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「死刑囚」と言っても人間ですし、人間を殺してしまうと「殺人」です。「死刑」は、皆で口裏を合わせた「完全犯罪」の様な気がします。どういう考えで日本は「死刑」をするのですか?そして、あなたの考えはどうですか?「人は殺しては、いけないのではないですか?」

A 回答 (35件中1~10件)


死刑制度存続中の国に住む人が死刑制度を廃止すべきだという考え方になるのは、確かに難しいことだろうと思います。
最も大きな理由として、このような規範の中で長年暮らしてきたということが非常に重要な要素を占めるのではないかと、私は考えます。
「死刑は廃止すべきだ」という考えは、毎日お米のご飯を主食としている人が「来月からパン食にしましょう」と言われたような気持ちになるのと、どこか通底する要素を持っているのではないかということです。
単純に言うと、「慣れてないから嫌」「口に合わない(感情的に受け入れられない)」という感じでしょうか。

世界の半数以上の国で死刑制度が既に無く、またそれらの国での兇悪事件が比率的に多いということも無いように思います。
この10年間で、死刑を廃止した国、及び一部の犯罪についてだけ認めていた死刑を全て廃止にした国の数は約30ヶ国に上るそうです。
日本人とそれほど異なる人間とも思えませんが、この違いは何なのかということは、死刑制度を客観的に考えようとするのであれば大いに注目すべき点のように思われます。
制度を存続すべき理由として、社会的掟としての価値とか、被害者の身内の立場にすれば当然のこととかいうことが良く言われます。
そういった主張もよく理解できるのですが、私は基本的には死刑制度には反対です。
ただ、誤解の無いように補足しておきますが、連日のように報じられる残虐な事件の犯人に対して憎悪を抱く気持ちは恐らく誰にも負けないと思います。
また、身内を含めた親しい者が被害者になったとしたら、犯人に対してどのような行動を起こすか予想もできません。
しかし、それはあくまで感情であって「ひとつの制度を認めるかどうか」という判断の基準にするにはあまりに脆いものだと言わざるを得ません。


どんな理由があれ、「人を殺しては、いけない」のだろうと私は思います。
こう言うと、自分が殺されそうになっても何もしないのか、という声が上りがちですが、それは当然反撃するでしょうし、結果として相手を殺してしまうことだってあるでしょう。
しかし、それは「人を殺してもいい場合がある」ということではありません。
あくまで正当防衛の範囲で「止むを得ず、殺さざるを得ない場合もある」ということであって、殺人に積極的な価値を認め、その行為を容認することとは一線を画して論じられるべき問題です。
止むを得ずやってしまったことに対して他者の合意を得ようとする姿勢自体に無理があるのです。


では、なぜ「人を殺してはいけないのか」。
他人のためでも、社会のためでもなく、あくまで自分のためにならないから、というのが私の考えです。

サバンナの掟は弱肉強食です。
力の強いものが弱い者を餌食にして成立するのが動物の世界でしょう。
人間とて動物の一種ですし、ある意味では弱肉強食がまかり通っているわけですが、それだけではないでしょう。
人間には、他者の存在を(良くも悪くも)考慮できる「想像力」があります。
そして、この想像力こそが人間の人間たる所以ではなかろうかと考えます。
どんな場合であっても、いつか死に至った人間の心情を想像してしまうのが人間だろうということです。
ところで、死刑とは「法律的に認められた殺人」です。
あなたのおっしゃる、
『>死刑」は、皆で口裏を合わせた「完全犯罪」』との見方はそれほど見当違いではないでしょう。
どちらにしても「人が人を殺すこと」は確かです。
ただ、死刑執行は刑務官が2万円の手当てを貰って行ないます。
いわば国民を代表して行なうわけでしょうが、そのため一般の国民は「この手で人を殺した」という意識が相当薄いのだろうと思います。
しかし、刑務官とて人間です。彼らがどのような心理で死刑を執行するか、あるいはどのような心理をその後形成していくか、ということに着目することによって「人を殺してはいけない」ことの意味を説明できるように考えます。


「人を殺す」ことによって、いつか死に至ったものの心情を想像してしまう、と先に述べました。
同様に、「自分が人を殺す」だけではなく、「他人も自分を殺すことができるのだ」ということを実感として認識するに至ることのできる行為と言うこともできるでしょう。
これらの事実(と私は思いますが)が人間に作用する内容は、「人間への不信感」であり、「人間における可能性の否定」であろうと思います。
「人間への不信感」ということは、「人が人を殺す」のですから、たとえ無意識的であった場合でも【人としての自分】に対する不信感が容易に想像・醸成され、記憶領域に刻印されるということです。
「人間における可能性の否定」とは、殺すことで問題が解決すると思い込んでしまう安易な認識を指します。
これは個人的な殺人だけに限らず、死刑制度であっても同様のことが指摘できると言わざるを得ないはずです。
それは一般的な話であって、死刑になる人にはなるなりの理由がある、とお考えになる人も当然いらっしゃるでしょう。
しかし、元々万人に共通する「真実としての理由」というのは無いわけで、この場合の「理由」とは「一定の人々の考え方の総意」であるにすぎません。
そして人の考え方は変化しますし、決して絶対的なものでないこともまた事実です。
(という私の考えも絶対的でないことはもちろんです。)

このように、殺人は人間の持つ想像力を無視して、自ら気付かないうちに自らを負の可能性の方向へ引っ張ろうとする行為です。
死刑制度に至っては、その行為を他者に預けて自らのカタルシスの発散を遂げようとする、あるいは社会的合意として多くの人々がそれを容認しているかのような錯覚をもたらすという点で、廃止されるべきものでしょう。
想像力のない動物と同じ生き方を選択したいのでない限り、そのほうが明らかに人間として感得できる事柄の可能性は広がるはずで、そのことを重視できるかどうかというあたりが考え方の分かれ目になるような気がします。


ところで、矛盾するようですが、日本の刑罰は生温いと感じるのは私だけでしょうか。
心のケアが出来ない(方法論を知らない)にも拘わらず、刑期が一般に短すぎるように思います。
明らかに自分勝手で一方的な殺人であっても、無期・有期懲役であったりします。
途中出所や恩赦を一切認めない『終身懲役刑』を取り入れ、現在の死刑相当刑を初め、無期・有期懲役相当刑も含めて大幅に適用すべきではないでしょうか。
これは、いわゆる【応報刑論】に基づくものではなく、犯罪者を更正させる能力を人間は未だ持ち得ていないという単純な事実に基づいて、一般国民の安全を有効に確保するための方法としてのものです。
無論、本題である「人が人を殺す」ことによって派生する様々な後退的展開を予め避けるためでもあります。
いずれにせよ、犯罪を犯したくて犯す人はいないのです。
犯罪者は、この社会自体を環境として生育してきた人間という生き物です。
社会自体が歪んでいないのに犯罪が起こるわけがないのです。
そして、その社会を形成しているのは紛れもない私たち一人一人であり、「私たちの(結果としての)総意」が彼らを生んでいるのだという厳然たる事実から目を背けては、根本的な解決にいたる時は永遠に訪れないでしょう。

この回答への補足

「止むを得ず、殺さざるを得ない場合もある」良い表現だと思います。ありがとうございます^^

補足日時:2006/03/06 02:27
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この回答へのお礼

ありがとうございます。また、おねがいします。

お礼日時:2006/03/13 03:17

あー…、いや、そもそも、なぜ刑罰なんてあるんですか?


もちろん、人の嫌がることをした人間には、腹は立ちますし、何か、それ相応のつぐないをして欲しいと思ってしまうのは、誰にでもあることですが、だからと言って、目に見える形での「刑罰」なんて、何か、ずれていませんか。
死刑云々の前に、刑罰そのものの意義がはっきりしていないと、死刑の意義なんて、結局はどこかで矛盾が起きて、最終的にはごまかすか、あきらめるしかないですよね。
…生まれてこの方、僕は「刑罰」のような目に見えるつぐないを、自分で考えたり、思い付いた事なんてありませんでした。
いつの間にか、「悪い事した人は、牢屋に繋がれる」と教え込まれてきて、僕もそれに何となく納得してました。というより、覚えてきました。
でも、本当に必要なのは、その「罪」を「精神的」に償う事、できれば、償わせずに今後「罪」を犯させないように改善させる事なのではないでしょうか。
「刑罰」とは、金とか、名誉とか、欲を第一と考える人達が、自分達のそれらを守る為に作った都合のいいものです。
本当に「罪」を無くそうと思うのなら、「罪」を犯した人の、それまでの何十年間もの人生を、拘留などという安易で効率的な方法で解決するはずがありません。できるはずがありません。
…質問者様のご質問内容から逸れてしまって、すみませんでした。
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まず、なぜ、人を殺してはならないのか?本当に殺してはならないのか?その根拠を深く考える必要があると思います。



 私の考えですが死刑による殺人の根拠に、あらゆる人間の命の重さは等価であるという考えがあると思います。

 日本の法律で死刑が規定されている犯罪はどれも人の命に関する犯罪です。お金や財産などにのみ関する犯罪は無いはずです。

 中でも一番重い罪は外患誘致罪(刑法81)だと思います。これは外国政府と通じて日本に対して武力を使わせる罪です。ほかは死刑以外もありますがこの犯罪に関しては未遂であろうと死刑以外はありません。犯罪の結果多くの人間の命が失われるからです。

 死刑囚は言われるまでもなく命を持った人間です。一人の命の重さが同じなら、1を助けて100を殺すのと、100を助けて1を殺すのとではどちらが平等でしょうか?1を殺して1を助けるだと微妙です。

 日本の死刑制度の意義として、社会にいてもらっては危険な人間を永久に排除するというのが第一で、被害者の恨みを晴らすと言うことは殆ど考えられていないと思います。

 つまり人間皆死にたくない、殺されたくないので人を殺さない。ただし、殺さなくては殺される場合は殺します。それが死刑という刑罰の意味だと思います。 

 答えは日本では死刑があることで犯罪の予防効果があると多くの人に考えられているので死刑という制度があるというのが答えでしょうか。
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回答にならないと思いますが、実際にあった実例だそうです。


(おそらく日本ではないと思いますが…)

ある死刑反対論者がおり、その息子が強盗に殺されたのですが、
程なくして犯人は逮捕され、その父親は死刑賛成にまわったそうです。

息子でなくても、肉親や友人、恋人でもいいでしょう。
大切な人の命を奪った人が、今あなたと同じ空の下で生きているとします。
ご自身の立場に置き換えて、考えてみてはいかがでしょうか。

それと「バカは死ななきゃ直らない」という言葉もあります。
いずれにせよ答えは貴方でご判断下さい。
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私も死刑には反対です。



何故なら人間は真実を知れないし、絶対的間違いの無い判断をできる人は一人もいないからです。

では、沢山の人を殺したとして、自白し、その自白とおりに凶器が発見され、殺害のやり方も、調べと一致して、その人しか知り得ない情報をその人が喋ったとすれば、殺人をしたのはこの人しかありえないとなるかもしれない。

同じ現場にいて殺人を実行した人は他にいて、その人を庇うために自分が身代わりになるため、なりすましていた可能性もある。
他の可能性もあるかもしれない。
例えば
http://www.fujitv.co.jp/unb/contents/p76_1.html

http://www.fujitv.co.jp/unb/contents/p173_1.html

このように人間は絶対的な記憶・判断ができないので死刑は廃止するべきだと思います。

確かに家族を殺された人は、同じことを犯人にやり返したいでしょう。
でも、仮に本当にその人が家族を殺したとしても、どうしてそのようなことが起こったのかを詳しく調べ、二度と起こらないようにするにはどうしたらいいかを考えることまでするべきだと思います。

人を殺したから処刑 ではエンドレスに同様の犯罪は起こります。
自分以外の人もまた家族を殺され続ける。

だから罪を断定しても、死刑にしないで、何が原因で起こったのか詳しく調べ、その結果を社会に還元することだと思います。

でも、寿命がつきるまで一人の人を生かすには、税金を投入しなければならない。
刑務所の維持費だけでも膨大な財政の圧迫。
これが社会の限界だとするのなら、自分がもし冤罪事件に巻き込まれ、物的証拠も合致し、目撃したという人も現れ、殺人の罪が確定したとき、素直に諦めるのか?
死刑になることを素直に受け入れいれられるのか?

ありえない目撃情報に対抗せず 素直に受け入れるのか?
もったいないから処刑とかつて思っていたので、処刑を受け入れるのか?


人を殺してはならない。
日本ではこの言葉には<ただし>がつきますね。

http://homepage2.nifty.com/shihai/shiryou/abolit …
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この回答へのお礼

ありがとうございます。始め辺りは、感情に任せた意見が多い様な感じがしましたが、ここら辺にくると、どうであれ客観的に見てからの意見が多い様な気がします。

お礼日時:2006/03/09 04:18

小学生の屁理屈レベルの回答を書きます(笑)



スピード違反の車両を捕捉するため、パトカーは法定最高速度を超えることが許されています。同じことです。「スピード違反をしては、いけないのではないですか?」

殺人の罪とスピード違反の罪を同列で扱うことに憤りを感ずる人もいるかもしれませんが、構造として同質です。殺人罪は、モーゼよりも太古の昔から連綿と伝えられているせいか、他の罪とは質が違うように思われがちです。死という極めて人間の根本の部分に関る罪であるため、別格扱いされる傾向にあります。

しかし、他の法と同じく、ただのルールであり、されどルールなのです。ペナルティの軽重については妥当性が吟味される必要がありますが、それとはまた別の議論です。
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 回答が全体的に哲学的・道徳的・倫理的観点に偏っているので、バランスをとるため、少し別の観点(社会学)から述べたいと思います。



→「死刑」は、皆で口裏を合わせた「完全犯罪」の様な気がします。

 この意見は、一見すると屁理屈のように受け取られかねませんが(笑)、良い点をついているとは思います。社会学的に申しますと、死刑は現在のところ近代制度(法律)として確立されているのですが、これは広くいって、国家による暴力の占有です。
 実は死刑というものだけでなく、核や軍隊(日本は自衛隊)など、あらゆる暴力手段というのは国家が握るというのが近代の大原則です。現在は武器の製造を民間の企業がずいぶんと行うようになりましたが、それでも外注(アウトソーシング)でしかありません。依然として「国民国家nation-state」は近代が生んだ暴力装置を独占しているのです。
 これは別に悪いといっているのではなく、私たちはそれに合意しているわけです。古典的には、これを「社会契約」と呼びます。つまり、「人々がおのおのの利己欲」にしたがって争い、収奪し、支配することを避けるために、そして社会の秩序を維持するために、「国家」という「秩序の平定者」を打ち立てる必要があるのだというわけです。これはいまなお一定の説明力がありますね。死刑制度は、基本的に「人を殺す」という正当性をもつ唯一の例外です。
 「人を殺すことはいけないか」、これはおそらく人類がたえず考えてきた究極の倫理的命題です。本質的にはこれが良いか悪いかということに解答はありません。それはなぜか。ケースバイケースというのが事実です。そしてその決定権は、現代社会においては各国の国家主権にあります。
 「殺人はいけない!」ということは誰にでもいえますが、実際はもう複雑です。以下のケースを見てみましょう。
 
その1
 アメリカはイラクを不当に侵攻し、多くの殺戮を行いました。しかし、その後大量破壊兵器があるということが事実無根であるということが明らかになりましたが、ブッシュ及びアメリカはこのことに一切に責任を問われ、裁かれていません。これは完全に「殺人」の正当化です。

その2
 北朝鮮はその国家の制度に基づいて、人々を強制に集めた上で、国家の反逆者を公開処刑を行っています。それを見て、多くの日本人は「野蛮な北朝鮮」と思っている。これは北朝鮮にとっては「死刑制度」であり、矛盾?

 いろいろありますが、殺しがいかにその場によって評価が変わるかが分かると思います。とくにイラクの例が顕著です。ほとんどの日本人は、報道に踊らされ、「アメリカの弔い合戦」はやむおえないと「殺人」を認めていました。しかし、結果はむちゃくちゃ…大量破壊兵器の存在が否定された状況では、もはやただの占領行為です。
 
 死刑制度がなぜ廃止できないのか。それはぶっちゃけた要因として、収容には「金がかかる」からです。アメリカでは、犯罪の急増とともに、どこの収容所もいっぱいで財政的負担に困っている現状のため、少しずつ民営化するという状況が生まれています。
 普通に考えれば、日本が無期懲役で10数年しか投獄せず、なぜ終身刑(懲役100年とかになる)を認める選択をしないのか。それは金がかかるからです。そもそも無期懲役か、死刑かという議論、死刑制度の是非という枠組みだけで話をすることが間違っているのです。
 死刑の倫理的問題以上に問題なのは、実は投獄しつづけるための「金」なのです。
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もし神がいるならば、死刑は人間には許されません。

「復讐するは我にあり」という言葉があります。最後の審判で善人も悪人も裁かれるのです。もし殺されても教えを守っていれば天国にいけるし、もし殺せば神様に永遠の煉獄に落とされ、復讐されるのです。

もし仏がいるならば、死刑は人間には許されません。お釈迦様はいかなる殺生を禁じておられるからです。人を殺した人間は、輪廻転生、生まれ変わって豆や穀物になり、家畜の餌になることでしょう。

しかしこの殺伐とした世の中に神様も仏様も現れてくれないようです。もともと神も仏もいないのかもしれませんね。ビッグバンで物質が戯れに生命なるものが生じて、他の生命体は弱肉強食の世界に生きています。人間だけが良心と理性を持っているので

「なぜ殺してはいけないか?」
「なぜ死んではいけないか?」

と殺人と自殺の是非について悩みます。多分人間の知恵では納得のいく答えは出てこないでしょう。死刑制度は、犯罪を抑止し、善良な市民が安全に生活を送れるようにするための人間の浅はかな知恵です。でも非常に効果があります。

一方、不治の病に犯されても延命治療で苦しみ続ける人がいます。日本でも毎年数万人の人間が様々な事情で自ら命を絶ちます。ほとんどがうつ病を病んでいるそうです。どうして死刑制度を持っている国がこういった人たちを尊厳死・安楽死させる制度を設けないのか、あれば失業問題の解決にもなるのに、といったら危険思想だと言われてこの投稿が削除されてしまうかもしれませんが、これはかの「ガリバー旅行記」を書いたスウィフトも同様なことを言っているのです。

失業による雇用不安と犯罪の発生は相関関係にあります。失業者による強盗殺人など冠たる例です。死刑制度はある程度の抑止力になりますが、根本的な犯罪撲滅までは出来ません。

この国に死刑制度があるのは、神も仏もいないからだと思います。人間ひとりひとりが魂の覚醒をしなければ、こんな制度は永久になくならないと思います。
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あなた自身の立場を明示した方がいいんじゃないでしょうか?


結局、何が聞きたいねんッ!と……。
あなたが「死刑」や「殺人」の是非をどう考えてるかわからないから、論点がぼやけます。
どうして日本が「死刑」をするのか?
あなたの立場によって、この質問の真義が違ってくる。
「死刑」反対論者なら、もちろん制度の是非を問うことに。
賛成論者なら、合法的「殺人」に対する道徳観に焦点を当てることになる。
あなたの意図が包括的だとしたならば、もっと率直に聞くべきですしね。どうして日本が「死刑」をするのかという問ではなくて。

以下、拙者の考え。
俺は行政的に「死刑」は必要だと思いますけど、やっぱり今の刑法を中心として、法体系が甘い感は否めないですね。特に刑法第三十九条あたりが。
刑法っていうのは、落とし前つけるために出来上がった。
法なんてもんもない時代に生まれた人間が、だんだん集団で生活するようになり、長をつくって、ケンカしあって、やがて秩序とかね、権利とか維持しようと思ったときに、やっぱりルール決めようやってことになった。
こんなことは割とスッと理解できますよ。
だから、法は必要で、もちろんそれ自身の否定はないんですけど、刑法って違うもん較べるわけでしょ。
罪の重さと罰の重さ。
これってね、非常に難しかったと思うんですよ。
今でも決着ついてないように。
だから、すごくわかりやすい法典が出来た。つまり、社会の要請です。
それがハムラビ法典。「目には目を、歯には歯を」
初期の刑法は、もちろん単純論法で来たわけです。
やられたことをやり返してやったらいい。
すごく単純です。今の小学生でも考えますよ、ルール作れって言うたらね。
でも、実際にはそんなに上手く割り切れなかった。
情状とか、過失かとか、そういう問題も出てきたわけです。
だから、単純に人殺したから「死刑」ね、っていうのは確かに旧態然としたところはあるんですよ。
でもね、やっぱり行政的に犯罪者を生かしておくっていうのは、すごくコストのかかることでね。
“権利”“チャンス”ばっかり言うてたらあかんと俺は思う。
「死刑」制度っていうのは、やっぱり落とし前をどうつけさすかって考えたときに、最終的判断だと思います。
だから、日本はいまだに「死刑」を廃止してない。
俺もそれでいいと思います。でも、刑法は見直したほうがいい。少年法とかも含めてね。
ちなみに、俺は人を殺してはいけないと思いません。
俺は、人を殺した人間が、きちんと落とし前をつけられるような社会になることのほうがもっと大事だと思います。
人間は完璧じゃないし、殺意なんて絶対持ってる。
だから、それを支持するとか肯定するとかじゃなくてね、「人を殺してはいけないんだよ」っていう道徳から出発したって、結局はね、実際的な“power”を持ってるのかなって、確かに昔はね、それがすごく“power”を持ってたのかも知れないですけども、今はどうも持ってないですね。
だから、「人を殺してはいけないんですよ」って言っても、「じゃあ、なんで人殺しのほとんどはそう言ってる大人の方にいるの?」とか「それなのに、なんで毎日起きるの?」とか言われたって反論のしようないですよ。
だから、「死刑」を道徳論から切っても刃こぼれした包丁で切るようなもんでね、行政とか法制度、秩序維持っていうとこから切って行ったほうが、実利的だと思うんですよ。
こんなことを言うと、道徳観とか倫理観はないのか?とか、おろそかにしていいのかという反撃があるんですけど、それは個人個人がやったらいいことでね、もうほとんど宗教と一緒なんですね。
信じるものだけが拝めばいいというようなもんです。
だから、神を信じる人には神が存在するのと同じように、道徳も信じるものだけに存在するんですね。
だから、それを軸に善悪を論じるとか、正しさを問うということは、それぞれの宗教の教義に従うようなもんでね、あやふやなもんやっていうのは目に見えてわかるでしょう。
だから、「死刑」は俺は必要やと思いますけど、論じる時は道徳ではなくて、行政や法制度っていう切り口から論じる。そして、道徳は結局個人の価値観に収斂するんですってとこ押さえとかないと、「死刑」がなぜいいか悪いかはそんなとこに答えないですからね。必要やから出てきたわけで、不必要になったら淘汰される。でも、俺は「死刑」はなくならないと思いますよ。だって、そんなに地球は誰も許せるほど食料も土壌も無限じゃないですからね。
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死刑を認めないEUなどと比較しての問だと思いますが、日本では、どんなに悪い奴でも死ねば神様・仏様になれる、というのが大きいと私は思っています。

日本では、死によって全ての罪は赦されるのです。この辺が、死者に鞭打つようなシナ・朝鮮と全く感覚が異なる日本人の感性であると言えるでしょう。死刑廃止は、死刑囚の「罪を償う」権利を侵害することになるので、私は死刑を存続すべきであると考えています。また、死刑になるような奴を生かしておくことには、次のような弊害があると思います。生きている以上、脱獄の可能性は皆無ではなく、そのためには、死刑がないのであるから、看守を殺すかもしれない。死刑囚のような人間のクズを生かしておくことに税金が無駄遣いされることは許せない。遺族感情に考慮すべきである(日本では、殺人罪以外にも死刑の規定があるものがあるが、現実には、死者が出ない事件で死刑になることは有り得ない)。
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