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江戸時代の貨幣で1分金と1分銀が同じなら支払いは1分金でお願いしますよと言いませんか?江戸時代の人間はそんな野暮なことは言わないのですか?

A 回答 (4件)

江戸と関西とは貨幣制度が異なっていましたから、米価同様に金銀の交換比率にも相場が変動しました。



金銀の交換比率に敏感なのは両替商などの商人で、毎日、それを連絡していました。
実際の決済などは既に為替制度が発達しており、貨幣の輸送は特別な事情のない限り不要でした。
一般庶民にとっては、金銀交換比率は商業秘密でしたから、表記貨幣の場合等価で使用されていました。
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この回答へのお礼

交換比率は両替商以外は秘密で庶民はそのさや得は得にくいと考えられますか、どうもありがとうございます。

お礼日時:2006/02/25 18:58

前の方が書かれていますが、江戸の金遣い、大坂(大阪)の銀遣いと言われていたように、関東では金貨、上方では銀貨が好まれていました。

     双方間の取引で両替は頻繁に行われました。     ただ両替の交換比率は両替商がよく知っていたので、庶民には利ざや稼ぎは出来ず、無縁だったでしょう。     しかし鎖国の間でも、盛んだった海外通商では違いました。     当時日本国内の金と銀の交換比率は欧州の交換比率に比して、銀の価値が高かったので、ポルトガル、オランダ、イギリスの商人は代価として、金貨を欲しがりました。     銀貨と金貨の両替は大量に行われたと思います。     日本はこれを知らなかったのです。     蛇足ですが結局大量の金が海外に流出しました。    日本は当時有数の産金銀国であり、同時に大量の銀も流出しました。   「外国へ入りし金は、只今我が国にある所の金の三分が一に当たれり、また銀は只今我が国に在る所の数よりは、弐倍ほど多く外国へ入りしなり。」と嘆いていました。
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この回答へのお礼

庶民には無縁ですか、どうもありがとうございます。

お礼日時:2006/02/26 17:45

一分銀は、関西方面の丁銀や豆板銀が、重量を以て貨幣価値の決まる秤量貨幣だったのに対し、額面が記載された表記貨幣ですので、貨幣価値としては、金貨である一分金と等価だったようです。



感覚としては少し違うかもしれませんが、昭和30年代に100円銀貨が流通貨幣として普通に使用されていました。
昭和32~33年の鳳凰100円銀貨と昭和34~36・38~41年の稲100円銀貨というものがありました。
http://www.boj.or.jp/money/basic/now/hyakugk.htm
昭和42年から現在の100円白銅貨になりましたが、私が小学生の頃、普通に銀貨・白銅貨関係なく使っていましたよ。(当時100円は私にとって大金でしたけど、そんなことを知らずに使っていましたよ、お使いなどで(笑))
たぶん、江戸時代も対して変わらない感覚で使っていたかもしれません。金銀かかわりなく、一分は一分として。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%88%86% …
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この回答へのお礼

額面貨幣だから金銀貨変わりなく授受してた感じですか、どうもありがとうございます。

お礼日時:2006/02/25 18:55

私が昔読んだ本では,江戸(関東)は金が主流,上方(関西)は銀が主流の通貨になっていたようです。


中国との貿易の主流が銀であったため,交易を行う関西地方が銀を主に使うようになったとか,金山,銀山の分布で佐渡・甲州を含めて関東に金山が集中していたなどという説があったと記憶しております。
だから,関東で銀を金に代えて貰うにはレートが悪い,逆に関西で金を銀に交換して貰うのも損だったとか・・ただし,為替差益を得るという考えをした人も居なかったでしょうが,やったとしてもその運搬費で為替差益は消し飛んだと思われます。
以上,ご参考までに。
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この回答へのお礼

そうですか、どうもありがとうございます。

お礼日時:2006/02/25 18:52

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