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ヒトとサル。
ヒトとイヌ。
ヒトとカエル。
ヒトとノミ。
ヒトとヒマワリ。
ヒトとゾウリムシ。
ヒトとインフルエンザウイルス。
ヒトとDNA分子。
ヒトとエタノール。


人が「ココロ」を持っているとしたら,それを持っていないものとの境界はどこにあるのでしょうか。
その違いは何なのでしょうか。

ご意見をお願いします。

A 回答 (9件)

<お断り:本当はですます調のほうがよかったのかもしれませんが、論文体で書いているうちにやや長文になってしまったので、いささか硬い文章かもしれませんが、このまま載せることにします。



人間と人間以外のものと違いを考える前に、人間と人間以外のものの共通点を考えてみたい。

人間と自然は一般には別のものとして考えられているが、人間も本来は自然の一部(自然の一つのあり方)なので、「自然一般」として大きく見れば、自然と同一性をもっている。たとえば人間の体の70%は水=物質でできているし、「生物の進化の歴史」を見てみれば、人間は最初から人間だったわけではなく、他の生物・動物から発展していったこともわかるはずである。その点から見る限りでは、他の自然物と共通点を持つということになる。極論すれば、この観点からは、ヒト(単なる生物・動物として見た場合の人間)も犬もノミも゛同じ゛存在ということになる。

しかし人間には他の動物・生物とは大きく異なる点がある。それはこの問いでも挙げられている「ココロ」=精神=人間の頭脳活動、これである。そしてそれゆえに人間は
他の生物や物質とおおきく違う道を、歴史的に歩んできたといえる。その「ココロ」は人間に対して何をもたらしたのか? そしてそれがある人間と、ない生物(物質)とでは、どう違ってくるのか?

一般的に言えば、人間以外の動物・生物は与えられた環境(いわゆる自然)を本能的に・受動的に利用するしかないのに対し、人間はその環境を受動的に受け入れるのみならず、能動的に・目的意識的にそれを変えていくことができるということ、そして人間が変革した自然が人間に影響し、それをさらに人間が変えていくということ、これである。

これは人間には「意思」があるからであり、その大元である頭脳-精神活動が人間にはあるからである。これがあったからこそ、生物・動物としてはおよそ中途半端な能力しか持たない人間=人類が、他の生物・動物との生存競争を生きぬき、文化や文明を作り上げ、「万物の霊長」とまで称されるようになったのではないだろうか、と私は思う。

ここで一言しておくと、むろん他の動物、たとえば犬やネコにもそれなりのココロ=感情はある。しかし犬やネコが、犬権侵害やネコ権侵害(?)を訴えて組合を作ったり、保健所にデモ行進に行った、などということを聞いたことがあるだろうか。それはいくらなんでも極端過ぎる、というのであれば、すこしでも犬やネコが人間に関わりなく自分たちで能動的に生活を改善しました、という例が歴史的に見て過去にあったかどうか、考えてみることである。なおここでいう「能動的」とは、たとえば自分たちで主体的に家を作ったりトイレをつくったり、人間のように料理をつくったり、という意味で、である。

以上要するに、人間以外の自然(動・植物、無機質・有機質をひっくるめて)には能動的(受動的ではない)につくりあげた歴史=発展過程がないのに対し、「ココロ」=精神をもつ人間にはそれがある、あるいは歴史をつくることができる、ということである。これが「ココロ」をもつ人間と、それをもたないものとの最大の違いの一つといえよう。

私の答は、大まかには以上のようなものである。ただし、これらは科学的=唯物論的世界観にもとづいたものであり、観念論的世界観、たとえばヘーゲル哲学では答えが違ってくるということに注意されたい。
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 私見:話半分に聞いたほうがいいと思います。

 

 他の生物はよく知りませんが、人間には変わったシステムが組み込まれているようです。「感情」こと報酬系を、生物学的必然=本能以外に生産=算出するシステムです。
 中国の生命の木(干支)や法華経(古代キリスト教時代まで含めて)やユダヤ秘教(カバラ)などに導入されているものから推論すると・・・

 構成素材となる32機能素子は互いの関係と、それを制約する分類型によって機能を確定しています。機能を実現するための他との関係は組み込み型で、7つの役割に対応する3つのクラス種別が各クラスごとに決まっています。各クラスごとの3つのクラス種別が対応するシステム用特殊オブジェクトによって定める役割に一対一対応していて、そのうちの等価=公理的定義オブジェクト『契約(秩序)』が通常オブジェクト4種による修正を受けます。
 学習=報酬=評価=感情に対応する16通常オブジェクトのうち、悲哀を除算・恐怖を乗算・怒りを減算・喜びを加算としてシステム領域に織り込み、感情をソフトウェア=成長可能なものとして実現しています。人間の精神には理論上は成長上限がなくなったわけです(ゲーデルの諸定理の解釈が正しければ)。
 人間の精神の最大の評価基準=その個人の主要通常オブジェクトとすると、のこり4つの通常と同じ評価基準に対応する、ギリシア式チェックサム合計666の通常クラス(=12支と同様の)システムオブジェクトも自己目的(人間を目的とせず手段として)稼動できるようです・・・人間社会の共有存在として。
 情報処理システムとしての人間は、ヒト同士の違いよりはるかに大きな違いを内部に抱えていまして、高い汎用性のために、自然対数の底の累乗が上限として関わって来ます(2、7、20)。普段働く22クラスにおいては、特殊処理に使う=定義に使う3クラスを除くと、どれも同時に扱うクラスは20以下になります。
 2^5=32のクラスのうち、10クラスはシステム運営用です(幹=干タイプのうち独立成分が3つ、従属=システム組み合わせ用が3つ、枝=支タイプが独立成分4つ)。
 システムクラスを除くと、12クラスの通常オブジェクト(もの)と10タイプの特殊オブジェクトがあります。
 脳波や共感覚(感情や他の五感が色彩として見えるetc.)などは精神機能または管理コードの使いまわしが常に起きている事を示唆します。
 視床下部の自律神経系統は体内と対外の監視に共用のコードを使用してスキャンしているという仮説があります、経絡対応関係を情報の混線と見るわけです。
 身体正中線の円環は12の通常オブジェクトを並べた色相環に対応しています。直立時、この人体真っ二つライン上の12ポイントは7つの縦位置高度を持つことになります。
 12色(共感覚での色)の感情因子はチェックサムの9の剰余順に並んでいます(12支順)。剰余0の子=身体縦割り線底部から背中沿いに辿っていくと、12の主要部位ができることになります。
 システムを構成する独立成分のうち、太陰と太陽と五行の土が特殊クラス=幹=干タイプ、五行の残り4つは通常クラス=枝=支タイプのようです。
 十干のうち、存在クラス=辛(ことば)とクラス分類=丙(柄)以外の八卦と、十二支を合わせた20クラスが、五行の上位クラス=システムクラスに従っています。ここでの十干の配置も9の剰余が関係していました。
 最後に余談ですが、いわゆる人間の性格タイプと12タイプの原動力=評価基準=感情=枝(支)クラス種別は深い関係があるようです。

解析スタッフを代表しての感想:
 星座やアルファベットとして残すのはいいとして、迷信部分がじゃまなので困りました。 星座覚書=タロットが残っていなかったら、そしてネックの9剰余の例外がそれの両端になかったら解読不能だったでしょう。
 しかし本来鳥類の先祖の二足歩行巨大生物が自分の腰骨を折らないための並列処理オブジェクトシステムを哺乳類で運用するために、manとmoon(十干対応十惑星が剰余1では『月』だった)の語源こと乗算系「1つとみなす」システム機能の『寅』(『巨蟹宮』も剰余1)を過剰使用するつけが自己目的化した乗算=恐怖系精神機能とすれば、例えに使ったら『コウモリ《に》失礼』でしょう、別に翼手類は「主人を待つ奴隷」でも「罪悪感の虜」でもないのだから。

個人的意見:各宗教の共有基礎だからって本当かどうか、確認できた部分しか信じないけど、もっとましな作業仮説がなくて、仕方なく使用中。
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人は心から動物や自然を模倣する事があります。


心は外界の意識的なコピーの表れですから、
全体的であるともいえます。
境界をつける事になれば、
人に自然との空間的な差異を与えてしまう事になるのではないでしょうか。
自然との共存も、我々が自然物である事を認めねばなりません。
次元が違うなら、自然は支配するものとなるでしょう。
自然は演技の舞台?
なんと破壊的な演技である事でしょう。
我々は本当の意味で生きなければ成らない理由はそこから来ています
次元が違うところに物質的影響はありえない。
心理現象は物質の交換や神経の伝播の程度よっておこります。
他の生き物との差異はほとんど有りません。
心理を持つ事に価値を与える時、
人間はむしろ自然にたいして平等な責任感を持ち得ないでしょう。
つまり、自然界にありえないとしても
心理に環境における人間的責任はありません。
環境における人間存在を考えるには
『アンチヒューマニズム』を参考にして下さい。
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ココロですがそれにもいくつかの段階があります。

自意識という観点から鳥類を上げた、回答がありますが、これは肯定できます。絶滅種まで入れると、おそらく恐竜も自意識を持っていたかも知れません。しかし、ここで言う質問~ココロは、人と他の動物の境界線を探る物であろうと思います。
となればやはり、人の通った道筋を見るべきでしょう。それはかすかなものでしかありませんが、それなりの考古学にはでています。「ネアンデルタール人」彼らは死を意識し、宗教のような物をすでにもっていました。遺体の周囲に花をまき、赤いもので遺体に色を着けていました。いかに現世チンパンジーが手話やコンピューターで抽象概念語を語ろうと、まだ彼らには「死」「すなわち自分も含めてすべての生きている物が遠い未来に必ず死ぬ」事は理解していません。子供が死んで悲しみを持っても、それは数日から数週間のあいだ、それと自分自身、あるいは他のものと結びつける事まではできていません。ストレスで死んでしまうことはありますが、それとは異なります。
 これは私の独説ですが、「その生物が「自殺」という物を考えたとき」が動物とヒトとの境界になるのではないかと思います。
つまり、自意識があり、他者の運命と自分の運命を結びつかることができ、さらに死という避けられないが遠い未来に確実にある物を想定し、現状の苦難から逃げるために、生物が最も本能的におそれる行為を選択する。
 ヒトが他の動物と異なるとすれば、まさにこの一点でしょう。反対に言えば、他の動物は自殺という概念を持たない。
 ここで言うヒトは我々現世人類だけではなく、原人、旧人含めてです。
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どこにヒトと他のものの違いがあるかということですが区別の方法、基準等はここで言うヒトの決めたものなので、なんとも言えませんが、戦争をするかどうかで分けられると思います。

ヒト以外の生き物は生きるために殺したり、争うことはあっても、欲に駆られてということはないと思いますので。
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わたしにとってのヒトと他のものとの違いは


「自分がそれであるかないか」。
私はヒトの1個体だから、ヒトがどういうものか、
他の個体を観察することもできれば、自分を観察したり感覚や感情を
じかに感じることもできる。
他のものについては、他として観察して知ることしかできない。

ココロのあるなしについては、生き物には多かれ少なかれ
なにかを感じたり判断したりする機能があって、それはアナログ的に
繋がっているので、「ここからがココロである」と分けるのは難しい。
分けるのは分ける人の都合なので、それに応じて変わると思います。
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  この質問は、「ひとと他の存在者のあいだで違う特徴は何か」という問いと、もう一つ「ひととは何か、ひとの定義」の二つの問題を持っているように思えます。
 
  まず、ひととは何か、ひとの定義の方が分かり易いので答えます。これは、生物種として、「ホモ・サピエンス」である生物を「ひと」と呼ぶのだで、答えになると思います。ホモ・サピエンスのなかには、現存する人種すべてが含まれますし、滅亡したネアンデルタール人や、古ホモ・サピエンス・サピエンスや、新ホモ・サピエンス・サピエンスなども含まれます。ヨーロッパにいた、クロマニヨン人や中国にいた周口店上洞人なども、「ひと」になります。
 
  この定義がよいのは、例えば、無脳症の子どもが生まれた場合、普通の精神能力や意識や心はないと思えますが、「ひとの無脳症の子ども」であって、無脳症だからといってひとでなくなる訳ではありません。あるいは非常に知能の低い人の場合、高度な知能を持つその種の天才とも云えるチンパンジーよりも、知能が低い場合があります。しかし、知能の高いチンパンジーをひととは呼びませんし、知能の非常に低い人も、ひとです。
 
  比喩的な用法で、殺人を犯した者や、冷酷無情に殺人や犯罪を犯す人を、「ひとでなし」と呼びますが、これは、「ひとでない」のではなく、「ひとに求められる倫理や行為規範からの逸脱が大きい人」という意味です。戦場では、敵を大勢殺すと、英雄だとなりますが、普通の市街で、マシンガンを乱射して大勢の人を殺すと大量殺人魔ということになりますが、いずれにしても「ひと」です。
 
  そこで、第二の「ひとと他の生き物・存在者」を区別する「特徴」は何か、ということになると難しくなります。
 
  1)抽象的な思考言語を操ることができる
 
  これは、人によっては、できない場合もありますが、その場合、何かの事情でできないのだとなります。しかし、人以外の動物・植物・鉱物などは、「抽象的な思考原理」を使うことができません。高等霊長類は、サイン言語やジェスチャー言語や、合図言語のシステムを持っていて、チンパンジーやボノボは、かなりな語彙を理解しますし、文章構造の解釈も可能なようです。しかし、「能動的に」「抽象言語・思考言語」を操るのは人間だけです。
 
  1)の「抽象思考言語を操ることができる」が、おそらく人間の他の存在ともっとも違う点でしょう。しかし、この能力は、例えばチンパンジーや犬の大脳などに遺伝的に操作を行って、容量や密度を高くし、思考領野や、前頭葉、言語領野なども、発展させて行くと、人間と同じように会話し、思考するチンパンジーや犬が出現する可能性があります。あるいは、コンピュータ回路が、もっと根元的に神経回路モデル的に構成されると、人間の意識や知能や自我に似たものを備える可能性があります(これは、非常に確率が低く、そういう意図でコンピュータを設計しない限り、現在のコンピュータが進展して、そういう回路ができる見込みはゼロだと思います)。
 
  2)意識の存在。また心・魂・精神がある
 
  人間の意識は、「自我意識」で、また「統覚意識」である。しかし、高等動物も、意識を持つことは分かっており、ある人の説では、(自我)意識の芽生えは、鳥類からだと言います。つまり、鳥類・哺乳類には、「原始的な(自我)意識」があるのです。従って、心や魂もあるでしょう。「精神」は特別な意味を持つので、人間は精神を持つが、動物や植物は持たないとも云えるし、動物や植物も持っているとも云えます。「精神の定義・把握」の問題になります。普通、高次抽象思考能力を備えるのが精神だと考えられるので、こういう精神は、人間だけが持ちます。
 
  3)他にも、技術を持つとか、文化を持つ、社会を築く、「遊ぶ」ことができる、論理的に判断できる、倫理を知っているなどがあります。

  しかし、技術も文化も社会も、高越霊長類はみな持っています。「遊び」は猿も犬も遊びます。論理は、抽象的言語の駆使と関係するので、動物には普通ありません。しかし、合理的行動や、合理的判断というのは、動物も行います。「倫理」は、社会を築く生物の場合、相互共同生活をするための「規範ルール」として存在します。
 
  4)哲学的な話になりますが、明瞭に「自己を自己と認識」し、「人格」の存在を認め、他者にも人格を認め、また、「自己の死」を先取りして自覚し思考する。そして、「存在者の存在」について知っている。
 
  これらは、統覚意識に抽象的言語志向能力が付随すると、或る程度普遍的に出てきます。仲間を思いやるというのは、倫理の一種で、また他者人格の尊重で、こういうことは、高等哺乳類の場合、ケース的にありえます。また、「死」の自覚意識は、これは「時間展望」「時間の計画性」の能力で、大脳前頭葉の発達と関係します。こういう「時間展望・計画性思考」は、前頭葉の発達していない動物にはありません。(「因果関係」の把握は、計画的時間展望能力と抽象的概念操作を前提にしており、人間は「自殺する動物」「人間は哲学する動物」とは、時間展望と抽象概念操作による「原因結果思考」が可能であるため、こういう特徴が出てきます。高等動物も、自殺したり、初源的な具象の哲学をしたりします)。
 
  (動物にも、自覚的時間展望や、計画的行動がありますが、人間のような分節的かつ統合的な「時間把握」がある訳ではありません。行動の合理的オプションとして、「状況を読む」という能力が、時間計画性に似た効果を与えます。人間は「状況も直感的に読み」、かつ「計画的時間」で予定を立てて、それを吟味して展望するという処が違うのです。将棋や囲碁で「局面を読む」というのは、実は高等動物にも、そういう能力はあるのです。これが高度に発揮されると、動物が計画的に人間の罠から逃れようとしているようにも、あるいは計画的に集団行動などをしているようにも見えますが、実際は、共同体のリーダー動物が「場を読み」、それに従って、集団が統制活動をする結果、計画的行動のように見えるのです)。
 
  以上のようなことが、人間と他の生物を区別する主な特徴です。「こころ」の存在は、「こころ」にどういう意味を持たせているかによって違いますが、犬や猿も、悲しみや喜びの感情や、仲間を思いやる「心」を持っています。人間だけの特権とはなりません。
 
  宇宙人がいるとして、それが、「抽象的言語思考能力」を持ち、「計画性時間」の意識を持つなら、精神的に人間と変わりないということになるでしょう。人間にはない、または見えていない、知られていない、精神などの能力次元を宇宙人などは持っているかも知れません。例えば、「超能力」などですが、超能力とは何か、色々な理解の仕方があり、よく分かりません。
 
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>その境涯の特徴がどのようなものか,という明確な基準はあるのでしょうか。

(後から分類されるものでないにしても,無作為ではない以上,何らかの基準はあるのですよね)

 十界とは、生命が内より実感している十種類の境界のことで、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界をさします。
 その十界のそれぞれにつき、ごく簡単に述べてみます。
 地獄界・・・ 地は低下を意味し、獄は拘束されて不自由なこと。苦しみのあまり、瞋りすら感ずる苦悶の状態。
 餓鬼界・・・ 不足感からくる貪欲にとらわれている状態。
 畜生界・・・ 理性や道理ではなく、目先のことにとらわれ、本能のおもむくままに行動する状態。
 (以上の三界を三悪道と総称する)
 修羅界・・・ ひねくれ曲がって、勝他の念に駆られている状態。
 (ここまでの四界を四悪道とか四悪趣と総称する)
 人界・・・  人間らしく、平常で穏やかな状態。
 天界・・・  思うとおりになって、喜びを感じている状態。
 (以上の六界を六道といい、残る四界を四聖という)
 声聞界・・・ 先人の教えを学ぶなかから、無常観など、分々の真理を会得していく状態。
 縁覚界・・・ 独覚ともいい、声聞が先人の教えを求めるのに対し、自然現象等を通じて自ら分々の悟りを得る状態。
 (声聞・縁覚の二界を合わせて、二乗ともいう)
 菩薩界・・・ 自身のことよりも、他人の幸せを願い、そのために尽くす状態。
 (声聞から菩薩までの三界を三乗ともいう。また、地獄から菩薩までを束ねて九界という)
 仏界・・・  崩れることのない自由自在の生命活動(常)、生きていくこと自体を楽しむ絶対の幸福感楽)、何物にも紛動されない円満かつ強じんな主体性(我)、何物にも汚染されない清浄な生命(浄)、以上の四つに象徴される最高の境涯。
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 仏法においては、宇宙万物が地・水・火・風の四大元素から構成されるとしており、我々人間の身体についても、


「必ず四大を以てつくれり一大かけなば人にあらじ」
と説いて、やはり四大から成っていることを明かしている。さらに、また、
「夫十方は依報なり・衆生は正報なり・・・正報をば依報をもつて此れをつくる」
と、宇宙を依報、我々衆生を正報として、正報は依報によって形成される、とも説いている。つまり、この大宇宙を構成する諸元素と、我々の身体を構成する諸元素とは同一のものである、というよりも、むしろ、大宇宙を構成する諸元素そのものによって、我々の身体が構成されている、というのである。むろん、ここで挙げた四大という元素は、きわめて哲学的意味合いを表わしており、今日でいうところの分子や素粒子などといった単位とは、おのずと異なるものである。しかしながら、この我々の身体を構成している元素が、はるか昔においては、他の惑星や恒星を構成していた物質であり、あるいは、いずこかに繁茂していた植物の一部でもあることは、今日の科学が指し示す厳然たる事実なのであって、単位の違いこそあれ、仏法の説く宇宙と人間との関わりの一面を、みごとに証明しているものといえるであろう。また、このことに関連して、仏法においては、我々衆生も、草木国土も、本来は同一のものが二つの形に現われたものである、と説いている。生物学でも、かつては生物と無生物とを絶対的に区別してきたが、研究が進むにつれて、生物と無生物の中間的存在ともいえるビールスが発見されるなど、最近では、生物・無生物の区別がかえって混沌としてきている。このことは、仏法で説くごとく、我々衆生と草木国土とが、まったく異なるものではなく、根底の本質が同一であればこそ、ともいえるのである。
 ですから、人(人界)との違いは、境涯の違いということで、動物等は畜生界であり、草木国土等は非情界ということでしょう。
 色心不二の関係からすれば、体あれば心があるということです。如何ですか?

この回答への補足

質問させてください。

もし宇宙人が発見されて,それが人間よりも頭のよい存在だったとしたら,それは何界にいることになるのでしょうか。
また,それが人間とほぼ同じ特徴を備えた存在だったとしたら,どうなのでしょうか。

その境涯の特徴がどのようなものか,という明確な基準はあるのでしょうか。(後から分類されるものでないにしても,無作為ではない以上,何らかの基準はあるのですよね)

補足日時:2002/03/04 23:24
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