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 昔々のそのまた昔、日本の歴史は邪馬台国から始まったよーな
気がします。(世界史選択だったので、うろ覚え)

 その後、バンド→部族制→首長制→国家と社会進化していく
過程で、日本にも「首都」とゆー観念(国家の”政治機能”の中枢を
担う都市)が生まれてきます。

 最初は、奈良の平城京(710年)、次が京都の平安京(794年)
だった気がしますが、長岡京(?年)ってのが途中にあった
よーな気もします。

 ここからが本題ですが、その後、武士が台頭して源頼朝が
朝廷より征夷大将軍の命を受け、良い国(1192年)作ろう
鎌倉幕府を開きます。

 ここで「首都」の定義も問題になってきますが、一般的に
考えられているよーに「政治機能の中心を担う都市」が首都ならば、
鎌倉時代の首都は鎌倉になるのでしょうか?

 次に室町(1338年)、江戸(1603年)と幕府(政治の中心)
は移り変わって行きますが、朝廷(天皇)は鎌倉時代を含め、
1867年の大政奉還まで京都在住です。

 日本独自の観念なのか、ボクの思想がセンター寄りライトだから
なのかは不明ですが、天皇がいる場所=首都なイメージがあって、
明治政府ができて王政復古するまで日本の首都は
京都な感じがするのですが、そうではないのでしょうか?

 また、武士の出身でないがために征夷大将軍に任命されなかった
「太閤」秀吉は幕府は開けませんでしたが、大坂城を拠点に
太閤検地や刀狩りなどを行い、当時の政治的中心地は「大坂」
=首都=大坂と考えても良いように思いますが、大坂が首都機能
を要していたとゆー観念は薄いように思います。

 日本人なのに、自国の首都の変遷がイマイチ理解できてない
のを寂しいと思い、質問しました。

 そもそも「首都」の観念から間違ってるのかも知れませんので、
その辺も含め、ご教授いただければ幸いです。

A 回答 (12件中1~10件)

日本の例ではありませんが、例えば、中国の周には、祭祀の為の都と、行政の為の都と、軍事の為の都があり、周王は行事がある度に三都を行き来しています。


現在の「首都」は、「その国の行政府があり、首長が常駐している都市」と言う意味で使われていると思います。多かれ少なかれ、中央集権的で官僚制度を伴っている現代の行政機関ですが、歴史的に見た場合、そうした国家が一般的になるのは近代になってからです。
モンゴル帝国のように、首長と行政官僚がパオで移動しちゃう帝国もあったわけで、また、封建制度のように、各地域に行政の中心があった時代もありますから、基本的には、その国の首長が都市に定住している場合は、そこが首都で良いのではないでしょうか?

と歴史好きな素人は考えています。
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この回答へのお礼

 どっかの○Qサプリじゃないですが、スッキリなご回答ありがとーございます♪

 行政の中心機能を担う都市=首都とゆー観念は、近代国家誕生以降。
 それ以前は、首長の定住地=首都ではないか、と。

 そーすると、やっぱ鎌倉・室町(京都)・徳川(江戸)は首都じゃなく、大政奉還まで京都(多少の移動はあったよーですが)とゆーことですね。
 投稿してくれた皆さんの考え方も、高校日本史の観念もそーみたいなので、無理に現代の視点から「首都」と括ること自体が無茶な話なワケですね。

 周とモンゴルの例え、何かスゴく納得できました♪ありがとーございます(≧▽≦)

お礼日時:2006/03/21 22:31

tachiuo様



それともう一点お聞きしたいです。
1183年には鎌倉には東国支配が確定されて行政府が確立されたとのことですが、中央行政権(西国及び京都の行政権)、実効支配地域と非支配地域の人口バランスはどうなっているのでしょうか?それは朝廷は承認していたのか?(現在で言う内閣総理大臣の任命)

明治27年に大本営(天皇及び軍の中枢)は広島へ移動しているがこれも首都の移動になるのか?

何を以って天皇とし、そこを首都とするのか?
行政府はどの支配状況になった段階で中央行政府と考えるべきなのか?

専門家の立場から教えてください。
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この回答へのお礼

 早く質問への回答に反応するのが最低限のマナーだそーですが、tachiuo様から回答来ませんね。
 暫く締め切らずに置いておきます。

お礼日時:2006/03/21 22:21

tachiuo様



専門家のようですのでお聞きしたいのですが天皇(国王)が居住する場所が首都で、時の政府(それが一部であっても)が存在した場所が行政府所在地だとするならば、下記の国は次の通りで良いのでしょうか?

カナダ・オーストラリア・ニュージーランド…首都・ロンドン(元首所在地)
オランダ…首都・ハーグ(元首所在地)
セルビア王国…首都及び行政府・マドリード(亡命国王政府所在地)
イラク…中央行政府・サドルシティ(政府実行支配のシーア派拠点)
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 私の回答に、書き換えたために生じた誤植(というのかな?)があったことを、まずお詫びします。

「明治」と「大阪」が重なった部分がありました。
 その、大阪(大坂)で、若干補足したい事がございます。大阪は、実際には何度も首都になったことがあるのに、歴史用語的には随分損をしていると思います。多分、大阪人の気質が、「政治なんかどうでもええやん」ということが影響しているとは思いますが。
 「飛鳥時代」といいますが、実際には、「飛鳥・難波時代」と称するべきです。難波に首都があったのですから。
 「安土・桃山時代」というのも変です。「安土」は織田信長、「桃山」は豊臣秀吉を象徴していますが、「桃山」というのは秀吉の隠居所である伏見城に由来します。しかも、徳川三代将軍家光の時代に廃城となった後、桃の名所となったことにより地名が生まれたのですから、秀吉時代の名称ではありません。秀吉の「現役時代」の居城は大坂城ですから、本来は、「安土・大坂時代」と称するべきものなのです。
 さらに、私の先の回答にあったように、北御堂(西本願寺系)が行在所になったことがあるので、一時的とはいえ、大坂が首都になったことがあるのです(大久保利通が首都を大坂にすることを提案したことは有名です)。大阪人は、こうした歴史をもっと大切にすべきであると思います。私も大阪府民です。
 なお、若い世代は、地元の歴史に無関心な者が多いようです。私は神戸出身ですが、神戸で授業(予備校)をしていた時、生徒に発問したところ、福原京のことを誰も答えることができず、がっくりしたことがあります。質問者さんも、地元の歴史に関心を抱いてください。意外に多くのデータを発見できると思います。そして、早く、この質問への皆さんの回答に反応してください。これは、このサイトの最低限のマナーです。
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この回答へのお礼

 再度のご回答ありがとーございます。

 先生の視点から見ても、やはり天皇がいる場所=首都なんでしょうか?(高校の歴史では天皇がいる場所=首都と習う、とこれ以前の回答でご指摘をいただいています)
 世界史は、時代毎にビシッと首都(行政の中心地)が決まって明快でしたが、日本はそーも行かない。これが現実ですか?

 期末で残業が続き、お礼が遅くなってしまって申し訳ありませんでした。

お礼日時:2006/03/18 02:32

#2です。

秀吉さんの支配時代について、皆さんの言及がないのでひとこと。
秀吉さんは決して支配のトップではありませんでした。彼はその出身からも無条件に天皇を崇拝する立場でしたから、豊臣という姓をもらい(これは本姓です)、むしろ「天皇の臣下」であることを明示していたわけです。そういう意味では行政の中心の存在は大坂ですが、精神的には当時も京都が首都だという意識が秀吉さん自身あったでしょう。なお、征夷大将軍になれなかった、というのは俗説でそもそも関白・太政大臣のほうが征夷大将軍より上の地位ですから、将軍になったらむしろ格下げです。

なお、一般には首都といえば行政の中心、ないし支配者の住む所なわけですが、日本史に限って「天皇陛下のおわす所」としたがる、というかそういう概念で理解する人もあります。
実際は今の日本全体に中央政府の支配が及ぶのは明治になってから、ということを忘れてはならないと思います。その「外」に住んでいた人々にとっては『天皇」も「首都」も自分たちのものではなかったのですから。それを抜きに「京」「宮」だけで問題を理解しようとするような考えは、実態に合わず、またその「外」であった人々に対する差別感情の源泉にもなります。実際には首都などない地域、別の「首都」(中心地)を持った地域、さらに旧支配地のなかで権力が分裂した時代の「首都」などを考えるのが本筋だと思います。
その上で「天皇家のおわすところ」について「首都」と考える立場で言うのなら、皆さんが答えておられるようにもっとあちこちいってますし。行在所までいれるとほとんど収拾がつかなくなります。もっとも皇国史観で行くならそれぐらい徹底して考えないとおかしいようにも思いますが。

なお、#6さんの「京の都」についての説ですが、少々補足しておくと、京都という言い方はもともと中国の西晋の時代に始まったものです。それ以前京師、といっていたのを、初代皇帝の伯父さんに当たる人が司馬師、という名前だったのではばかって京都というようになった、とあります。というわけで京都というのは本来は一般名詞(首都という意味に近い)です。それがいつしか地名に転化したのはまさに平安京以後京都が京都にあるままだったから、と思いますが。
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この回答へのお礼

 ほう、トレビアなご回答(ガセビアでないことを祈ります)ありがとーございます。

 たしかに日本って国は、明治政府ができるまではいわゆる「群雄割拠」で、江戸時代ですら徳川幕府を中心とした緩やかな繋がりの地方分権制でしたね。

 大名が地方をてんでバラバラに統治し、その上に徳川幕府があった当時の現状を鑑みると、行政の中心=首都とゆー観念より、天皇がいる場所=首都のが収拾つきやすいですね。

 ところで、ボクが「首都」の観念として持ってる根拠は、世界史上の首都で、それって日本には当てはまらないんですかね?

 教皇はローマ(サンマリノ)にいてもヨーロッパ各国の首都はビシッと決まってましたが、日本ではそーはいかないのでしょうか?

 世界史的観点から見たら、天皇は京都(実は意外と小刻みに移動してるんですね)にいても幕府が鎌倉なら首都は鎌倉だし、江戸なら江戸って感じで考えていたんですが。

 ミステリー日本、お答えいただく度にどんどん答えが見えなくなります。

お礼日時:2006/03/18 02:25

 No.1に誤りが多いので、こうした無責任な投稿に注意を促すために、投稿します。


 斑鳩は厩戸皇子(所謂聖徳太子)の居住地であり、首都ではありません(当時の首都は、推古天皇の飛鳥小墾田宮)。鎌倉(1192年)も誤り。源頼朝が鎌倉を拠点としたのは1180年であるし、1183年に頼朝が東国支配権を得たのが、実質的な鎌倉幕府の始まりです。
 吉野(1335年)も誤り。後醍醐天皇が吉野に逃れたのは1336年。
 平安京(1339年)には、何の意味もない。恐らく、後醍醐天皇が亡くなった年ということで記したのであろうと思うが、京都には、その前から北朝の光明天皇がいた。
 京都(1867年)については注釈が必要。1868年、明大阪(大坂)が明治天皇の行在所となった。北御堂(浄土真宗本願寺派津村別院)である。これも加えなければいけない。
 この他、難波宮(孝徳天皇)、近江大津宮(天智天皇)、飛鳥浄御原宮(天武天皇)、藤原京(持統天皇)、恭仁京・難波宮・紫香楽宮(聖武天皇)、長岡京(桓武天皇)、福原京(安徳天皇)などを欠いており、余りにも杜撰である。こうした投稿は許せない。
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この回答へのお礼

 おー、何だか熱のこもったご回答ありがとーございます。

 詳細を知らないので、No.1の方の回答が間違ってることすらご指摘されるまで気付いてません、ありがとーございます。
(1192作ろう鎌倉幕府も間違いですか…山川出版の用語集並みに細かいですね)

 1867年の首都=京都の注釈は…?
 差し支えなければご回答いただければ幸いです。

 北御堂、南御堂って何だろな?って思いながら実際にはあまり深く考えませんでしたが、1868年に明治天皇がいてはったんですねΣ( ̄ロ ̄lll)
 すると、この年の首都は大坂?

 ご回答いただく方々皆さんが、天皇所在地=首都とされるので、首都=行政の中心とゆー観念自体が間違ってる気がしてきました。

お礼日時:2006/03/18 02:06

当時の人の立場に立って考えてみるのもいいと思います。


簡単に考えると
鎌倉時代の武士が、鎌倉を「都」と呼んだでしょうか?
江戸時代の人々が「京の都」に対抗して「江戸の都」と呼んだでしょうか?
おそらくは呼んでないでしょうね。
幕府が存在していた当時も京を「都」「京の都」と呼んでいたのは確実でしょう。
なら何故、都が一つしかないのにわざわざ「京の都」と呼ぶのかというと
「いにしえの 奈良の都の 八重桜
   けふここのへに 匂いぬるかな」
の唄でも分かるように古都奈良との対比になっているんですね。

余談ですが
でもね、鎌倉に行くとあちこちの看板に「古都鎌倉へようこそ」って書かれてるんですよね
どうやら現在の感覚では鎌倉は古都みたいですね(苦笑)
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この回答へのお礼

 鎌倉は当時行政の中枢だったワケですから、後の時代から見ると首都と考えて良いと思いますが、当時の人々にその観念はなかったとも推測はできますね。

 そもそも「首都」って何なんでしょう?
 やはり日本では天皇がいるトコ=首都なんでしょうか?
 ご回答いただく中で、だんだん分からなくなってきました。

お礼日時:2006/03/18 01:53

No.4です。


すみません、年代を間違っていたので訂正します。
694年:藤原京(奈良県橿原市)
710年:平城京(奈良県奈良市)
740年:恭仁京(京都府加茂町)
744年:難波京(大阪府大阪市)
745年:紫香楽宮(滋賀県甲賀市)
745年:平城京(奈良県奈良市)
784年:長岡京(京都府長岡京市)
794年:平安京(京都府京都市)
1180年:福原京(兵庫県神戸市)
1184年:平安京(京都府京都市)
1868年:東京(東京都東京特別区)
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この回答へのお礼

 わざわざ訂正までしてくれてありがとーございます。

お礼日時:2006/03/18 01:49

少なくとも高校日本史では、「天皇のいる場所」=「都」というふうに教わりました。

だから、鎌倉時代も江戸時代も、都は京(京都)と考えてよいと思います。
ちなみに歴代首都を挙げると、
694年:藤原京(奈良県橿原市)
710年:平城京(奈良県奈良市)
740年:恭仁京(京都府加茂町)
744年:難波京(大阪府大阪市)
743年:紫香楽宮(滋賀県甲賀市)
745年:平城京(奈良県奈良市)
784年:長岡京(京都府長岡京市)
794年:平安京(京都府京都市)
1180年:福原京(兵庫県神戸市)
1184年:平安京(京都府京都市)
1868年:東京(東京都東京特別区)

注釈1
740年代に、聖武天皇の気まぐれのせいで首都がコロコロ変わっていますが、このあたりはかなりややこしいです。なぜなら、「天皇が実際に移動した順序」と「法令上の首都の移転順序」が異なっているんです。ここでは「法令上の首都の移転順序」のほうを載せました。

注釈2
藤原京以前の首都は、「~京」ではなく「~宮」と呼ばれていました。なんと天皇が変わるごとに、天皇の住居を別の場所に作り、そこを「首都」とするのです(もちろん当時の人々に首都という概念はなかったでしょうが)。
ですから、藤原京以前の首都を挙げていくとキリがありません。大阪になったり奈良になったり滋賀になったり、いろいろ変化はあるのですが省略しました。

注釈3
なお、「聖武天皇の気まぐれ首都移転」において、一個だけ「紫香楽宮」という「宮」があるのも、都市区画があったわけではなく単に天皇の住居のみが建てられていたからです。住居しかない場合は「~京」とは呼べません。
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この回答へのお礼

>740年:恭仁京(京都府加茂町)
>744年:難波京(大阪府大阪市)
>743年:紫香楽宮(滋賀県甲賀市)
>1180年:福原京(兵庫県神戸市)

 これだけ知りませんでした。

 高校の歴史のコンセプトすら、天皇がいる場所=首都とゆー観念ですね。
 行政の中心=首都とゆー観念から考えると、やはり腑に落ちませんが、なかなか説得力のあるご回答、ありがとーございます。

お礼日時:2006/03/18 01:48

単純に考えて「日本」と言う国が、いまの日本と地理的に重なるのは明治時代以降です。

「日本」と言う国家は律令制の導入前後に成立した訳ですが、「プレ日本」を考えた場合、地方には半島から天皇と誤解(?)を受けるような九州の磐井のように、いくつもの強大な勢力がありました。

現在の日本に繋がる「国」が何であるかはいろいろ議論がありますが、律令制度が導入されて以降の日本は、天皇を頂点とする公家系の制度と、源頼朝以降は、征夷大将軍を戴く在地領主(開拓農民・武士)に支持された幕府と呼ばれる軍事政権との、二重構造が常態になっています。

幕府自体は、日本の歴史上「征夷大将軍府」が主流でありますが、天皇制の中に制度的に含まれていて、本来は地方の軍事行政府的な意味合いの制度です。従って、幕府所在地は「語義的」には首都とは称しえないのではないでしょうか。そう言う意味で「天皇制」に着目すれば、首都は天皇の所在地となります。
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この回答へのお礼

>律令制度が導入されて以降の日本は、天皇を頂点とする公家系の制度と、源頼朝以降は、征夷大将軍を戴く在地領主(開拓農民・武士)に支持された幕府と呼ばれる軍事政権との、二重構造が常態になっています。
>幕府自体は、日本の歴史上「征夷大将軍府」が主流でありますが、天皇制の中に制度的に含まれていて、本来は地方の軍事行政府的な意味合いの制度です。従って、幕府所在地は「語義的」には首都とは称しえないのではないでしょうか。そう言う意味で「天皇制」に着目すれば、首都は天皇の所在地となります。

 なるほど、日本固有の文化に根ざした視点からの説得力があるご回答ありがとーございます。

 その考え方だと平安京以降は明治になって天皇が東京に移動するまで首都は京都ですね。
 行政の中心=首都とゆー観念自体、日本とゆー国にはそぐわない観念なのかも知れませんね。

お礼日時:2006/03/18 01:43

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