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日常生活のいろいろな場面で「人権」と言う言葉を耳にします。
読んで字の如し、「人としての権利」なんでしょうけれど、
これって具体的にはどういう‘権利’を差しているんでしょう?

どこかで「人権とは私対公の関係においてのみ表在化する」なんてのを読んだ事があります。つまり、
個人と国家、個人と自治体、また時として個人と自治体並に巨大な団体等(大企業など)という関係においてのみ語られるものであると。人権対公権力ってことですね。
であるならば、「Aという一個人がBという一個人の人権を侵害した」なんて使い方はそもそも間違いなんでしょうか?
AがBを殺す事はすなわちAがBの人権を奪う事になるのでしょうか?
個人によるプライバシーの侵害=人権侵害なんでしょうか?
こういった事は単に刑事、民事上の問題であると同時に
すべて「人権問題」となりえるんでしょうか?

今ニュースで話題のNGO、外務省、鈴木宗男氏を巡る
「言った言わない騒動」の中で鈴木氏がインタビューに答え、
「人権に関わる・・・」といった発言をされていました。
正直、「え?そこで人権が出てくるの?」と思ったんですが。

「言語」のカテゴリーで質問すべきかとも思いましたが、
あえてこちらでお伺いしました。

A 回答 (2件)

 人権といえば憲法を思い浮かべる方も多いかと思いますので、憲法の視点から考えてみるのも有用かと思います。



 憲法は、公法と呼ばれ、私人対国家の関係を規律する法として君臨しているとされます。たしかに、憲法が、近代の人々が勝ち取った国家の圧力からの解放を基点として誕生したことを考えると、憲法は私人対国家の構造を想定していると考えられます。実際、憲法の条文を見てみると、25条の生存権のように、国家を相手として想定して規定されている人権規定も少なくありません。

 しかしながら、人権はそもそも、各個人が生まれながらにして当然に教授するものであるはずですから、それを主張する相手など関係ないはずです。国家には主張できるが、個人には主張できないとすれば、人権の意味は失われてしまいます。すべての人は人権を有すると同時に、誰に対してもその人権を主張できると理解するべきだと思います。

 後は、”人権”という言葉をどう定義するかという問題を残すに留まるのではないでしょうか。たとえば、人はその命を基盤にしてあらゆる幸福を教授し、権利を教授していますから、その命を奪えば、その者の人権を奪う行為であると評価できるでしょう。プライバシーはどうでしょうか。これが人権侵害かどうかを判断するには、”プライバシー”という概念を人権として保護すべきかどうかによって決まります。人は誰でも、自己の情報について他人からみだりに干渉を受け、または侵害されることは望まないはずです。そして、それを生まれながらにして当然に保護すべきであると解すれば、それはその時点で”人権”と呼んで良いことになります。

 憲法が規定している基本的人権は、どれも保護されて当たり前のものです。刑法が殺人を禁じていなくとも、あるいは、民法がプライバシーの侵害に対して不法行為を課してその予防に務めていなくとも、それぞれは個人の権利として当然に保護されてしかるべきものではないでしょうか。「何が人権に当たるか」というのはなかなか難しい問題です。現代の価値観に照らして、人間として当然に保護されるべき権利は、すべて人権と呼んで良いのではないかと思います。些細なことに”人権”概念を持ち出す人もいるでしょう。しかし、その人はその権利を、人間として当然に保護されるべきものであると考えているはずです。大げさに思えるかもしれませんが、過去に生きた人たちが、当然に受けられるべき人権を、至極些細な人権を、あまりにも簡単に奪われていたことを考えると、相手が国家か私人かを問わず、それを人権であると主張することは、とても大切な事であるように、私は思います。
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この回答へのお礼

回答頂き、ありがとうございます。

問題は主張する権利が‘当然保護されるべき権利’であるかどうかを誰が、どのような基準をもって判断するのか、そしてそれを誰が‘保護’してくれるのか、という事でしょうか。また対極的に‘保護されない権利’というものがあるのなら、それはどんな権利なのか、といった疑問も残ります。
自殺願望の人が死の自己選択権なるものを主張したとします。仮にこれが人権として認められれば、彼の自殺を思い留まらせる事は人権侵害に当たるのか。また‘死ぬ権利’が認められないのであれば、生存は権利、自由ではなく義務であり責任となるのか。極論ですがそんな余計な事まで考えてしまいました。
人権=すべての人間が生まれながらにして当然に有する権利であるならば、やはりどこかに明確な共通認識が必要な気がするのです。主張する名宛も含めて、各自が様々な解釈と様々な価値観に基づいて「人権」を語っている限り、この言葉をめぐる摩擦や論争はなくならないのかもしれませんね。

お礼日時:2002/01/28 00:21

こんにちは。


私もかねがね考えていたことです。専門的なことは措いて、私の考えだけ書かせてもらいます。

実際のところ、onamomiさんの書いていらっしゃる通り、人権は公権力とのカウンターとしてのみ浮き上がってくる権利であって、実体的なものではない、というのが本来の概念だったのでしょう。
それが今では不思議な広がりを見せていますよね。ひとを殺しても「最大の人権侵害事件」とは言われないのに、プライバシーや名誉に関することが「人権、人権」と騒がれる。
思うに、人の権利意識がどんどんと高まってきた結果、刑事・民事などの法律で公的にすくい上げてもらえないレベルの問題、昔なら「人格」だとか「処世術」の範疇にあったことがらを何とか制度の中に位置づけよう、として人権が拡大されてくることになったわけなのだと思います。嫌煙権とか、日照権とか、昔ならちょっとした「迷惑」として社会をわたる処世術のなかで扱われたものが、制度として「権利」という言葉でくくられようとしているのですね。

佐伯啓思氏は、このことを「人権」が栄えて「人格」がほろんだ、と評しています。また同じ意味で曽野綾子氏は、「私達は権利の替わりに(社会の人々をその人間性に応じて)尊敬したり軽蔑したりできる自由を持っている」と書かれています。
人権、人権と騒ぐことが何か見苦しく感じられるのは、自分が摩擦をひきうけることをしないくせに、外部の制度にゆだねてしまって、権利ばかりを主張して、結果的に自分が完全な正義漢ぶるという、「ずるさ」に通じるからではないでしょうか。

お答えになったかどうか…。でも、onamomiさんの感覚は極めて妥当なものだと私には思えます。(鈴木代議士の感覚は……ノーコメントにさせてもらいます!)
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
回答、というより普段私が漠然と感じていた事を具体的に代弁していただいたような気持ちです。
「人権」をいち早く唱えた側に正義が帰属するかのような、水戸黄門の印籠のように人権という言葉だけが振りかざされている場面に違和感を感じていました。
「処世術」と言う言葉をお借りすれば、少しのマナーと少しの妥協で周囲との摩擦を避け調和を図っていくことが常識であり、社会と関わる上での処世術であったはずですが、今は権利という殻に閉じこもれば周りと摩擦を起こしても生きていけると考える人が多いような気がするのです。
更に「人権」の名のもとに主張をする場合、それが‘生れながらに当然有する権利’である以上、相手にも当然その「人権」はあるのだ、という事すら忘れている人もいる気がしますね。自分だけが例外的に主張できる権利がもしあるのならそれは「人権」ではなく「特権」でしょう。

お礼日時:2002/01/28 01:01

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