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「あんたがたどこさ」というわらべ歌があります。この歌の歌詞『狸がおってさ、それを猟師が鉄砲で撃ってさ、煮てさ、焼いてさ、喰ってさ、それを木の葉でちょいとかぶし』からアイヌの「イヨマンテ」の祭りが思い起こされます。もう一方で、人のありように通ずるのではないかと「生きる」ということ。人は生きるために食します。食べます。食べる過程において、そこには、否応無しに「死」という現実が突きつけられます。猟師は生きるために狸を射止めます。そして、その肉を食べます。生きるために。至極、残酷なことですが、現実にわたしたちは何かを犠牲にしその犠牲の上に生きています。『煮てさ、焼いてさ、喰ってさ、』犠牲にしたものを粗末に扱うのではなしに、犠牲にした命を『美味しく』頂くことで報いるのです。『それを木の葉でちょいとかぶし』ここに敬意を感じます。残骸を野ざらしにするのではなしに木の葉で隠す。感謝の念です。自然の中の相互扶助を考えるとわたしは食することを後悔しない『美味しく食べる』なぜなら、そこには死があるから。『後悔しながら食べる』と言うものがいるとするならば、それは欺瞞のよう思えます。現実の死からただ目を背けているに過ぎない。生きることと死することは残酷なものです。しかし、死を見つめてこそ他を大事に慈しむことが出来るのではないでしょうか?私自身いまこうして生きていることは、他の犠牲の上に成り立っていると強く思います。少し前までは、正直、現実を直視することが恐かった「死」というものが...とても...。あることがきっかけとなり、なにかの犠牲の上に自分が生きていることを了解したときから『後悔しながら食べること』をやめた。『美味しく』食べようと。

生きることと死についてどのようにお考えでしょうか?
そして、相互扶助とは...?お聞かせください。

A 回答 (7件)

「私」の見ている世界と、「あなた」の見ている世界は、等価ではありません。


「私」の世界におけるくまと、「くま」の世界におけるくまの価値も等価ではありません。
だからこそ、「くま」の世界における「くま」の死が、「私」にとっての食糧の獲得になり得るのでしょう。(そもそも「くま」の世界における「くま」の価値というものが成り立つのかという問題もありますが)
「くま」は、「くま」の意思で「私」を扶助しようとしたのではないのでしょう。「私」の行為により、偶然に食糧となってしまっただけです。「犠牲」ですね。
「私」は、自分の価値を中心において、他の存在から利益を得ることによってしか、「生きる」ことはできません。これを「原罪」と言えるでしょうか?
「くま」にしても、自分の価値を中心において、鮭だの木の実だの他の存在から利益を得ることによってしか、「生きる」ことはできません。
もし、これを「原罪」というのであれば、アダムとイブ以前、有機体を食べて生きる有機体が発生して以来のものでしょう。そして、そういった「罪深い」有機体たちの集まりを私達は「自然」と呼びます(砂漠の民は、また違った「自然観」を持つことでしょう)。
「私」のまわりには「自然」があります。これは、北海道にいようと、東京にいようと、変わりません。まわり、という意味は、地理的な意味だけではなく、世界観の中でも周縁にあるということでもあります。
「私」は「私」を中心にして、他のものを周縁において犠牲にして「生き」ています。それは、結局トートロジーで、「生きる」ということはそういうことでしかないからです。

一方、「私」は「私」の周縁にある存在(少なくとも人間)は、「私」と似たような世界において「生き」ており、「彼」にとっては「私」は周縁部にある一存在でしかないことも知っています。それが、どの程度の周縁で、「私」→「彼」と「彼」→「私」の距離がどの程度違うか、というところが人間関係の難しくも面白いところなのでしょうが、閑話休題。
「私」のまわりには、いくつもの「私A」「私B」「私C」があるのだなあ、と思うこと、また同様に「くまA」「くまB」「くまC」があるのだなあ、と思うことが、相互扶助ということの一つのヒントになっているような気がします。
人間の不幸は、自分が捕食されることがほとんどないために、「くま」の感覚を想起することができないことです。
人間の幸福は(人間だけの幸福かどうかはわかりませんが)、まわりの生き物もそれぞれの世界に生きているのだ、と想像できることです。

「後悔」が「悪」であるとすれば、それは「私」の世界への耽溺でしかないからです。「美味しく食べる」ことは、少なくとも「くま」の世界への敬意を含んでいるように思います。
「私」のまわりの「くまA」に敬意が払える人は、「私A」からも敬意が払われるのではないかなあ、と漠然と思います。いますぐに論証はできませんが。

意味不明ですみません。
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No.2です。



ここでの回答者は哲学の困難さを十分踏まえた上での回答であり、そして貴方の「あんたがさどこさ」を持ってきた個性的な文章を読んだだけで十分満足しているのではないでしょうか。

貴方が哲学書を読んで礼文を練るより、今の貴方の感性で気楽に返した方が、このスレが爽やかなものになるように思います。

元よりここの「テーマ」は我々よりずっと偉大であろう「自然」ではないか。

(でしゃばってすまん)
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>『後悔しながら食べること』をやめた。

『美味しく』食べようと。
私もわかります。私の場合は、ダイエットでしたが(笑
ダイエットって、すごく傲慢ですよね。。何様?って態度です。今は、ずいぶん欲が減りました。綺麗になろうとか、こうなりたいとか、これしたいとか、ずいぶんきりがなかったものですが、今はこう思います。
 
 あるがままであろう
 
欲が深い時は、深いと思わずに、無理してガマンするのではなしに、その欲がある自分をそのまま見つめると、こんなのに囚われていたのかと、あっさり欲が消えてしまいます。
 
>生きることと死についてどのようにお考えでしょうか?
そして、相互扶助とは...?お聞かせください。
 
何故平等なのでしょう?一寸の虫でも、魂は五分五分だといいます。
その虫はその虫であります。私は私であります。
そういう観方で、平等なんだとおもいます。だから、五分五分と分かち合っているのではなく、又、天秤にかけているのでもなく、かけれるものでもなく、
 
「君」
 
こう言われただけで、なにか、すごい充足感があります。
  
  
  なんでもないひとに、君といえたら
  
  なんでもないむしに、君といえたら 
  
  なんでもない子に、君といえたら
  
  なんでもないつちに、君といえたら
  
  なにげもない日に、君といえたら
 
  なんにもない時、君といれたら
 
  僕は君という 

  ねえ、わたし、あなたといれる
 
 
砂に、空に、水に、森に、虫に、言葉に、人に、こえをかけれることの充足。
何もないのにこえをかけるのは、なにもなくないからです。
相互扶助は、喰われる事の充足、喰う事の充足、ともに満たされていることを、いっているものと思います。死ぬ事の充足を、傲慢な生者は考えません。生きることにも充足を見出せないからです。
私はなんてごうまんなんだろ、。
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littlekissさん、こんばんは。

ただの会社員です。考えたことを書かせてください。

 最近よく、「生命界」ということを考えます。生物全体が、ひとつの「生命界」という、言わば”巨人”を形成しているのではないか。そのなかで生物同士が食ったり食われたりしている現象は、ひとつの生物個体のなかの新陳代謝のようなものではないか。そして”巨人”の存在目的はただひとつ、死なないこと(すなわち生物全体が絶滅しないこと)ではないか。雄と雌があるのも、個体が死んで世代交代するのも、人間という高度進化生物が現れたのも、すべては”巨人”が死なないための、より有利なしくみが選択され続けてきた結果ではないか。

 生物は「生き続けようとするもの」の同義別名であり、ただ「生きる続けるために」生き続けている。「生き続けること」には、意味も目的もない。生物は、ただ、そういうものとしてこの宇宙に出現したのだから。「生き続けること」によって、将来、遠い未来、なにか違う「別のこと」が実現されるわけではない。

 アインシュタインが、たしかこんなことを言っています。(出展を忘れたのですが)

 政治や倫理の問題を考える場合、「とにかく人類の絶滅だけは、何としても避けなければならない」という視点にたてば、おのずと最適回答が得られるのだ、それがすなわち「善」なのだ。

 この言葉は当たっていると思います。人類という言葉は、巨人(=生命界)という言葉に置きかえるべきだとは思いますが...。少子化が進んで、老人問題が深刻だとか、年金制度が危ないとか、叫ばれていますが、全地球的な人口爆発のほうが、よほど人類の危機を招きます。いま先進国で起こっている少子化現象は、個々人を見れば理由は千差万別でしょうが、マクロ的に見れば、生物としての自動調整機能が働いているのだと思います。太平洋戦争では何万人もの若者が死にましたが、その戦争が終わったら、食料難であったにもかかわらず、ベビーブームが起こったということがありました。また、人間は、絶滅に瀕している動物を何とか救おうともします。すべては、生命界の火を絶やさないようにするための営みや、その現れなのだと思います。

 「相互扶助」ですが、もし仮に、この言葉を、弱い者同士の助け合いというふうに解釈するとしたら、それはちょっと違うという気がします。なにか、弱々しい感傷というか、間違った優しさというか、そういうものを感じます。生物は同胞以外の者と、食い食われる関係にあることで、”相互扶助”しあっているのだと思います。というより、そうすることによって、「生命界」を成り立たせているのだと思います。だから、動物が動物を食うことを、残酷とは思いません。生物が生物を食料とせざるを得ないというのは、「宿命的な悪」などではないはずです。

 話はそれるかもしれませんが、私は、「悪」は「生きるために殺す」ことにあるのではなく、「もうけるために殺す」ことのほうにあると思います。自分が食うわけでもないのに、全部売れるかどうかもわからないのに、動物を殺して殺して殺しまくる。樹を切って切って切りまくる。自分がすこしでも「いい暮らし」をするために。近代産業社会になってから、ほとんどすべての人が「もうけ」をめざして、突っ走っています。貴重な牛肉を、もうけ確保のために大量に焼却してしまったりする。こんなことは、つい先ごろの時代までは、なかったことです。それまでは、みんな、自然のなかで、自然とともに、分際を越えない、真の優しい生活をしていたのに。

 だいぶんオヤジ小言モードになってきました。

 あー、ここまで書いてきましたけど、でも、「生物が生物を食料とせざるを得ないというのは、宿命的な悪などではない」というのは、実は、自信がないんです。以前、テレビの動物番組で、いま、まさに草食獣に襲いかかろうとしている肉食獣(豹)の顔が、アップで表示されたのを見ましたが、それは、もう、「邪悪」としか言いようのないものでした。こんな顔つきの動物になってはいけないと、つくづく感じました。「弱い者に襲いかかって殺して食う」というのは、やっぱり生物としては、逸脱行為かなあ...進化の王道からの脱線かなあ...なんて、どうしても考えてしまいます。あえて書きますけど、神の道からそれてしまうような...
(しかし、この「邪悪」はひとつの「美」であるとも思いますが)

 昨日、「動物奇想天外」という番組で、実に興味深いものを見ました。肉食獣のライオンが、あまり勢力をふるって草食獣を追いまわすと、象の群れが「あまり出過ぎるな」というような威嚇をするのです。そして驚いたことに、ライオンは象を異様に怖がり、象が近づいてくると、「悪いことはしていません」とでも言わんばかりに、地面に寝てしまうのです。象は草食獣はやさしく守ろうとし、ライオンには厳しく節度を求めるかのようです。象という動物は不思議ですね。あの巨大な頭蓋、哀しそうな眼、進化の袋小路に入っているとも言われています......あ、文学(童話)モードになってきました。これこそ感傷への脱線ですね。

 それから、前段の「生き続けることには、意味も目的もない」というのも、自信がないんです。というか、気に入らないんです。一般的・抽象的・普遍的な意味や目的がないなら、個人や個体は、自分の生きる意味と目的を模索しなければならない。自分は、かけがえのない「自分の人生」を生きているのであって、「生物の原理」という抽象を生きているのではない。自分の肉体の内側から見た、自分という生き物は、「生きるために生きている、ただそれだけの存在」などではない。何かを信じ、何かを夢見、真の幸福を願って生きている。必ずしも自覚的ではないにせよ。必ずしも明瞭な言葉を得てはいないにせよ。

 それは、自分に言い聞かせる、おとぎばなしにすぎないのだろうか。科学的真理のほうが絶対で、個人の主観的真理など、宇宙空間の小さな塵ほどの実在性もないのだろうか。本当に両者には、架かっている橋はないのか。

 かなりご質問からはずれました。お許しください。
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  これは、「呪術的世界観」の話と関連のある話だと思います。呪術的世界観と言っても、それで何かを貶めているのではなく、この世界観も、人間が生きていく上でかけがえのない一つの世界観・世界把握のモードなのです。
 
  それはとまれ、「後悔しながら食べる」とはどういうことか、経験がありませんので、よく分からないと述べます。「食べ物」は貴重なもので、粗末にしてはいけないとか、色々な事物も貴重なもので、粗末にしてはならないというのは、わたしは当然のように、そう考えて来ましたし、そのように行動して来たつもりです。例えば、卵は、スーパーに行くと、20個詰めで、山のように売っていますが、あの卵の大量生産のかげで、狭いケージに閉じこめられ、ただ卵を生むためだけに生かされているような夥しい鶏の生命があるのだと言うことに、遙かな昔、衝撃というか、感銘を受けたことがあります。
 
  感銘というと変ですが、人間は何と自分勝手なことをするのかと、いう悲しみのようなものです。動物の肉などもそうですが、イスラム諸国では、いまでも、食肉用に動物をする時、クールアンの一部を読むのだったか、何か儀式を行うそうです。また、魚屋の前に並んでいる夥しい魚を見ると、この一匹一匹が、それぞれの生命を持っているのだと感じます。
 
  「いのち」とは貴重なものでしょう。環境保護の問題でも、人間の都合か、野生生物のいのちか、で人間の都合を優先させてしまった結果、環境系の破壊が起こることがあるのですが、人間が、自分たちにとって都合が悪い結果になるので、環境保護とか言っていては、問題の本質が見えていないでしょう。また、「環境保護」という表現に、その傲慢さが出ています。「環境」とは、人間が生かされている場のことではないのか、「保護」とはおこがましいのであり、「環境との調和・共生」というべきでしょう。
 
  仏陀釈迦牟尼も、覚者マハーヴィーラ(ジャイナ教の教祖)も生き物の殺生を禁じました。何故であろうかと考えると、輪廻で繋がっているというより、人間も世界の一つの成員で、世界に生かされてあるという事実を峻厳に受け止めねばならないということなのでしょう。
 
  人と人が互いに相手の立場を尊重して、共に宥和において生きることが望ましいのでしょうし、それは、生き物すべてにも、自然の世界にも通じることでしょう。ただ一方で、人間は「知能」を持ち、他人を騙し、また文明を築き、地球の環境を破壊し、生物を滅ぼし、自分たち同士でも殺し合いをし、戦争などをします。世界貿易センタービルを破壊して、何千人もの人を殺す行為が、神を喜ばせるジハードだとは思えませんし、また、それに報復するに、アフガンに爆弾を落とし、政府を転覆させることも、正しいこととは思えないでしょう。結局、WTCビルを破壊した者たちとどう違うのか、力を背景に自己の行為を正当化するだけに、アメリカの方が余計に悪辣で無慈悲で勝手ではないかとも思います。
 
  わたしは、自分の「死」の客語ができていないです。死は恐怖でしょう。そして、人間の知能による文明の進歩もまた、これも自然=宇宙が内在させていた可能性です。生物の歴史や、宇宙の歴史を振り返れば、弁証法的進歩とまではいいませんが、古い段階の生態秩序が、新しい種類のより複雑な生物によって崩され滅び、新しい生態系秩序が成立したということが、幾度も幾度も起こっているように見えます。自然は、事実として、ダーウィン的な適者生存の原理か、または、目的論的な進化か、何か分からないのですが、「進化」して来た事実があります。 
 
  宇宙論的には、わたしの私見ですが、あらゆる生命の生死は、人間の生死も含め、「等価」である可能性があります。この時、わたしたちは、人間が生きていることの事実、その生存のために犠牲としているものの大きさに、戦慄し畏怖するでしょう。しかし、また、宇宙の進化の事実は、人間は、そして宇宙は何を目的としたものなのだろうか、という疑問ももたらします。
 
  生命と知性の普遍的な宥和と、共に存在することの意味が実現される宇宙が訪れるのか、進化とは、そのような宇宙へと宇宙自身が上昇している過程の苦しみなのか。『新約聖書・ローマ人への手紙』第八章22-23で、パウロスは次のように述べています:「22 かつ被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの榮光の自由に入る望みが残されているからである。23 実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている」。わたしは別にキリスト教の宣伝をしているのではなく、人間中心と考えられるキリスト教のパウロスの手紙の言葉にこのような言葉があることに感銘を受けるのです。ここでいう「被造物全体」とは、神が創造したすべてのもので、すべての生き物が、「共にうめき共に産みの苦しみを続けている」とパウロスは言っているのです。
 
  キリスト教では、あまり生き物の命を重視しません。牛や羊は、人間に肉や皮などを提供するために神が造ったのだというのが一般的な考えにもなっています。そういう傲慢な考えで、野生生物の保護などと言っても、何か矛盾を感じます。
 
  しかし、キリスト教のなかでも、中世のアッシジの聖フランシスコなどは、生き物と親しく交わり、彼が山や自然に行くと、獣や鳥が、怖れることなく彼に近寄って行き、聖フランシスコは野生の生物に囲まれて、花は草のあいだで教えを説いていたという話があります。普通、こういう聖者は、キリスト教では、異端審問にかけられ焼き殺されるのですが、時の教皇は、優れた人物で、広い心を持っていたので、聖フランシスコを支持し、彼が修道会を開くことを許可します。教皇の後ろ盾がある以上、他の聖職者などは不満があったのでしょうが、どうすることもできず、聖フランシスコ亡き後も、フランシスコ会が残り、教皇庁と対立しつつ存続します。
 
  『薔薇の名前』というウンベルト・エーコ原作の映画がありましたが、あの話の背景には、フランシスコ会が主張する、人は「清貧」でなければならず、教会や聖職者こそ、その模範を率先して示さねばならないという主張に対し、各種特権を持ち、大領主のような権力や富を持つ各地のカトリック司教や、更に、皇帝権力とも争う、西欧の宗教的皇帝ともいえるローマ教皇庁は、このようなフランシスコ会の主張は認めることができず、しかし、フランシスコ会が提示する、キリストは財産を放棄せよと教えた、人間は平等だと教えたなどの、『聖書』を読めば、その通りに書いてあることは、フランシスコ会という修道会が主張するのですから、簡単に無視できず、「清貧論争」という議論になり、その最終の教皇側からの回答と、最後の議論が、あの映画の背景の修道院で行われていたのです。
 
  教皇庁は、フランシスコ会の主張を斥け、総長以下代表者をアビニョンの教皇庁に呼び出します。フランシスコ会代表者は、一応アビニョンに行ったのですが、どう考えても、これは教皇庁が、自分たちを逮捕して、異端審問にかけるか、または牢獄に閉じこめて世のなかから消し去ろうとしているのだ考え、一夜にして彼らはアビニョンから逃げ出します。教皇庁は、当時のフランシスコ会指導者を解任し、更に、過激な一派も異端宣告し、粛正します。しかし、フランシスコ会は修道会として生き残り、カトリックのなかで、反教皇庁の最大勢力となって現在に至っています。
 
  何か話がずれましたが、すべての生命のいのちの価値は貴重であり、その生死には宇宙的意味があり、人間もまた、共に、この宇宙的過程のなかで、いのちあり、いのち消え、死して行く者でしょうが、宗教的な話ではありませんが、このいのちの存在の宇宙において、すべては、何時の日にか、甦るのでしょう。「甦る」とは、宇宙の目的の実現だとも言えます。キリスト教が教えるように、「霊肉の復活」を、この「甦る」ということは意味していません。
 
  聖フランシスコのように、空の鳥に向け、また野の鹿に向け、人間を相手にすると同様に、「わたしはあなたである、あなたはわたしである……わたしたちは兄弟なのだ」と語りかけ、生き物たちと共に、この存在の宇宙の目的である未来へと進んで行くのが、一つの理想のありかたでしょう。
 
  単なる食物連鎖の話ではなく、イエズスが述べたように、「太陽の光は、悪しき者にも、良き者にも、変わることなく恵みとして与えられる」という言葉を敷衍して、「太陽の光は、人間だけではなく、空の鳥にも、野の鹿や獣にも、草にも樹にも、変わることなく恵みとして与えられる……」。生きてあること、存在してあることは、ただ、他の存在の犠牲の上にあるというだけではなく、わたしたちもまた何かの犠牲であり、「存在」全体は、互いを与え合いつつ、共に、宇宙の未来へ向けて、生きているのだということでしょう。「存在」は多様な意味で「恵み」であり、すべて、感謝の心は重要なことでしょう。
 
  自覚薄き我らのために、宥和の主よ、恵みと赦しを与えたまえ。
 
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「こんばんは。

さんまです。あのね、人生生きてるだけでまるもうけでっせ。娘の名前はイマルです。」


生きることに感謝できるのは「死」という「何もないもの」を強く意識できるからですよね。
闇と光との関係のように、闇がくっきりと鮮明な程、光はくっきりと輝くのでしょう。

僕も二十歳くらいから、「何もないもの」を時々見つめています。
しかし未だに彼らは何も答えをくれません。
僕には悟る能力がないのでしょう。

しかし彼らと向き合うと、肩の力が抜けて落ち着いた気分になれるのです。
今日も元気に飯食ってますよ。

この回答への補足

tiger-ryujiさん~♪をはじめ回答・アドバイスを寄せて頂いている皆さん
お礼のお返事は、もうしばらくお待ちください。もう少しだけ、わたしに時間をください。お願いします。$(^-^)$vわたしからの返事が届かないことに不満を感じさせていることすまなく思います。ほんとうに、ほんとうに、『ごめんなさい。』お返事は必ず返します!


$(^-^)$vもうちょこっとまっててねぇ!

tiger-ryujiさん~♪補足欄をお借りしてごめんなさい。

補足日時:2002/02/17 03:30
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この回答へのお礼

tiger-ryujiさん~♪お待たせしてごめんね~♪
う~ん。朝だ!朝だ!朝だよ~ん~♪\$(^-^)$/おはよう~♪Chu-☆

>「こんばんは。さんまです。あのね、人生生きてるだけでまるもうけでっせ。娘の名前はイマルです。」


↑この言葉いいね~♪素敵だね―☆あったかぁ-い!(*^^*)ニコニコ~♪好きだな―☆

光と闇....デビルマンや孔雀王を、ふと、想起しました。

わたし、お月様大好きなんです。真夜中に輝くまばゆい光、美しくそして、ときに怪しく見るものを虜にする。お月様をいえ、空を見上げるとまたたく星々、流れる雲、そしてそよ吹く風をかんじる。その一瞬、すべてのことが浄化される。不思議です。自然の中に自分がいる。丁度、自然と同化している、自然のおおきさに包まれていることかんじれるんです。

>彼らと向き合うと、肩の力が抜けて落ち着いた気分になれるのです。
今日も元気に飯食ってますよ。

↑(*^^*)vわたしもそうです。今日も元気に飯食ってます!いただきま-す!

お礼日時:2002/03/06 10:32

そうですか。


「わらべ歌」から、アイヌ・ウタリにたどり着きましたか。

凄く洞察力のある方ですね。

一説には、「猟師」は、本州から北海道へ追われたアイヌ民族の末裔もしくは、影響を受けた方の末裔と謂われています。

人は、他の生き物(動物・植物問わず)の「死」の上に生きています。
この「原罪」から目を逸らせる事無く、直視するということは、様々な場面で、大事なキーポイントになることでしょう。

例えば、「開発」が正当なのかどうか。地球温暖化の問題。

多分、今までとは違う視点が有る事だと思います。

貴方の、ご質問の回答には為っていませんが、敬意を込めて、一言書かせてもらいました。

この回答への補足

Oji_sanさん~♪$(^-^)$/~~~おはよう~♪

あ~ん。(*^^*)>゛゛゛照れちゃうなぁ~♪『敬意』いい言葉ですね!ありがとうございます。今度は、わたしからOji_sanさん~♪へ敬意を込めてChu―☆ニャハハハ゛゛゛$(^-^)$vイェ-ィ!

「開発」が正当なのかどうか?むづかしいですね。
いまも、いろんな人から言葉もらってこの答えを考えています。容易に答えは、でてきません。わたし思うんです、答えはなくてもいいのかもしれないって。それに、安易に答えを出しちゃいけないんじゃないかとも思うんです。その時、そのつどで、開発の捉え方も変わってくるから、縛りを設けることのほうが、不安になります。ただ、その時、そのつどなにかを感じ、思った自分がいたことだけは、そのことが、よい事であってもよくない事であっても受けとめようと。『開発』ってもしかしたら......受けとめられるわたし(あなた)がいることが、開発なのかもしれない?な~んて、まだ見ぬ答えを考えてたりします。(*^^*)>゛゛゛一緒に考えていきませんか?また、なにか思いついたら聞かせてくださいね―☆楽しみにしています~♪

補足日時:2002/03/06 09:14
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この回答へのお礼

アドバイスを伺えたこと嬉しく思います。ありがとうございます。アドバイス・回答を寄せていただいた方々にお礼を申し上げるのが滞っていること大変申し訳なく思っています。わたしが投稿した質問これに対するアドバイス・回答をふまえ答えを思索しています。まだ、自分の中でまとまりがついていません。思考をめぐらすと「三人称と一人称の違い」で行き詰まってしまいます。

ここで質問をあげながらこの行き詰まりを了解できる手がかりはないかと探し物をしています。そんな中、ひとつのペ-ジが目にとまりいまそこに書かれていることを読んでいます。
http://www.cc.yamaguchi-u.ac.jp/~irifuji/coincid …

↑まだ、ここに書かれている事も理解できていませんのでよく理解するためにもじっくり読んでるところなんです。勝手なお願いになりますが、お礼の言葉を返すのにもう少し時間をください。この質問をほったらかしているのではありません。ここにお礼も書かず他の質問や回答にわたしが先に書き込んでいるのは、わたしがあげたこの質問の答えを導き出す手がかりがそこから得られるのではないかと。そしてそれらを擦り合わせて得られたものを基にしてここに頂いたアドバイス・回答へのお礼を書きたく思います。誠に勝手な言い分でご気分を害されましたらご容赦ください。

お礼日時:2002/02/08 10:42

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