江戸時代の農民の年貢は、よく言われるので五公五民。また、農民の割合は人口全体の約9割といわれています。お米で考えると、国に収めたお米の8割は、何らかの手段で、農民が回収していたと考えています。
生活するためには、米だけでは生きていけないので、何らかの現金収入か、交換できるだけの物を生産していたことになると思います。
そこで思うんですが、普通にお米を作るより副職の方が割が良かったら、割の良い副職が中心になりそうなんですが、そうでもない。
すると、米の生産量をごまかすなり、相応のうまみがあったように思えます。もしかすると収入が決まっている下級武士よりよほど裕福だったのでは?疑問に思っています。
詳しい方、誰か教えてください。前提条件がおかしければ指摘ください。
No.8ベストアンサー
- 回答日時:
#2が一番実情に近いと思います
確かに現在と異なり、飢饉等の影響は大きかったはずですが、実際は、明治以降の方が農民には過酷であった様です
年貢よりも地租の方が実質的な負担は大きかったこと
また、それを糊塗するために、江戸時代は貧しかったと言う情報操作が行われています
それを信じている回答が多いですね
江戸時代についての研究が進み、その研究成果も発表されています
質問者のコメントにある様に、生産された米は輸出などされていないので、全量が消費されているはずです
百姓が米の飯を見るのは盆と正月だけ と言うのは 明治以降に作られた話のようです
一人が年に一石食べると言われています、総石高は二千万石とか言われています、これは江戸初期の話で、中期以降は2・3割は増収になっていますから、三千万の人口を養うだけの米は生産されていました
質問者の想定が妥当だと思います
回答ありがとうございます。
>年貢よりも地租の方が実質的な負担は大きかったこと。また、それを糊塗するために、江戸時代は貧しかったと言う情報操作が行われています。
ここは、同意です。
>確かに現在と異なり、飢饉等の影響は大きかったはずですが、実際は、明治以降の方が農民には過酷であった様です。
農具、品種改良等による生産性の向上。反面、市場経済、工業化による農業の地盤沈下、豊作貧乏の発生。 全体としては、明治政府による意趣返しされている地域を除けば、生活自体は向上しているような感触があります。江戸時代に気づかなかった貧しさを、自由に動けるようになったことで知ってしまった。そういった所ではないでしょうか。
(判断材料が少ないので、根拠という程のものはありません。)
勉強になりました。
No.20
- 回答日時:
江戸時代、武士とその奉公人で人口の1割、商工業流通関係で人口の1割、富農・豪農で米をかなり日常的に食事とできる人々(これは、日々常食にしている人から、野菜・かぼちゃなどが取れない冬場は米の比重が多少増える層‥‥といっても芋・豆で補ったでしょうが。
)これを1割と見積もったものです。江戸の人口100万以上、大阪50万、京都30万、その他城下町・門前町・宿場町・港町を考えると、町人の人口300万と言うのは妥当な数字と思います。
(江戸時代、現代人が想像する以上に、手工業・流通が発達していました。それが、明治維新後の日本の国力充実の基礎の一つになりました。)
明治時代に土地の私有が始まり、土地の集積で地主が急速に土地を集約・保有するようになりましたが、江戸時代はそこまで土地の集中化が進んでいたわけではなく、ほとんど米を口にすることのできない貧農は、農民の3分の1以下でした。
お祭りや盆正月、冠婚葬祭の時には米を食べることのできる百姓はかなり多かったはずです。
というのも、年貢=米が経済基盤であった江戸時代は、自営農が小作農に転落するのは米の安定的な生産に悪影響を及ぼすため、各藩・幕府ともに自作農の保護に勤めました。(とはいえ、財政悪化のつけは、多く農民の負担となりましたが。)
No.19
- 回答日時:
みなさんがここまで詳しく書いているので
いまさら私の回答など蛇足だとは思いますが、参考までに。
詳しく述べればみなさんの回答にあるように農民は貧しい暮らしをしていたと思います。口減らしとして奉公に出される子や吉原に売られてくる女の子の数は増加しているので。
ですが、一般的なイメージよりかは貧しくなかったと私は考えています。農民でも読み書きそろばんを習っていた子もいます。
江戸中期になると農業の技術等もかなりあがり米の生産量はかなりあがりました。
そうすると経済の鉄則である米の物価の下落がおこります。また、江戸っ子は新しい、珍しいもの好きなので、初物など大金をはたいて我先にと手にしていっきました。つまり、米よりもそれ以外の野菜やくだ物などの物価の上昇が起こるのです。
米以外のこのような生産物を生産していた農家は必然的に財を蓄えていきます。
当時の下級武士はお米がお給料でしたので、お米の物価が下がるということは死活問題です。これだけが要因ではありませんが、副収入で裕福になった農家に貧乏になってしまった武家は武士の階級を売ってしまうということがかなりおこります。
これは江戸の近くや都市近郊の農村での例なので日本全体に当てはまることではありませんし、農民も武士もピンからキリまでいるので武士は裕福、農民は貧乏とも言い切れません。
あくまでも一般のイメージの農民よりかは貧しくなかったということの例です。
No.18
- 回答日時:
(注)
年平均 1人当り米消費量が 115kg、170kgというのは、加工品(酒、味噌、餅、米粉の麺、菓子など)になる米も含めた数字である。
(追記)
私が申し上げたいのは、ご質問の意味が不明瞭だということである。「農民は本当に貧しかったの?」の「貧しい」の定義は何ですか? 米を多少食べていれば、貧しくなかったことを意味しますか? もっとも、私の回答もだらだら長いだけの迷惑な代物(しろもの)なので、人に文句は言えないが……。
最近の数字で言うと、2003年の1人当り米消費量は 62kgである。一方、敗戦後の1946年(米穀年度)の 1人当り消費量は 81kgだった。しかし、現代は飽食の時代だが、46年は大変な食糧難だった。ことほど左様に、日本人の食生活は変貌したのである。
年配の方から当時の体験談を聞いた人もいると思う。「1千万人餓死説」がささやかれ、46年5月12日には「米よこせデモ」、5月19日には「食糧メーデー」が発生する始末だった。以上のようなことから類推すると、「1878‐80年の年平均 1人当り米消費量は 115kg」も、多くの人が満足に米を食べられない状態を意味していたと考えられる。江戸後期も同様だっただろう。
「明治に入ってから農民は貧しくなった。江戸時代の方が豊かだった」説は根拠薄弱である。史料の裏付けがあるのだろうか? 維新後も、なかなか豊かにならなかったのは事実であるが。
なお、富農が下級武士より経済的に豊かだったのは、分かり切ったことである。私は素人で、専門的にどう言うのか知らないが、農民の中でも「富農―大百姓―中百姓―小百姓―水呑」といった階層分化が進んでいた。
No.17
- 回答日時:
定説に異を唱える前に、まず(ご自分の使っている)言葉の内実を吟味なさってみてはいかがでしょうか。
「農民」とは何でしょう? 米は贅沢品だったでしょうか?(1) 農民とは何か
昔は「百姓」(ひゃくしょう)という言い方が一般的でした(今は差別的な響きがあるので、歴史的な文脈以外で使ってはならないのはご存知の通りです)。私事ですが、私は農村出身なので、誇りをもってこの言葉をこの小文で使うことにします。
さて、百姓(ひゃくせい)とは「百の姓(かばね)」であり、古代、姓は職業と関係がありました。つまり、「ordinary people」、「百種類の兼業農家」といった意味合いでしょう。
都市部以外の民が基本的に百姓として認知されたのは、管理のための方策であって、その内実はさまざまでした。兼業農家が多いのは、現代に始まったことではないのです。網野善彦の研究によれば、ある廻船問屋(だったと思う。残念ながら本が手元にない)の豪商は、当時の人別帳では「水呑」と記録されていたそうです。水呑とは水呑百姓(みずのみびゃくしょう)のことです。農家の血筋で、農地がほとんどなければ、水呑とされます。しかし、この「水呑」は「米を買って食べる百姓」だったでしょう。もちろん、本物の「水呑」は買うお金もなくて、飢餓線上の生活だったと思われますが。
上記は一つの例ですが、試算として、「人口全体の約9割」とおっしゃる農民の x 割が米を常食していたとすれば、米常食人口の合計は 1+x 割弱になりますね。その場合でも、農民の 10-x 割は米を常食してないわけです。
私は素人なので聞きかじりで言うのですが、江戸時代の米の全国生産高は信頼に足る資料がないそうです。そこで、明治以降の統計から類推したり(明治の世になっても、すぐには米作技術・農村の状況に著しい進歩がなかったため)、あるいは江戸時代の個別事例を調べたりという方法が取られます。『世界大百科事典』(平凡社)から抜粋し、私の解説を付け加えると、次のようになります。
1878‐80 年の年平均 1 人当り米消費量は 115kg(幕末もそれくらいだっただろう)。
ところが、1921‐25 年期の1 人当り消費量は 170kg(大幅な米輸入国になっていた)。つまり、戦前の体格の日本人(日本人の体格が著しく向上したのは1960年代以降)が米を常食すると、平均は少なくとも年 170kgを超えた。
したがって、115÷170 を計算して、幕末期は「人口の 3分の2が米を常食し、残り 3分の1は全く米を食べなかった」……。というのは極端すぎるので、例えばの話、「人口の 3分の1が米を常食し、残り 3分の2は米と雑穀半々だった」などとすれば一応計算が合う。
(2) 米は貴重品だったか
再び『世界大百科事典』(平凡社)からです。まず江戸中期の資料として、「紀州紀ノ川沿いの人の著書『地方の聞書(才蔵記)』」。「田 2町、畑 5段、石高 31石」という大百姓の収支です。それによれば、年貢 26石余を納めたあと、手もとに米 13石5斗、麦 40石、その他雑穀を残すが、これらの多くは売られた。残りの大麦やキビが、この大百姓の家の主食となった。
つまり、「大百姓だから米を常食できる、大百姓でないから米を食べられない」とは限らないということである。大百姓は、換金性の高い米を売って農業経営の資金にしていた(田が 2町もあると、経費も多く必要とした)。逆に中規模の百姓の方が、米を多く食べていた可能性がある。人数的に言うと、大百姓より中規模の百姓の方が多い。しかし、文書史料として後世に残ったのは大百姓の収支記録なので、「大百姓でさえ満足に米を食べていなかった、ましてや大百姓以外は……」と言われるようになったと考えられる。
次に、幕末の資料として、「天保(1830‐44)後年以後編纂された長州藩の『防長風土注進案』」。これによると、「一般農民も一定量の米を食べるもの」と藩役人も考えるようになっていたことが分かる。米と雑穀の合計で農民 1人1日3合食べるとして、その内の数十%は米を充てて計算している。
まとめ
米は贅沢品というより「税金。あるいは換金性のある作物」でした。農民は年貢を納めた後、資金を得るため、米を売ることがありました。そうすると、「金はあるが米は常食できない」状態になります。ただし、農民が米を売ることは、広く一般的とまではいかなかったようです。経営資金を必要とするほどではない、中規模の農民は、江戸期を通じて徐々に米の自家消費が増えていった可能性があります。
しかし、「米を食べられるのは、貧しくなかった証拠」というのは、一種の思い込みでもあるでしょう(「極貧ではない」とは言えるけれども)。ご質問の前提には、このような思い込みがあると見受けられますが、その辺いかがなものでしょう?
結局、江戸後期の状況は次のようなものだったかも知れません。
「当時の ordinary people は基本的に貧乏人だった。食べていくだけなら何とかやっていける(飢饉時を除く)、しかし贅沢品を買う金はない、資産というほどのものもない、という層である。都市部では、貧乏人でも米を常食していた。農村の貧乏人は米数十%、雑穀数十%で食べていた。貧乏人多数の下に、食べていくことさえままならない極貧の層がいた」。
江戸時代の農民の「大部分が極貧」というわけではなかったが、「多数は貧乏ではなかった」とも言えないと思います。
No.16
- 回答日時:
#3ですがまたしゃしゃり出て来ました。
私が換金作物を作っている農家は案外裕福と書いたのですが、平均的農家は赤貧洗うがごとき貧しさだったと言えます。それは藩主・・・というより武家全体が日本の経済が情報化時代と言えるほどに発達していたのに、それに全く気付かず、米依存体質を頑なに維持していた弊害が農村の貧困という形で現われており、それは第二次大戦が終るまで続いていたと言えます。それが江戸幕府崩壊の一番大きな理由であったと思います。回答ありがうございます。
>平均的農家は赤貧洗うがごとき貧しさだったと言えます。
平均的農家では、体が満足に動かない父母や、病気、怪我した人を不要と考えて見捨てる社会ではないと、私は思ってます。
自分の生活レベルの中で看病なり助けていくことは可能な状態が普通ではないでしょうか。姥捨て山等のケースはあくまで不作が続いたケースで、それを良しとする社会風土は日本にはないと思います。
逆に考えると、家内にマイナス要因がなければ、相応の余裕ももてるような気がします。
私も東北出身で、明治期、昭和初期に娘の身売りや冬を越す前に、山に篭った老婆の話を子供の頃に祖母に聞かされた口ですが、前提は不作の年でした。
>武家全体が日本の経済が情報化時代と言えるほどに発達していたのに、それに全く気付かず、米依存体質を頑なに維持していた弊害が農村の貧困という形・・
実は、質問で、下級武士が一番貧しいのではと書いたのは、江戸幕府崩壊を、下級武士によるクーデターと解釈しているのも一因です。
読んだ本の影響かもしれませんが、農民層は、江戸幕府の存続については、中立のように思えます。(薩摩藩のように、武士=農民のところもありますが・・) 新撰組隊士や勝海舟(4代前)のように農民層出身者が体制側で活躍したイメージもあります。
勉強になりました。
No.15
- 回答日時:
人口と米の消費について
No11です。ご質問がありましたので。No9の回答にもあるように、江戸時代初期で人口2600万人米の生産高1200万石。江戸中期には新田開発の結果、人口3000万人、石高1700万石程度でした。(表石高:隠し田があったりして、それよりは多くの米が作られていたと思います。No14さんの数字に近いかもしれません。)
実際問題として、激しい肉体労働をする場合、年間の穀物消費は、成人男性では一人200kgを超えます。年間一石というのは、副食でもカロリーをまかなった上での計算です。
また、都市(江戸・京都・大阪や大大名の城下町などや大寺院の門前町・宿場町)では、米が一般的な食物でした。また、百姓でも大百姓と言われる富農・豪農では、普段からかなり米を消費していたようです。
(豪農が農閑期に建物を増築し、手伝いに来た小作農に食事を出すなど、小作農の失業対策的な面がありました。)
武士+商人+公家+僧侶+神主+奉公人+手工業者+豪農=1000万人程度は、米を主食にしていました。
回答ありがとうございます。
都市部の人が、米を消費というのは、私もそう思います。
>武士+商人+公家+僧侶+神主+奉公人+手工業者+豪農=1000万人程度は、米を主食にしていました。 といのは疑問があります。
徳川260年で、農業の生産性が向上したとしても、第三次、二次産業である人口が3割を超えるのは、難しいと思います。(分母は3000万として、また、豪農は農民の1%未満として)
今まで、読んだ本では農民の割合が全体の80~95%とった形で、記述されており、もしかするとただの固定観念かもしれませんが、違和感を感じます。
勉強になりました。
No.14
- 回答日時:
人口減と石高。
享保6年、26,065,000人、25,786,000石(寛政10年25,471,000人)弘化3年、26,907,000人、30,435,000石。 石高15パーセント増に対し、人口3パーセント増。 増産分は藩に取られたか、農民の米を食う割合がふえたか。 藩財政の危機から前者にきまっています。 藩は年貢米から、武士家族の食い扶持を残し、他は大阪などの米業者に運び、金に替え藩の費用と武士の給与とします。 米業者は大都市や、米不足の農民に高い手数料をとり、売って儲けます。
なお数字は、関山直太郎著「日本の人口」によりましたが、上記人口は人別帳の数字でこのほか簿外人口()があります。 著者の推定では500万人くらいとの事で、合算すると享保期でやく3100万人、米が2600万石で一人一石にはかなり足りません。
時間がなく尻切れになりましたが、ご参考まで。
回答ありがとうございます。
人口と石高データで、享保6年~文政7年(約100年)の作柄が不安定な時期における人口減を勘案いたしますと、弘化3年~文政7年(125年)においての人口3パーセント増は妥当な、数字だと思います。
>米業者は大都市や、米不足の農民に高い手数料をとり、売って儲けます。 その通りですが、無制限に米蔵が増えるわけではなく、長期に貯蔵できるとはいえ、消耗品には違いないので、豊作が見込めるような年には、不良在庫を抱える前に、放出するのが商人でしょう。
勉強になりました。
No.13
- 回答日時:
江戸時代農民窮乏論の反動で、むしろ裕福だったとの説も盛んですが、全体的には生活は苦しかったと思います。
理由は後で述べる、幕藩体制の経済的崩壊によるものです。 それはさておき、江戸時代の人口統計は、初期のものは大雑把で、かなり正確な調査は吉宗が行った、享保6年のものが最初です。 その後も行われこれを見ると、その後百二、三十年間人口は増加どころか、減少しています。 途中の凶作の影響もあり、農村の新生児の間引きが、日常茶飯事でした。 増加に転じたのは、文政7年の調査からです。
幕藩制は石高制で、武士の給与は石高で収入は固定化されています。 ところが、経済活動の発展につれ、貨幣改鋳もあり、物価は上昇し支出は増加一方です。 とくに藩では参勤交代の費用がかさみ、藩財政は破綻するものが続出しました。 幕府も参勤交代の規定人員減や、回数減も行いましたが焼け石に水でした。
藩の増収策のひとつが、色々な手を使った年貢増加策です。 例えば永高制(石高固定)の石高の改定で、平均の石高にすべきところを豊年時の石高に無理に改定しました。 七公三民になった事もあると言います。
天領の農民は検地があまく、楽でしたが、途中で厳しくなり、うまみが無くなったそうです。
新田開発や、他の換金作物に成功したところも、窮乏を免れましたが、もうけは藩に持っていかれました。 もっとも中には都市並みの裕福な村もあったと、書かれています。 都市部近郊も金が落ちるので豊でした。
けれども相対的には農民は苦しかったといえます。 農村一揆の数を見れば判ります。
回答ありがとうございます。
人口の減少は凶作の影響のみではないでしょうか?鎖国している以上、どれほど物価が上昇しても、生産された米や食料は、国内で流通します。
七公三民であれば、流通する米が安価になり、一度はお上に納めた米を、逆に取り戻し安くなります。(切米の武家は逆に厳しいか?)ただ、凶作で米の絶対数が減れば、人口が減る状況も出てくると思います。
>都市部近郊も金が落ちるので豊でした。けれども相対的には農民は苦しかったといえます。 農村一揆の数を見れば判ります。
農村一揆が発生→関係者処罰→農村の生産力低下→村の壊滅 といった構図は多くないような気がします。比較的豊かな村の次男坊、三男坊が入植し生産力低下を防ぐ、といったことが領内で行われていたのではにかと想像してます。
当時の感覚で毎日食べることができて、子を育てられる状況は貧しいとは感じないと思うので、貧しいのは凶作が続く状況の時だけではないでしょうか。
>農村の新生児の間引きが、日常茶飯事でした。 これも、当時の人にとっては、貧しいからでは無くて、自分の家の生活力に応じて必要なこといったところなんでしょうね。今の少子化もそんな感があります。
勉強になりました。一揆とか調べてみたい思います。
No.12
- 回答日時:
>前提条件がおかしければ指摘ください。
農民にも名字帯刀を許された庄屋や地主等の富裕層から、水飲み百姓といわれる小作人まで、生活水準は様々です。ですから・・・
>下級武士よりよほど裕福だったのでは?
という質問には、裕福な農民もいれば、そうでない農民もいた。
という回答になると思いますが?
>一割前後の人たちが多くの米を消費していた…
江戸時代は日本酒の生産量が増えた時代です。酒作りは大量のお米を必要とするので、幕府は米の相場や供給量を考えて様々な酒造統制を行なっていたそうです。という訳で、米の加工品としての消費もあったのではないでしょうか?
回答ありがとうございます。
>裕福な農民もいれば、そうでない農民もいた。
おっしゃる通りなんですが、平均的な農民(イメージは小さな土地保有の自作農)の方が裕福かなと・・ もっとも、自作農と小作人、どっちが多かったかも、時代土地によって様々でイメージ自体根拠なしですが。
米の消費で、日本酒の部分は正直よくわかりません。江戸時代には清酒が作られるようになっていたでしょうが多くはどぶろく。酒造統制とは、米価が安く、米余りの時は酒の生産を奨励し、米価高で米が少ない時は生産を抑える(日銀みたいな)といったことでしょうか? もしそうであれば、少なくない量を消費していたのかも知れませんね。
勉強になりました。
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