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哲学カテに初投稿です。よろしくお願いします。

デカルトはどこまでも疑って、ついに疑いえない真実
「我思う、ゆえに我あり」
を見出したそうです。

世の中の政治問題、または人間同士のトラブルや意見の相違などを聞いて、双方の意見を聞いていると、まっこうから対立する場合が多く、絶対に正しい意見、誰もが絶対に反論できない意見はなさそうに思います。

そこで、絶対に正しいと思われそうな意見にも、反論できることは可能ですか?

たとえば、「人を殺してはいけない」は、絶対に正しいと思われそうな意見ですが、死刑制度では、「人によっては殺してもいい」と言っていることだと思います。
たとえ、「罪の無い人を殺してはいけない」だったとしても、「現代人のために地球環境悪化してしまったから、人口削減のために罪の無い人を殺すこと」、は100年後の人間にとってはいいことかもしれません。

A 回答 (17件中1~10件)

■私は「正論への反発」をテーマに、教えてgooで回答したいと思っています。


多数の人が口をそろえていう正論はどこか胡散臭さを感じて
必ず、ちがうだろうよと反論したくなるのです。
なぜそうするかというと、
(1)常識と違う見方のほうが面白い
(2)そのほうが自分の理解が深まって勉強になる
例外は必ずあるはずです。
法律だって抜け落ちた部分はあるし、常識にはウソも罠もある。
5つも6つもレスがついた質問が同じ主旨の回答では、
とても多面的な観点の検証とはいいがたいです。
そこで、わざと裏側から意見をいうと、常識を心の支えに生きている人間
から思わぬ反撃を浴びることがあります。

■反論と批判は別物です
馬鹿にされるようでは、まだ掘り下げや説得力が甘いのですね。
わざと裏口にまわって扉をみつけても開けてみせないといけない。
開けてみせないと、そんなの扉じゃない。といわれてしまう。
人は、自分が理解できないことは軽蔑して安心するものです。

■またそういう裏口に仕掛けられた罠をちゃんと見破ってからでないと
浅知恵、猿知恵と罵られる可能性があります。
「セオリーの枠に縛られた」思考しかできない人は人生がつまらない
だろうと思います。こうしかならない。こうに決まってる。
そうやって思考を抑圧すると自己の開放を求めてプライベートで
変態的な性癖に走らないとも限りません。

■正論をむやみに否定してもはじまらないわけで、正論が発生した
時点と現時点との状況の変化とか、立場の違いというのがないか
どうかチェックしてみます。
万物流転。諸行無常の世の中で、変わらぬことなど何一つない。

■ブレーンストーミングは、異論・奇論を厭わずに、発想の幅をひろげるから
価値があります。この教えてgoo、OKwaveも、「他の回答を批判しない
という」ルールが貴重です。
すべては仮説だと考えたほうがいいです。
いろんな仮説を提起できたほうが、物事の理解は深まるのだと思います。

■すべての論理にはアプリオリな命題があってそれ自体は
正しいとしないと始まらない。そういう意味ですべては「仮説」
なのです。論理形態事態も、帰納的論理には例外を示すことで
反論できるし、演繹的論理には第一命題に疑義を唱えれば
そこから反論を構築できます。
不完全なMECEを攻めたり、あら捜しをするのでなく、それ自体
が論理展開に無謬性をもたないと「反論」でなく「批判」です。

>たとえば、「人を殺してはいけない」は、絶対に正しいと思われそうな意見ですが、

万人共通のセオリーなど意味がないです。万人の人生をコントロールできない
以上そういえます。むしろ私にとっては正しいセオリーであっても
カニバリズムが正論であった時代や正当防衛のシチュエーションでは正しくない。
「罪の無い人を殺してはいけない」というテーゼは誰が何を持って罪がないとするか
という点で説明が曖昧です。
「無罪判決を受けた人を殺してはいけない」というのは否定できないですが、
「無罪判決を受けた人が本当に罪を犯していないか」
は私にはわからないです。ましてや被疑者になっていない人が罪のない人か
どうかは、ケースバイケース。
「罪のないと思われるだろう人を無目的に殺してはいけないけど、
状況次第ではやむをえないケースもある。」

全員が助からない災害。など、罪のないひとりを助けたら全員が死ぬ可能性が
高いケース
経済的理由からの堕胎。母体をまもるための人口流産など。最も穢れのない赤ん坊を殺していますよね。

すべての正論には例外があります。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
yamadanaokakashiさんの回答は、まさに共感を覚えます。
すべての文章に同意します。
僕も同じような性格です。

僕は、「研究とか創造」に憧れがあって、その手段として、わざと逆をすることがあります。
正論への反発もその一環です。

yamadanaokakashiさんの過去の投稿に、あえて反発してみたいと思いましたが、いま、適する投稿はなさそうでしたので、またあう日まで。

お礼日時:2006/04/28 23:19

絶対に正しいという事はこの世の中にありません。

こういうエクリチュールしている自分自身も正しいとは思えないのと同じ理由です。これはメタレベルになってしまいます。デカルトは「我思うゆえにわれあり」といいましたが懐疑論者である彼も自分を疑っていないのです。死でさえ絶対的なものではありません。唯物思考の人間、此岸的認識しか持ち得ない人間は「死んだら何もなくなる、その方が何も思考しなくすむ」
という主観的なものだけで全てをとらえようとしています。彼岸的認識を認識し得ない人間は事物を客観的に捉えれない人間であり相対的でないのは自明性です。この世の中の人間は様々な思考を持っているという
寛容さがないと、思慮深い人間にはなれないでしょう。
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こんにちは。

自分ちょっとですが、「カントちょっと読んだんですが、今のとこ絶対に反論など不可能と追ってます」

理由は、「普通に順番に間がて言ってるから」です

逆にヤスパースは、「読まなくていいよ」です。

説明してる。
一つの宗教にこだわってる。
哲学的信仰というこれは、「分かったような気がするが、知的営みと信じるという絶対に本質は成立不能」
どうでもいいあららしい子pt場をつくテルが、「実体がない」し「利用ができない」

「利用できるのは、「操作的定義」といってますし代表が、指針分析で役に立つんです。

「超越者」を前提にしてる。「これは、神なら嘘です。真理なら、「それなんでしょう?」

とこんな感じです。

何とか的って言うのは「わかった気分になるだけみたいです」

なんか言い切れないです。カント、自分は偉大な人だって思います。

まあ哲学は仕事でないのでこんなことくらいです。カント全部読めないです。途中で考えてきた筋道忘れ矢って。だから、「経験からこんな人もいるよ」という程度のつもりです。

つまり「カント教授は偉大だ」って知ってほしいと思ったようです。
ちょっとしゅsとずれてたとかんじますが、カントは知る限りでは、「反論なんて?」という意見はきちんと残しました。

いろんな意見集まるといいですね。
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14です。


あまり突き放した説明をしても疑問の解決には役立ちませんので、ミラーとの付き合い方について少しコメントします。
これは心の中の悪意から発生して、悪意だけで解決できる問題です。
悪意ですら自分自身との同一性を保つ努力をしておりまして、ミラーへの対処は悪意同士がミラー感情に憎しみを抱く事で解決します。
心に浮かんできて自分自身で解決しようとしてもどうにもならない無意識だけの問題です。
自らの心に潜む悪意に切腹の作法を教えてあげてください。
浮かんでくる根源的な疑問は取り合っても解決しません。
神経症的とはそういう意味です。
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心理学で「ミラー」と言う感情が発見されています。


自らの本心に徹底的に逆らう分裂した心の動きです。
この心の動きを無意識だけで抑圧できなくなると全てのものに疑いをいだき易くなります。
「正しい」ということに、誰でももっともだと思う意見にすら共感できなくなっていると言うことは一種の神経症です。
知識は知恵を生み出す糧となりますから、哲学や心理学に詳しくなると、もう一度無意識だけで抑圧できるようになるかもしれません。
真実の知性とは煩悩のある限り発揮されませんが、たとえば「どうして人を殺してはいけないのか」などは大江健三郎でも即答できなかったようです。疑問を解決しても真実の知性にはちかづくことの出来ない、現実離れしたことに疑問を持っています。
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こんばんはkurokuboyと申します。



>どんなに正しそうな意見にも反論することはできますか?

可能だと思います、多数の人に支持される必要が無く、特定の前提を許して戴けるならです。

例えば「人類にとって地球を爆破粉砕する事は良い事か悪い事か?」と言う質問に対して
ハイ、勿論良い事ですなぜならば‥‥
と言う風に絶対正義と思われる事柄に対しても充分反論できます、勿論理論の遊びですがね。
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哲学には素人ですので、こちらこそ、よろしくお願いします。



例の「デカルトの懐疑」については自分も以前質問したことがあります。
実はデカルト先生、すでに彼のお弟子に反論されたことがあるそうです。それについての回答を読んで思わず笑ってしまいました。
御参考にどうぞ。

http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1805568

先日、どこで目にしたか今思い出せないのですが、デカルトの「我思う」の前に、すでに
「我思う、故に神あり」
というコトバがあったそうです。
つまりデカルト先生はパロってた…!?


また夏目漱石の作品「我輩は猫である」のなかに
いずれは、役に立たなくなった或る年齢から上の年寄りを「おまわり(警官ですね)」が、その警棒でもってポカポカ殴り殺して歩くような時代が来るだろう、というようなくだりが出てきますが、これなど、お年寄りが増え過ぎて、いろいろな弊害が取り沙汰されている昨今、あながち荒唐無稽なハナシとも思えない時代となってしまいましたね。

つまり戦争や安楽死の問題にも見られますように「社会的合意」によって如何様にも変化する余地が大いにあるということでしょう。
そこにあるのは「正しい」かどうかが問われていることなのでしょうか?

私などは「アンタの言ってることは正論には違いないが」と多くの(ここ大事ですよ)人から反発されることが多いですからね、正論とは必ずしも多数の支持を得るものではない、むしろ逆だと実感しています。


「正しいと思われそうな意見」と「正しいかどうか」は違います。
また何が真に正しいのかの見極めも困難です。

「反論できることは可能」であったとしても、そのやりかたもいろいろですね。
また御質問の「絶対に正しいと思われそうな意見にも反論できることは可能ですか」
これはそんなに重大なこととは思えません。

だって何が真に正しいのか(正しい、ということがあり得るのかどうか)すら分からないのであれば真の反論になり得ているのかどうかも分からない。

「正しそうに見える」のが正論であるならば反論している「ように見え」さえすればよいわけでしょう?

むしろ重要なのは
「正論」だとは思うにもかかわらず反論せずにいられない、それは何ゆえなのか、そこに何が存在しているのかを考えたほうが意義が大きいと思います。

またNo.10様の御意見
「絶対がないなら何をやってもイイんだな」と
話の方向を捻じ曲げているとしか思えないようなことを言い出す人が出てくるから

これも難しい問題。
絶対がないからこそ、どこに自分の軸足を置くかが問われてくる。「絶対」があるよりも実に厳しい問題だと思います。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1805568
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このような話をする際に


哲学的によく引用されるのがゲーデルの「不完全性定理」ですね。
不完全性定理の説明はここではやりませんので、この辺をご覧ください。
http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/fukanzen.html
http://toudaibenronbu.web.infoseek.co.jp/book/fu …

要するに、絶対に正しいと思われそうな意見でも
それが正しいと証明することは困難だ、ということです。
ですから、反論が可能、というよりは
決着が着かないという感じだと思います。

ともあれ、道徳的な話と、論理学的な正しさの話は
ゴッチャにしない方がイイと思います。
現代哲学は「この世に『絶対』はない」というようなことを主張したのですが
そういうことをいうと「絶対がないなら何をやってもイイんだな」と
話の方向を捻じ曲げているとしか思えないようなことを言い出す人が出てくるから
注意が必要です。
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#4です。


こんにちは♪

<<もし、どんな意見に反論することも可能だと
  したら、「どんな意見に反論できる」という
  意見にも反論できるので、矛盾してしまう。
  そこらへんどう考えたらいいのやら。。。

はいはい。矛盾しません。

1.りんごは赤い
2.いや、りんごは黄色いぞ
3.いやいや、りんごに色はない
4.いや、世の中の人のりんごに対する意見は
 全部うそっぱちだ
5.4の言っていることは嘘だ。りんごはみかんだ。

真理や前提となる条件を無視して「反論」という
行為だけを可能かどうか見極めるのなら、
これに矛盾が見出せるようには思いません。

このあとに、katadanaokiさんが別の意見を
提示したとしても6番目の列に加わるだけですね♪

さて、
デカルトの8年に及ぶ引きこもり生活から
生み出された「方法的懐疑」とそこから
導き出した「コギト・エルゴ・スム」、
それを出発点とした理性の平等分配や
二元論etcは非常にすぐれていると思います。

人それぞれデカルトに対する捉え方は
異なると思いますが。

全てのものに疑いをもつという行為は、
正しいこととは何なのかを求めた
デカルトのあくまでも出発点です。

デカルトはそこで、「全てのものに疑いをもてる」
で終ったわけではありません。

この世の中がもしかしたら全て誰かが操っていて
隣人たちは本当は生きていないのかもしれない。
もしかしたら、この世界はベッドの中で寝ている
私の夢なのかもしれない。等々

そこで天才デカルトは、気づきます。
たくさんの「本当は○○かもしれない」と
疑い続けてきたがその疑っている自分の
こころを疑うことができないぞ!

今りんごがあかじゃないかもしれないと
疑っている、その疑うって思う気持ちは
実は疑っていなかったとはならない!

なぜなら疑っていたから。

つまり、「思うという気持ちは疑えず存在する。」
となるわけです。日本においては「我」と
言う言葉が強調されるので、意味を解釈違える
ことが多いように思います。

なので、katadanaokiさんが
<<あえて反論をいう場合があります。

というときの「疑う」は、その「疑い」自体に
「我」すなはちkatadanaokiさんが「疑い」を
持っている状態。
平たく言えば思ってもいないことをしゃべってる
状態なので「方法的懐疑」とは異なります。

とりあえずココまで。長文でした。
ではでは偉大なデカルト先生に乾杯♪
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私は昔、デカルトの『coghito ergo sum(我想う故に………)』に反論したことがあります。



この宇宙はビッグバンでいきなり生じた。それぞれの物質は原子から成り立っている。その原子は陽子と電子から構成されておりその関係、距離感は太陽の周りを回る惑星のようでほとんど空間だ。それぞれ強い電気的エネルギーで結ばれているだけ。
ということは、原子により構成されているこの世あらゆる物質、あなたも私も石や樹もすかすかの空間で単なる電磁場の歪みとも言える。全て人間たちの営みも単なるエネルギーの揺らぎかも知れない。
なので原子から電子のエネルギーを解除できたとしたらこの世は一瞬にして瓦解するだろう。
もしかしたら、この世はバーチャルなのかも知れない。誰かがコンセントを抜くと無くなってしまうのかも知れない。
この世の全ての事象は人間にそう見えているだけなんだ。
従って、デカルトの存在論は何の証明にもなってはいない。

と。
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