戦法の変化??in JAPAN
先日一騎打ちについて質問したんですが、そのとき集団戦法へ変わったということを知りました。
そこでなぜ集団戦法に変わったのかを詳しくおしえていただきたいんです!!
また逆に源平時代のころ、そのころも将ゎ大事だったはずなのに、一騎打ちが行われたのかもちょっと疑問です・・・将のもつ意味・役割とかが違うでしょうか??
1つだけ。
鎌倉時代までは、一騎打ちはかなり一般的でしたが、元寇でモンゴル軍と戦ってから大幅に戦法が変わりました。
モンゴル軍は当然のように集団戦法、それに一騎打ちを仕掛けても勝ち目がありません。また、一騎打ちによって敵味方に自分の名前を売る(日本の戦いでは、よく敵味方が入れ替わった。)ということも、外国の軍相手ではあまり意味がありません。
元寇以後は、一騎打ちの行なわれることが、かなり減ったようです。
個々人の腕力、体力に頼る戦いは、かなり以前からなくなっていました。
一騎打ちというのも戦闘の形式の一種にすぎません。
戦闘集団が小規模の場合、リーダーが味方の戦意を高める必要から編み出した形式です。
農作業の生産性が高まり、土地の生産力を重視するようになって、土地争いがおおくなり戦争の機会が増えてきました。
戦闘のプロ、武士の誕生です。
ここでも既に小規模ながら既に集団は形成されていました。
戦場での心理は強い者に従うのと集団の心理が作用します。
強いという評価が体力腕力によるのは小集団の場合で、集団が大きくなると命令や戦術の優劣が能力として評価されるようになります。
従って一騎打ちなどの必要性はなくなります。
あっても極めて稀なケースでしかありません。
極めて少数のものしか目撃出来ないのですから、名乗りを上げるなど時間をかけて出来るだけ耳目を集めたものです。
戦場でのリーダーの素質は重要ですから次第にこれを護衛する必要が生まれ、また補弼する軍師という者が生まれてきたのです。
一騎打ちから集団戦法に変わった理由としては、
源平時代の頃は戦いに置いて
「能力の高い個人 > 能力の低い集団」
だったのが、時代の流れとともに
「能力の高い個人 < 能力の低い集団」
となったからです。
理由としては、
(1)科学技術の発達により、力や技のない人でも人を殺傷できる武器が大量生産できるようになった。
刀と弓が中心だった戦いが、戦国時代には槍と鉄砲が中心になっていきました。槍や鉄砲は1対1には弱かったですが、集団で攻撃すれば大きな攻撃力になりました。
(2)社会の発達により、大集団を戦争に借り出すことが可能になった。
集団を戦争に借り出すには、集団のための武器や食料を確保しなければなりません。戦争が長期化したときのために、食料・武器の輸送部隊も必要です。
また、現場でリーダーがまとめられるのは周りの数十人が限度ですから、大集団を小さな部隊に分けて、それぞれにリーダーを立てないといけません。それぞれのリーダーには、混乱している戦いの現場で、トップの思い通りに動いてもらうよう、指示・命令のルールを覚えてもらう必要があります。そのために、普段から小さなグループのリーダーには、農作業を犠牲にして、戦争に備えた教育や訓練を施す必要がありました。
こう考えていくと、集団戦法が取れるには、
・戦争時の武器や食料の調達
・普段からのグループリーダーの育成
をできるだけの余裕がないとムリでした。
逆に、こうした余裕がないのにムリに農民を寄せ集めても、源平合戦で源義経の小部隊に何度か平家が敗れたように、
・誰も死にたくないので、積極的に戦いに参加しない
・リーダーが少ないので、思ったように指揮できない
・自分たちが不利だと思ったら、すぐ逃げる
・周りが逃げ出すと、なだれ現象で皆逃げる
・彼らに武器と食料を与えた平家は大損
ということになり、能力とやる気の低い集団が少数精鋭に負けるということは、結構ありました。
何故、集団戦法に変わっていったのか
1 社会資本の充実や農業技術の進化により、より大人数を養うことが可能となった。
2 1により、兵を部隊として編成する余裕が出来た。
3 交易が盛んになり、物質と文化、情報の流通が盛んになった。
以上の理由により、集団船に移行していったのです。
何故、一騎打ちが行われたのか。
部隊の士気をくじく一番良い手段は、相手部隊の指揮官を抹殺し、指揮系統を混乱させることである。
また、視覚的に指揮官の活躍は部隊の士気を高揚できる。
つまり、将の持つ役割には、指揮官としての役割と、「隊の象徴」の二つの意味があるのです。
これは、代わりがありません。
ただ、部隊の編成規模が大きくなっていったので、一騎打ちによる将の死傷の影響が大きくなりすぎたので、避けるようになったのです。
平安時代から、室町時代までは
「同じ日本人同士」であること
「基本は耕作地の争い」であること
で武士は戦っていました。
こういう状態ですから「敵を心底憎む」とか「勝利のためには手段を選ばない」事は嫌われました。
言ってみれば現代の「不良の喧嘩」に毛が生えた程度のものだったのです(戦場への動員人数もその程度でした)。
ですから、当時では「将の意味」が決定的に異なっていました。敵に背を向けるような臆病では、配下がついて来ませんし、手段を選ばない戦いは「=卑怯者」です。よって、不良の喧嘩の様に「代表者を出して一騎打ち」つまり「タイマン勝負」になったのです。
当時の鎧を見ても、まるで不良の学ランのようです。
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