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 大河ドラマ『功名が辻』を見ていてふと、思ったのですが、
 山内一豊(伊エ門)中村一氏(孫平次)堀尾吉晴(茂助)の三者を同輩にように扱っています。
 禄高は三者、先行したり、追い抜いたりしているようにドラマは描写しています。
 最終的には関が原合戦後、三者は20万石クラス大名になりますが、山内一豊だけが三中老に入らず、生駒親正と中村、堀尾です。
 何故、山内は三中老に入らなかったのでしょうか?晩年の秀吉に疎まれていたのでしょうか?それとも一豊がそれだけの器量が無い、凡庸だったのでしょうか?
 ドラマの一豊は不器用な男、純粋、正直者と言うように表現されていて、妻の千代の引き立て役、あたかも千代が知恵者というように見せています。
 本当はどうなんでしょうか?

A 回答 (5件)

1. 三中老なる地位は、歴史上あまりはっきりしたものではないようです。

確実な文献でこれについて説明されているものは見た記憶がありません。どうやら「太閤記」のような通俗的な書物のみで言及されている「職制」のようです。

2. 「一豊がそれだけの器量が無い、凡庸」と言う見方はかなり当たっていると思われます。この人は、信長・秀吉に長年仕えて、信長や秀吉が天下人になったのでその余慶を受けて、豊臣政権下で5万石の大名になった人です。経歴を調べれば、5万石も惜しいような平凡な武将であったとしか思えません。関ヶ原の合戦の前までの50年間では、歴史に名前が出ることはほとんどありませんでした。
関ヶ原の合戦の際に徳川家のために働いた論功行賞で土佐一国の太守になったので現代の私たちが彼のことを知り、大河ドラマの主人公になりました。
仮に彼が関ヶ原の合戦の前に病死し、嗣子がないことで絶家となっていれば、安土桃山時代に余程詳しい人以外は知らない名前となっていたでしょう。
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信長や秀吉・・・その他戦国期には個性あふれる「英雄」が登場しますが・・・


ほとんどの人は「凡庸」ではないですか?
凡庸ながらも必死で生きている・・・というのが実態ではないですか?

司馬遼太郎氏が「功名が辻」で描きたかった内容は、
戦国期という激動期を「凡庸」な人物の視点で描きたかったのだと思います。
山内氏は紆余曲折を経て結果的に大身に至る人物ですから、時代を描ききるには良い対象であったと思います。
今風に言えば、大企業の創業時からの一社員が取締役部長兼高知支店長に至る話。
奥様の話は性格温厚にして頭が女性の割りには良いという点が誇張されただけと推測します。
この観点では、堀尾氏でも中村氏でも良かったのだと思います。

ただ、司馬氏が堀尾氏や中村氏ではなく「山内氏」を小説の主人公にまで昇華さ最大の理由は
「土佐」入城から始まる「治世の失敗」が数百年後に「維新の原動力」となっていった。。。という点にフォーカスしたかったのだと思います。
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一豊は武辺一途の男で、あまり才覚のある方ではなかったようです。

   才覚のある、生駒、中村、堀尾がなった「少年寄衆」通称豊臣三中老に、なれなかったのは当然でしょう。  これと言った大きな武功のない一豊が土佐一国の主になれたのは、矢張り妻の御蔭です。
関が原の戦の前、三成からの密書を「そのままあけずに家康に届け、家康に味方しなさい」との妻の手紙でいち早く一豊が東軍に付いたので、ためらっていた豊臣恩顧の諸将が東軍になり、家康が勝利しました。
家康は一豊の妻の才覚を高く評価したといいます。   それがなければ、半国十二万石程度の大名で終わったでしょう。
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山内一豊は、はっきり言ってしまえば、凡庸な人物です。


彼にまつわる有名な話といえば、内助の功による馬の件くらいですからね。
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こんにちは。


凡庸だったというより、それだけ目にとまるような振る舞いが出来ない人だったのではないかと思います。

奥さんの話が引き合いに出され、土佐の統治にも失敗してるように、三成とかみたく、スパッと斬れて、上手に立ち回るタイプではなかったようです。

そんな奥さんに対してはかなり大事にしていたようで、側室なし、終生仲のよい夫婦であった事は有名です。
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