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遣唐使は船で中国まで通うのですが、
暴風雨などで辿りつけないことも多かったようです。
弥生時代には朝鮮経由で陸路を使っていたのですが、
どうして陸路を使用しなかったのでしょうか?
危険は船を選ぶ理由は何だったのえしょうか?

よろしくお願いします。

A 回答 (4件)

遣唐使の渡航ル-トについては謎が多いと思います。

 私も3/29、趣旨は少し違いますが、質問しています。 添付URLご参照下さい。 どうも百済の滅亡がわが国の歴史に大きな影響を与えています。 

百済滅亡後は朝鮮半島沿いのルートは使えず、やむなく東シナ海を横切る形になり台風をまともに受けるようになっています。 そのため、遣唐使は段々すたれ、菅原道真の時に廃止になっています。

陸路というのは考えませんでした。 確かに一理あります。 地図で見てもインチョンから山東省までなら、すぐですね。 やはり、百済の勢力の及ばぬ範囲だったのでしょうか。 

最近、中国は高句麗は唐の傀儡政権であり、実質的には唐の領土だったといい始めています。 この当時の朝鮮半島は本当に複雑です。 日本と韓国でこの時代の歴史を共同で解明出来たら、大きなメリットだと思うのです。  

参考URL:http://okwave.jp/kotaeru.php3?q=2059172
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http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2003/030418 …
上記URLにあるように朝鮮半島の情勢に要因があると思います。

弥生時代には日本(倭)はそこまで敵対国ではなかった海を隔てた国でしたが、白村江の戦いで大陸間の争いが勃発したことなどもあり、危険でも直接長安まで船で行った方が敵に襲われる危険がないと判断したのでしょう。

でもやはり、朝鮮半島が日本(倭)に友好的だった百済ではなく、新羅が統一したというのが最大の理由でしょう。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85
上記は新羅のwikipediaです。参考までに

参考URL:http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2003/030418 …
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最初の回答者さんの通り、陸路を「使わなかった」のではなく本当は使いたかったのだが「使えなった」ので、やむなく海路をとらざるを得なかったわけです。

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実際には、朝鮮半島に沿って北上して、山東半島から上陸して長安に向かうルートもありましたが、日本は新羅と仲が悪くて、8世紀から朝鮮半島近辺を通してもらえなくなったのですよ。


仕方ないので、東シナ海を横断して、揚子江の河口付近から長安に向かうことになったようです。
つまり、地理的な問題より、朝鮮との関係によって、航路を変えざる得ないのです。
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