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武田信玄の兵法としては風林火山が有名ですが、その精神は物流や糧道の確保にも生かされていたのでしょうか。
戦争では補給が重要と聞きます。戦上手の信玄のことですからきっとその辺もしっかりしていたと思うのです。
ぜひ教えてください。

A 回答 (4件)

戦国時代の補給事情については資料がほとんどなく、実態はわかっていません。

しかし、どうやら現代の視点から見るとかなりいいかげんだったようです。
まず、当時の軍団は原則的に合戦にかかる費用は全部「自分持ち」です。補給の手間も原則自分でまかなわなければなりません。合戦が終った後、大将から「恩賞」をもらうという形で支払いを受けるのです。当然、働きが悪かったりすると充分な褒美がもらえず「赤字」になることもあります。
特に、武田軍団は旧式の「半農半兵」だったので、組織自体も中世的でさらに農民でもあったので田んぼが忙しくなると軍事行動は起こせませんし、長期的な軍事行動も取れません。武田信玄や上杉謙信が領土を広げるのに苦労したのはこういった事情があったのです。

で、どうやら小荷駄隊というのはその軍団に比べるとかなり(数の上でも)貧弱だったようです。ひとつは、将兵は軍事行動にかかる費用は自分持ちだったこと、もうひとつは、長期の軍事行動をとること自体がなかったので貧弱で不便を感じることはあまりなかったようです。三増峠の話は有名ですが、どうも私は内藤昌豊をくさらせないための信玄一流のリップサービスだったように思います。優れた監督は控えの選手にも「いざとなったらお前が頼りだ」と言ってチームの士気を保ちます。

こと補給に関していえば、戦国時代では
秀吉>>信長>>(越えられない壁)>>その他
であるといえます。
ただ、武田信玄の名誉のためにいえば、信玄公は決して補給を軽視していたわけではなく、自軍の貧弱な補給に負担がかかるような軍事行動は決して取らなかったといえるでしょう。ではなぜ補給が貧弱なままにしたかというと、彼の軍団は伝統的な半農半兵であったからです。
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戦争では補給が勝敗を分ける場合が非常におおいのです。


軍隊では戦闘部隊は戦闘に便なように武器以外の物は最小限度しか携行しないものです。

従って食料、馬糧、弾薬などはそれを輸送する専門部隊が担当します。 戦国時代これは荷駄、または小荷駄とよびました。

これは輸送が馬や荷車に頼ったからです。 もちろん大量に輸送するのに舟運が利用可能なら船を利用します。

これらの輸送部隊は戦闘に不適なのでおおくは行軍の最後尾につくか、護衛部隊の保護下に行動しました。
それでも弱体で、小牧長久手の戦いでは羽柴秀次の荷駄隊が追撃してきた徳川部隊の先鋒に追いつかれ、崩れて敗走しそれが全体の敗走を惹起して敗北したのです。

従って主将としては絶えず荷駄隊の安全確保に意を使う必要があったのです。
関ヶ原合戦の行軍中徳川家康は鉄砲隊に射撃を実演させましたがある隊は弾薬を小荷駄に預けていて射撃ができませんでした。
これは行軍中の雨や渡河で火薬が湿るのを避けるためでしたが家康は覚悟不足と怒って隊長を切腹させたといいます。
信玄も同様な配慮があればこそ勝利できたのだとおもいます。
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戦国時代、効率的な物流は、緩やかな河川・琵琶湖・瀬戸内海といった水路を経由しないと行えませんでした。

武田の領国は基本的に山ばかりで、しかも水運に使える川もあまりないため、お尋ねのような「物流」については見るべきものはありません。

強いて言えば、北条氏と戦って小田原城を攻め、甲州に撤退する過程で三増峠の戦いが起こったようですが、甲陽軍艦によると

* 宿将の内藤昌豊に、「明日は合戦になるだろう。そなたは小荷駄隊を指揮せよ」と命じた。小荷駄隊とは、いろいろな物資を運ぶ輜重隊のことです。
* 内藤は、「小荷駄隊の指揮は不服だ。前線に出たい」と異議を唱えた。
* 信玄は、「明日の合戦では、小荷駄隊を守れるかが勝負になる。可能なら信玄自らが小荷駄隊を指揮したいところだ」と内藤に言い、納得させた。
* 合戦では、内藤がしっかり役目を果たし、勝利につながった。

という話があります。ただし、この戦いの後では、甲州に撤退した武田軍が、寒さに耐えかねて、神社をぶち壊して薪にして焚いてしまったという史実があります。甲斐と相模の間の険しい峠を越えての撤退作戦で、実際はかなりの物資を失ってしまったのかもしれません。

なお、「棒道」については、最近の研究で、信玄とは特に関係が認められないと判明しています。

武田信玄 伝説的英雄像からの脱却 中公新書 1380 笹本正治/著
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=28324431
で詳しく論証されています。

信玄が晩年に駿河を領有した時は、今の清水港に当たる江尻港を支配し、重臣の穴山信君を守将に充て、伊勢などから水軍の武将を招聘して「武田水軍」を建設しました。江尻港を拠点にして国内・国外と交易したと思われます。ただ、具体的にどんな交易をしたかは記録がないと思いますし、武田水軍が実際に戦った記録も特にありません。
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武田信玄と申しますと



棒道

が、有名ですね。戦略的にまっすぐ棒のように作られたそうです。
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