桜会について
昭和初期の軍人によって作られた桜会について知りたいことがあります。
桜会は橋本欣五郎によってつくられた中堅将校を中心とした団体で、3月事件や10月事件を計画するなど暴力的傾向が強い団体であったと思います。しかし、10月事件以後に桜会は消滅していまい、それに所属していた将校の多くが、その後統制派として活動していくこととなったと聞いています。
ただ、ここで疑問なのが統制派というものは、クーデターなどには否定的で合法的に権力を獲得しようとしたと聞いています。
桜会に所属していて、その後統制派になるというのは矛盾しているように思えるのですが、どうでしょうか?
ご教示ください。
山川出版社の教科書では、統制派と皇道派について、次のような区別をしています。
統制派……合法的な手段で軍部政権を樹立させようとする
皇道派……クーデターを起こしてでも軍部政権を樹立させようとする
確かにこの区別でもってすれば、クーデターを主張していた桜会メンバーが統制派に加わったことは不思議に感じられるかもしれませんね。
しかし、私は山川の記述にはやや疑念を感じています。
統制派・皇道派の理念の区別は、「クーデターを容認するか否か」とは関係ないと思うのです。
ただ、結果的に皇道派がクーデターを起こし、統制派がそれを処罰して合法的に軍部主導政権を作り上げていったわけであって、あくまでも結果論だと思います。
では、統制派と皇道派はどう違うのか、私なりの説明をします。
まず、当時陸軍内で圧倒的な一大派閥を形成していた長州閥(宇垣派)に対して、若手将校たちが反対の気炎を挙げます。中でも永田鉄山と小畑敏四郎と岡村寧次の3人が、ドイツ旅行中に行った「バーデンバーデンの密約」というのは有名です。ゆっくりと温泉につかりながら、「いつか反宇垣の組織を立ち上げよう」ということを相談していたとの話です。
さて、昭和改元直後、彼ら3人の約束は叶い、「一夕会」が組織されます。一夕会の基本理念は、反宇垣ということと、「荒木貞夫・真崎甚三郎・林銑十郎」の3人の大将を盛り立てていこうということでした。
ところが満州事変後あたりから、強い結束で結ばれていた永田と小畑のあいだに亀裂が生じ始めます。
「作戦の鬼」と呼ばれる小畑は「ソ連こそが最大の脅威である。まずはソ連を仮想敵国として軍備を固めておくべきであって、中国とこれ以上争うことは無意味だ」と主張します。
それに対して永田は「いや、今こそ中国をたたくチャンスだ。ソ連は現在内政問題で忙しいから介入してくる力はない」と主張し、激しく議論を戦わせます。
岡村は双方を何とか妥協させようと頑張っていたようですが、苦労の甲斐なく一夕会は2つの派閥に分裂してしまうのです。
すなわち永田率いる統制派と、小畑率いる皇道派です。
ちなみに荒木・真崎・林の3大将は皇道派側についてしまいました。
つまり、統制派と皇道派の基本理念の違いは、「対ソ」か「対中」かということにあるのです。
そしてもう1つ、大きな理念の違いがあります。それは、経済に関する考え方です。
統制派は財閥をうまく利用して、政府と財閥が協力して軍部政権を運営するということを理想としていました。
それに対し、皇道派は「農民が飢餓に苦しんでいるのに」ということで、財閥を解体させることを理想としていました。これは北一輝・西田税など国家社会主義の思想の影響を強く受けたものです。
例えば三井合名会社の団琢磨を殺した血盟団などは、皇道派に近い考え方といえるでしょうね。
まとめると、
統制派……対中強硬策・財閥と協力
皇道派……対ソ強硬策・財閥を粉砕
といった感じです。
さて、桜会のメンバーはクーデターの協力者として、大川周明などを引き入れていました。財閥とは協力しあおうとしていたようです。
そういうわけで、北一輝・西田税にも声をかけたが「理想が違う」といって断られたそうです。
桜会は(外交関係にはどういった理想を持っていたかはわかりませんが)、少なくとも財閥とは協力するという思想を持っていましたので、統制派のほうになびいたそうです。
ちなみに、犬養内閣発足時に荒木が陸軍大臣となり、真崎も参謀副長となり、皇道派全盛の時代が訪れるのですが、荒木に思ったような改革ができなかったため(荒木は露骨な派閥人事を嫌ったようです)、皇道派内で「荒木は何をやってるんだ」と不満の声が上がり、遂に荒木は軽い肺炎を理由に陸相を辞任しました。後任に林銑十郎がついたのですが、何と林は何を思ったか、統制派の永田鉄山を軍務局長に抜擢。永田は真崎教育総監を更迭するなど、露骨な派閥人事を行います。
皇道派の将校たちは、「林は統制派側に裏切った」と感じたようです。
結局永田鉄山は皇道派の相沢三郎に殺害され、皇道派と統制派の対立は最高潮に達し、ついに二・二六事件が起こったのです。
この回答へのお礼
丁寧なご回答ありがとうございます。
統制派、皇道派はクーデターについての考えだけで区別すべきものではないのですね。
理解しやすくなり大変助かりました。
統制派、皇道派というのは、桜会縮小後に出てきた流れですが、大まかに説明してしまうと、統制派は手段次第では内閣を自身の意図で組閣可能な位置にありました。
つまり、合法的に権力の獲得をする方法が具体的に手の届く範囲にあったわけです。
後の統制派になった人でもそうした手段がない人たちや皇道派でも若手の将校などが暴力的傾向を用いたまでで、どちらの派にも暴力推進者も非暴力主義者もいました。
桜会の隆盛と衰退の流れは、最近新装版で文庫が出ている松本清張の「昭和史発掘」が集大成なので、一読すると流れがよくわかると思います。
この回答へのお礼
丁寧なご回答ありがとうございます。
参考としてあげてくださった本を読んでみたいと思います。
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