51

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