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題名のとおりです。セロ引きのゴーシュで宮沢賢治があの作品で言いたかったことはなんなんでしょうか?
教えて下さい。よろしくお願いします。

A 回答 (4件)

 正しくは《セロ弾きのゴーシュ》……弾き(はじき)と入力します。


 楽器を弾かない人たちには、いくつかの誤解があるようです。
 たとえば、練習に励めば上達する、というのも迷信です。
 
 ゴーシュのモデルは、友人の花巻高等女学校の音楽教師です。
 原 彬(首相の甥)に習った藤原 嘉藤治が、穴のあいた中古チェロを、
夜を徹して弾く姿に、賢治のイメージが投影されています。
 
 賢治もまた、嘉藤治に教わってチェロに取組みますが、嘉藤治夫人は
「ブーブーベーべー下手だったね、二人のセロは」と語っています。
 彼らも、多くのアマチュアとおなじように、呻吟していたのです。
 
 どうにかして美しいものに奉仕したいのに、猫の歯ぎしりのような音
しか出てこないもどかしさ、いますぐ有効な農業改革を必要としている
のに、芸術に名を借りた遊芸に時を費やしていいのだろうか……。
 
 若者が、音楽や文学に耽ると、たいがい「もっと大切なことがある」
と非難されます。労働や学業に励む方が、周囲にとって安心だからです。
 多くの若者は、迷っているうちに中年になり、老人になるのです。
 
 賢治は、幻覚のなかに登場した小動物たちの、さまざまな反応から、
きびしく虚しい現実にもどって、われに返ります。
 迷うことはない、つつましい喜びなら、遠慮しなくてもいいはずだ。
 
 楽長の叱責や聴衆の拍手も、ヴァーチャルな幻聴にすぎなかった。
 おそらく《インドの虎狩》という曲も、無味乾燥な《練習曲》を揶揄
しているのでしょう。いまだかつて誰も聴いたことがないけれども。
 
…… 彼らの友情が、熱いこころざしに向かったドキュメントを読んで。
(↓)内城 弘隆《宮澤賢治の友人:かとうじ物語》
http://freett.com/teftef/dokko/katouji.html
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私もNo.2の方と同じく法華経の「菩薩行」の教えがこの童話の背景にあると思います。

ただ、菩薩行を自己犠牲と考えるのは少し違うと思います。菩薩行の教えは「私たちは、互いに他の人の御蔭で生きている。それを忘れてはいけない。」ということです。

最初、ゴーシュはいくら練習しても、一向にセロの腕前が上達しません。しかし、毎夜ゴーシュの家を訪れる動物たちの相手をしているうちに、オーケストラ仲間も驚くほど上達します。

物語を読み進むと、当初不明だった動物たちの意図が明らかになってきます。猫は兎の、カッコウはミミズクの、狸の子は親の病気を治すため、ゴーシュに少しでも長い間セロを弾かせようとしていたのでした。

ゴーシュはそれらの動物たちの相手をすることによって、知らないうちに功徳を積んでいたことになります。その結果、自分に足りなかったものが、セロの技術では無く、セロによって表現する心であったことに気付くことができたのです。

そう考えると、セロ弾きのゴーシュの背景にある賢治の意思が、銀河鉄道の夜やグスコーブドリの伝記などの他の童話と共通したものであることが分かります。
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セロ引きのゴーシュは、展開として奇想天外なので、童話的な面白さが、あるのですが、何が言いたいのかというように考えると、ものすごく難しいと思います。



宮沢賢治は熱烈に法華経に表される自己犠牲に共感していましたから、本当は、賢治は奇想天外な童話としてではなく、自分自身の混乱を書きたかったのではないでしょうか。
この考えを説明するのは、今の私にとっては、かなり難しい作業になるので、漠然としたアドバイスで、失礼します。
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動物たちとの対話=自分の心との対話ではなかったのでしょうか。

主人公が心の中で整理の出来ない問題をかかえてしまったとき、現れてくる動物はその解決の何かしらのヒントを残してくれています。このことは全ての悩みの解答は、殆どの人が気がついてはいないだろうけれど、実は自分の中にあるということを言っているような気がします。
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