アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

私は大学の物理学の教授から
『学問の頂点に立つのは哲学だ。哲学の発展なくして自然科学、物理学は現在に存在し得ない。』
と教わってきました。

私もアリストテレスの時代のエーテルや4元素説から、ロックの経験主義、ルソーの啓蒙思想などを経て、哲学の発展と共に自然科学が発展していたものと思っています。
もちろん時代を間違えた有能な科学者が日の目を見ることなく没することも多々ありましたが…
常に時代や科学の指針付けを行ってきたのが哲学だと考えています。

そして現在、自然科学では生命倫理、特許権争い、捏造、従来の定義での問題性(例えば心理学は科学か否か)など様々な問題が起きています。

今一度、哲学が自然科学の指針を導く重要な転機だと思います。

そこで
現代における哲学の自然科学における役割とはなんですか?
また現代科学の問題点にメスを入れるようなことは現在していますか?

A 回答 (9件)

哲学無き科学は人を幸せにしないのだと思います。


経済学も国民が豊かになるように、と研究される場合人を幸せにしますが、いかに儲けるかを追求すると弱者から効率よく集金するシステムの考案につながります。医学も然り(人を幸せにする目的があるならどうして研究結果を捏造などできるでしょうか?多くの薬害や公害事件も忘れてはいけません)
アポロ計画やヒトゲノムの解読だって人を幸せにしなければ膨大な費用の割には何も残らないでしょう。

ですから
>現代における哲学の自然科学における役割
とは研究結果ではなく、研究目的に対して語られるべきだと思います。(研究者がその研究を始めるきっかけでも良いでしょう)
また既存の技術に対する活用指針ではないでしょうか。(遺伝子組み換えやヒトクローンは「できるか否か」のみならず「やるべきか否か」も考えねば人を幸せにできないと思います)

正しい哲学は科学に対する足かせではなく、科学の羅針盤となる事ができるのです。
どんなに科学が進歩しても研究/活用するのは人間だから、そして人間がどのように生きるかを考える学問が哲学だからです。

役割が終わったのは哲学ではなくイデオロギーでしょう。イデオロギーは科学を混乱させ研究結果を捻じ曲げるからです。(イデオロギーが絡んだ歴史学・考古学の珍妙さは説明するまでもありません)

>現代科学の問題点にメスを入れる
社会科学においてはあるでしょう。(貧富の差を生み拡大させる現在の経済学に対する批判とか)でも多くの哲学者は文系のせいか(?)あまり自然科学の分野においては発言していないかも知れません。

この神なき国にこそ、哲学が必要ではありませんか?
え?日本は神の国だって?昔はね。でも今はお天道様なんて知らないで、カネが全てという人ばかりですからね。

P.S.
その物理学の教授は謙虚な方ですね。普通はご自分の学問を持ち上げるものですが、その教授の発言が今ネットで別のディベートを生んだ、こういった智の連鎖は喜ぶべき事だと思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
まさにその通りだと思います。科学はチャレンジすることに重きを置いてしまい、結果何が引き起こされるかを考えず暴走してしまうことはままあることです。
昔は科学者が哲学者をかねることが多かったですが、今は哲学=文系で自然科学に対して発言できるほどの力がないのかもしれないですね。

お礼日時:2006/03/13 09:36

科学は人間の興味がある方向に発展するのだと思います。



物質はどこまで分解できて何からできているのか?時間はいつから始まりどこで終わるのか?空間ってなんだ?といった質問が科学を推し進めてきたのだと思います。(定義によりますが)哲学はこういった疑問をひっくるめて、人間が疑問に思う事柄、さらには、その事柄自体、人間はどう捉え、その根拠はどこにあるのかなどなど、回答をだそうとしてきたし、これからも回答を出そうとするでしょう?そうしてそれと平行して科学も発展してきました。たとえば、空間を3つの数で表したり、摩擦の無い運動といういささか思弁的な考察から慣性の法則が見つかり、力が「発明」されたのでした。(さらに、最近の例でいえば、アインシュタインがいなかったとしても、空間というのは、物質や時間が無ければ、何も動いたりしないために、広がりなど認識しえないものなので、物質や時間の性質が反映されたものであるはずだ!という考えを突き詰めていけば、いずれ誰かが相対論を導き出したでしょう。・・・本当か?)

しかし、人間はあるとき他にも興味をもったように思います。それは、個人としての興味というよりは、人類という得体の知れない集合体の持った興味です。何かというと、経済(工業)に関する興味です。生産性を上げるために動力機関や化学生成に関する知識が飛躍的にのび、現在までの革命的な発展を遂げてきているのだと思います。これは、ある意味、人間の本能(本性)に根ざした興味がもたらした科学の発展と言えるのではないでしょうか?(もちろん、その間にも、純粋な科学的興味により発展した物も枚挙にいとまがないほどありますが)

で、ここから非常に飛躍するのですが、「理性」、「本性」ときて、その次は「根性」かな?と勝手に思っています(「性」でまとめてみました)。「根性」とは、つまり、人類が招くであろう「人口爆発」や「環境破壊」といった、人類がコントロールしきれない(と思われる)問題がつきつけられたときに、それを解決していく場面で、それを何とかクリアーしていく力です。その力がもたらす興味によって新たな科学の発展の方向がでてくるんじゃないかな、と思っています。いままでは、人間の内面からある意味主体的に発生してきた科学ですが、これからは、外から突きつけられた問題に対峙して、がんばる科学が出てくるという意味で「根性」による科学ではないかと思うのです。それで、さらに進めて、根性ってなにかなと思うと、心で本性を押さえることなんじゃないかなと思うんです。つまり、いままでLogosとPathosで動いてきた科学がこれからはEthosによっても突き動かされていくのではないかと思うのです(「-os」でまとめてみました)。

少し具体的にどんな科学かということを想像してみます。
「理性」が科学の基礎となる要素を追求して、「本性」が「できるだけ!より多くの!」という要望から、一様な条件を整えることで、科学の要素の適用範囲を広げ、あるいは、要素に還元することにより、科学を人の力の一部としてきたのに対して、「根性」は「本性」というつかみどころが無く抑えきれないものを、どうつかみ、要素に還元することなく、どうコントロールするか、という科学を発展させるのではないかと思います。(・・・なんかありきたりな話になってしまいました)

で、もとの質問に戻って哲学は科学にどう貢献していくのか?ですが、ひとつは(1)科学の基礎となる要素を追求する駆動力として機能すること、もうひとつは、(2)人間(人間の活動)というつかみどころの無いものを捉える新たな枠組みを考えるための出発点となること、が期待されるのではないでしょうか?
(1)は昔ながらの営みなので、本質的な気づきがあれば必ず科学に反映されるはずです。(2)はなぞです。社会科学のようなものには反映されると思いますが、おそらく人間の考え方(倫理観等)に直接影響する部分の方が大きいように思います。いずれにせよ(2)の部分は、世の中がひとつになる方向に動いている以上、これだけ複雑な世の中を束ねる最大公約数的な規範を作っていくためにはとても重要なはたらきだと思います。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
哲学の科学に対する貢献は出発点や駆動力など、非常に前向きな役割を持つことがよくわかりました。
また『根性』は普段使っているとはいえ、盲点でした(笑)
複雑な世の中の規範を創ることは大変なことですが、哲学は大きな使命を背負っているんですね

お礼日時:2006/03/13 10:42

私は哲学を構築するための情報を集めるのが科学の役割だと思っています。



例えば、宇宙物理学においては「認識なくして存在なし」という概念の理論的な検証において、
あるいは生物学においては「ウイルスは生命か否か」という論証における生命の定義(DNA主体論等)において、
それらの新たな情報をどうやってまとめるかが哲学の役割だと考えています。

かつて食物連鎖という情報を哲学してまとめた釈迦がいたように、あらたな科学的発見の数々を検証して哲学しなければ、何のための情報探索なのかわからなくなってしまいますから。

人類はその存在意義を探り続ける。
そこに哲学があり、世界を観察するために科学がある。
と私は思います。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
>哲学を構築するための情報を集めるのが科学の役割
とありますが、現代の科学は目的が哲学構築ではなく、利益、名誉、知的探究心の満足など、他の目的になっている気がします。
基礎研究ですら自身の科学の構築が目的で哲学構築は芥ほど感じてないように思われますが…
また複雑な情報が多すぎて哲学が対処し切れていない感じもします。

>それらの新たな情報をどうやってまとめるかが哲学の役割だと考えています
ぜひこの役割を積極的に果たしてもらいたいものです。

お礼日時:2006/03/13 09:58

ギリシャ思想、インド思想、中国思想などの大きな思想潮流は全て人間と宇宙との関連を追及する哲学から生まれています。

原初では哲学と宗教の違いさえ曖昧でした。その中で知識を重視する潮流が哲学となり、世の中の現象を探求し、知識が蓄積する過程で自然科学、人文科学、社会科学などの専門科学に発展していったと理解しています。

現代では生命の問題(クローン、脳死)、社会の問題(戦争、虐待)など難しい問題が突きつけられている時代ですが、専門科学が個別に対応できる状態ではないです。やはりアリストテレス的な総合的な科学態度で臨まなければ解決できないのです。それが現代における哲学ではなかろうかと思うのです。また現代の哲学も自然科学、人文科学、社会科学などの専門科学の成果を抜きにして物事を語ることはできないということも認識すべきだと思います。

ギリシャ語で哲学は「フィロソフィア」すなわち「知を愛する」ということですが、ソクラテスの原点に戻って「汝自身を知れ」の精神で、これまでに築いてきた文明・文化がかもし出してきた様々な深刻な事態に対する批評精神を発揮することがあらゆる科学の頂点である哲学の現代的責務であろうと私は考えます。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。
総合的な科学態度ですか。現代の専門分野はあまりに発展しすぎて、なかなか総合的な態度は難しいと思います。
視力のいい人は遠くまで見渡せるが、地平線の向こうは見えないことと同じで、総合的立場では古典自然科学までが限界だとは思います。スペースシャトルから地球を観察するほどの総合力が必要になりそうですね。
重ねて回答ありがとうございました

お礼日時:2006/03/13 09:48

科学や心理学が人間の悩みを解決出来たでしょうか?


以前それらは宗教や神霊家、哲学に任されてきました。

正しくは哲学を科学で昇華させるのが適当でないかな?と思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
なるほど、哲学で科学の指針を決めるのでなく、科学による発展が重要ということですね!今まで科学と哲学に一線を引いてしまっていましたが、斬新な考えですね。ありがとうございました

お礼日時:2006/03/13 09:38

温故知新って感じですね。

細分化された科学も限界なのかな?ニューサイエンスとか、統合科学では、広範囲の知識、理解が必須になります。(宗教、政治、経済、心理学、芸術、医療、etc)

物理も量子力学までいくと記号や論理では表せなくなって哲学になっちゃうそうです。「哲学は科学の詩」といいますし。

「科学に思想(芸術も)は要らないし、思想(と芸術)に科学は要らない。
だが、人間には両方必要なのだ」/タオ自然学より抜粋

人間ほどデーター化して再現したり、証明しにくいものはないでしょう。
でも人間なら共感したり感動することが心地よいことは理解している。

>今一度、哲学が自然科学の指針を導く重要な転機だと思います。

私もそう思いますっ。って学者でも何でもないんですけど、言ってみました。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

同感の方がいることをうれしく思います。
私の主観では哲学を幹として、先端になるほどニューサイエンスに行くと思っていますが、どうも最近ニューサイエンスの成長が目覚しすぎて、幹が悲鳴をあげているように感じています。
参考になるアドバイス、ありがとうございました

お礼日時:2006/03/10 15:31

確かに今はなんにもなさそうな気がしますね。


これだけ科学が発達した今、新しい哲学が担うのはトンデモの世界のような気がします。

錬金術の時代ならその役割も大きかったのでしょうが。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

確かに化学の前身である錬金術は哲学により近い関係にありましたよね。
やはり発展によって哲学とは疎遠になったってことですかね。
ご回答ありがとうございました

お礼日時:2006/03/10 15:24

ありとあらゆるジャンルのひとは、自分のジャンルが一番だと思っています。



自然科学に、イデオロギーや哲学が介入すると、ろくなことにならないと思いますが。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

確かに僕も科学、こと化学至上主義です(笑)
ただ、今までの歴史において、特に経験主義の導入は自然科学を飛躍的に成長させています。それを考慮すると介入によってろくなことにならないどころか、発展に貢献する可能性もあると思います。

大変参考になりました。ご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2006/03/10 15:21

>現代における哲学の自然科学における役割とはなんですか?



私は無いと思っています。
哲学から科学が分化していきましたが、結果、もはや哲学は出汁ガラだと思っています。
新しい出汁が出て来る可能性はあると思いますが、出汁ガラに出汁が戻ってゆく事も価値もありません。むしろいつまでもガラを留めておくと雑味が出てきてせっかくの出汁が台無しになってしまいます。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

なるほど。
もうすでに科学は哲学から自立したと考えてしまっていいようですね。科学の指針作りを哲学に押し付けるのもおこがましいかもしれません。
ただ、哲学は出汁ガラとおっしゃいましたが、かつお節も昆布もしょうゆで炒めればご飯にぴったりです!
これからも哲学はうまい学問だと思いますよ

お礼日時:2006/03/10 15:16

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!