プロが教えるわが家の防犯対策術!

最近家の近くに小学校ができました。「学校だより」も定期的に自治会を通じて地域住民に回覧されるなど、学校側の熱意が好ましく感じられます。その一環で新しく作られた校歌も紹介されました。色々な段階を経て作られたようですが、その歌詞をみて少なからず驚きました。”…オー・マイ・スクール…”というようなカタカナ語が繰り返し出てくるのです。流行している歌の世界では日本語と横文字がごっちゃになった歌詞は普通ですし、洋画の題名はほとんどカタカナですが、校歌までとは想像もしませんでした。こういうのがごく普通で、奇異に感じる方がおかしい(時代錯誤)のでしょうか。また、校章もアルファベットの組み合わせで、昔の「植民地」の学校みたいだと言いたくなります。現代っ子に受け入れやすいとの配慮でしょうか。小さいときから日本語を大事にしたいと思うのですが。

A 回答 (11件中1~10件)

私には違和感がありません。

何故かというと、私の通っていた小学校は(現在は二人の息子も通っています)今から27年前の昭和54年開校の小学校ですが、~Let's fly tomorrow~ と英語の歌詞が繰り返し出てきます。曲調も俗に”校歌”といわれるものとは違います。因みに、作詞・森 雪之丞 作曲・チェリッシュ といった具合です。それを普通に6年間歌い続けた私には違和感なく受け入れられますが、やはり校歌は重みがあるほうがいいのかな?
こんな学校もあるよ!というプチ情報でした・・・

参考URL:http://www.hm2.aitai.ne.jp/~r66toyot/
    • good
    • 0
この回答へのお礼

投稿いただきありがとうごいざいました。そういう例も以前からあったのですね。私も「美辞麗句」を並べたような、あるいは漢字主体の一見「重厚な」校歌が好ましいと思っているわけではありません。時代とともに言葉や生活様式などが変わるのは仕方ないのですが、大切にして後世に伝えるべき部分があるのではないかと思った次第です。

お礼日時:2006/08/09 11:16

違和感というほどではないですが、そういう時代なのか


って感じはします。

10年前や20年前の日本語だって、変化した日本語だったと思います。
以前は書き言葉と話言葉にわかれていて
チョウチョは「てふてふ」と書いて、ちょうちょうと読んでたようです。
この100年のあいだに、日本語の言文一致の運動とか
書き言葉の撤廃とか戦後の簡素化など
いろんなことがあったみたいです。

正しい日本語という言い方自体にも違和感がありますが、
でも美しいと感じる日本語は残したいと思いますね。

てふてふが日常から消えたように
今も、消えていく言葉と、片方では新しい言葉が沢山生まれているとおもいます。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご投稿ありがとうございました。別の回答者の方へのお礼でも書いたことですが、言葉が時代とともに変わるのは宿命みたいなものですが、ただ、そのとき流れに流されるばかりだと、いままで大切にしてきたことが、どんどん消滅してしまいそうに思えてなりません。

お礼日時:2006/08/09 10:54

>こういうのがごく普通で、奇異に感じる方がおかしい(時代錯誤)のでしょうか。



私も奇異に感じますよ。「おかしいな」と思うのは今だからであって、あと数十年が過ぎれば何も思わなくなるかもしれませんね。

現在の日本では、アルファベットやカタカナ英語を見ないで生活することが難しいです。どこを歩いても英語が書いてある服を着ている人、会話でも日本語に混じって英語を使う人、日本に移住していたり観光で着ている欧米人、学校における英語教育、など様々あります。

日本語を大事にしようとする反面、国際化ということで欧米のものをどんどん取り入れようとする傾向にあります。そんな流れが学校の校歌にまで影響を及ぼしていると解釈できるかと思います。

英語が入ってきても良いですが、日本語が衰退しないように国民が日本語がすばらしいものである、誇りであると再認識する必要があるかもしれませんね。

参考になれば、嬉しいです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

投稿いただきありがとうございます。当初は、このようなこと(校歌にカタカナ語)が普通に行われているのかどうか疑問に思い質問を投稿しましたが、いろいろな方からの回答(投稿)を読んでいるうちに、ことは校歌のみにとどまらないことを再認識しました。

お礼日時:2006/08/09 10:41

実家の近所にも新しい中学校が出来まして、そこの地名が「あ」で始まるのですが、校章にあしらわれたのは「A」の文字。

びっくりしました。

そして昨日、高校野球をテレビで見ていたんですよ。
校歌の歌詞がテロップ(毛筆体)で出てくるじゃないですか。
そうしたら見事な毛筆体で

「ボーイズビーアンビシャス」

と出てきて、これまた驚きました。
初めてカタカナの歌詞を見たと思います。

最近の風潮なんじゃないですかね。
市町村合併による地名変更で、ひらがなの都市が増えたり南セントレア市が出来そうになったり…
    • good
    • 0
この回答へのお礼

投稿いただきありがとうございました。そういう例もあるのですか!
合併による地名変更も気になるところで、何故古い地名を簡単に捨てるのかと第三者としては思うのですが、当事者が選択するすることですから仕方ありません。風潮ですか。

お礼日時:2006/08/09 10:27

myglobe さん、再びのshigure136 です。


日本語のすばらしさを残さずして、外国語の勉強など全くの無駄だと考えています。
母国語に対する愛着心を長い年月をかけて捨て去ってきたとも言える日本人です。これから長い年月をかけて再び取り戻していかなければなりません。
役人、教師、親、そして子供、全てが危機意識を持ったときに、新しい流れが始まるのでしょうか。
私はカタカナがあるから日本人の英語力、発音などが上達しないのだと思っています。
外国語を自国語で発音を教えてしまう愚かさに、そろそろ気付かなくてはならないのではないでしょうか。
カタカナ語は、そういう意味でも使うべきでな無いのだとも考えています。
それにしても、今現在流れている「大きな腐った流れ」の力はすさまじく、挽回するに足る抵抗力の大きさを慮るとき、少しずつ、少しずつ、無理なのかな?、と思ってしまいます。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

再度のご投稿ありがとう存じます。同感です。小学校で英語を教える前に、国語(日本語)にもっと力を入れるべきだと考えます。その一つとして、自分の考えを相手(仲間内だけではなく)に、自分の言葉で、正確に伝える訓練が大切だと思います。

お礼日時:2006/08/07 10:04

カタカナ語は聞いたことありませんね・・・


ちょっと違和感感じます。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

投稿いただきありがとうございました。矢張り、歌詞にカタカナ語は特異例でしょうか。

お礼日時:2006/08/07 09:45

小学校の校歌に「カタカナ語」とは!


やはり違和感は隠せませんね。我々老兵には。
しかし、よく考えてみると、一方で気になることもあるのです。
甲子園などに鳴り響く全国の高校球児の熱戦の後、校歌が流れます。歌詞も見ないで聴いている観衆の、何人が意味を把握しているのでしょうか。それより、歌っている生徒の何人がその意味を、その漢字を理解しているのでしょうか。

校歌に重みを持たせるために使われる「校歌独特の言い回し」を、昔の子供達は理解できたのです。しかし、今の時代、理解できる子供は少なくなってしまいました。それらの言葉は日常で使われないからです。
分からない歌詞は歌われません。大人が聴いて素晴らしいと思っても、歌うご本人達が意味も分からなく、念仏を唱えるが如くの気持ちでいるのでは、卒業のときの気分の盛り上がりも欠けようというもの。

そんなことを考えると、生徒全員が参加して「我が母校」のことを歌える方が良いのかもしれないな、とこの質問に答えながら思っています。

すでに英語で授業をする小学校が出てきている現状で、校章や、校歌に外来語が入ってきたからと「植民地化」を憂える時代でもなさそうです。時代は想像を超えて矢の如く流れていますね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご投稿ありがとうございました。たしかにご指摘のような面もあり、考えさせられます。所詮、言葉は時代とともに変わっていくものでしょうが、どこかで”抵抗”しないと、今まで大切にしてきたものが、その時の流に押されて消滅してしまいそうに思えてなりません。

お礼日時:2006/08/06 11:06

なんだか今の若い保護者に、子供達に、って迎合している感じがイヤですね。


どうしたって、カタカナ読みしかできず、外国語の勉強にもなりませんよね。
外国人が聞いても意味がわからないような中途半端なものでしょう。

きちんとした”我が母校”に一票です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご投稿ありがとうございます。おっしゃるように、背景として、子どもへの迎合があるのかも知れませんね。

お礼日時:2006/08/05 10:10

30代前半の者ですが、質問者様と同感です。


出身大学の上智の校歌で「うるわしのアルマ・マーテル」という歌詞が出てきます。とても気持ち悪いです。「上智大学」を「ソフィア」と言い替えたのも歌詞に入っていますが、そのくらいならともかく、「母校」をわざわざラテン語で言い替えなくても・・・と思ってしまいます。

うちの大学はスペイン人等の欧米の先生も多く、帰国子女も多く、留学生も多いため、そのような配慮があったかもしれませんが、それならば全部英語とか全部ラテン語の歌詞を別に作ればいいのではないか、と思ったこともありました。

そう考えると、特色のない普通の新設の小学校で、オーマイスクールはさらに奇妙に思えます。ただ、地域によってはブラジル人など他の国籍の子供がけっこういる小学校もありますから、何か配慮が働く可能性もあると思いますが、いかがでしょうか。

私も、子供には小さいときから日本語を大事にしてほしいし、日本語の美しさをまず実感してほしいです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

投稿いただきありがとうございました。このような感覚をお持ちの方がおられると知り意を強くしました。ただ、この種の問題に対しては色々な意見の方がおられるので、「良い/悪い」ということではなく、一般的にどうなのっているのかを知りたいと思った次第です。

お礼日時:2006/08/04 13:37

日本の古き良き文化が、どんどん侵食されています。



戦時中、カタカナを敵国語として全て廃止し、
あげく負けてアメリカナイズされました。
思考の浅い人間は、
日本の文化が劣っていると思い込むでしょう。

カタカナが乱用されるのは防げません。
日本の将来に望みはありません。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

投稿いただきありがとうございました。カタカナの乱用をにがにがしく思われる方がおられてほっとしました。

お礼日時:2006/08/04 13:21

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!