No.2ベストアンサー
- 回答日時:
まず、長篠の戦いでの設楽原合戦で、三段撃ちは不可能です。
http://miraikoro.3.pro.tok2.com/study/mekaraurok …
あんな狭いとこで銃兵を細かく移動すれば、誰かの火縄が誰かの火薬に引火してドカンでしょうね。他にもツッコミどころは山ほどある話ですが、これは質問の中心から外れますね。
さすがの妄想作家小瀬甫庵も、実は三段撃ちを明言していたわけではなかったのですが、明治になって世の中へ三段撃ちを宣伝したのが、陸軍参謀本部の『日本戦史 長篠役』(明治36年)でした。
http://www.mainichi.co.jp/hanbai/nie/nazo_nihon4 …
参謀本部が参考にしたのは、17世紀オランダのマウリッツによる戦法だったかもしれません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%AB% …
マウリッツによる三段撃ちは、精兵を徹底的に訓練して、初めて可能になったのですが、長篠へ集まった織田鉄砲衆は、あちこちから引き抜いた寄せ集めなので、訓練の時間はなかったでしょう。
この回答への補足
最初のURLには「小瀬甫庵(1564~1640)の『信長記』になると、その三段撃ち戦法が登場する。」と書いてありますね。
マウリッツという名前は初めて聞きましたが、ちょうど小瀬甫庵と同時期ですね。
日本の戦では三段撃ちの記録は残っていないのでしょうか?
No.9
- 回答日時:
追伸
>>鉄砲の連射というより大きな衝撃力
これは物理的なものと、精神的な衝撃、その合わさったものと理解してください。
当時の鉄砲の射程は短く、再発射まで時間のかかるものでした。
戦慣れしていた武士ならば、次の射撃までの間に敵陣に切り込めると考えたでしょう。
そして近づいた彼らを待っていたのは第二陣の射撃だったわけです。
更に追い討ちをかける第三陣、そして再装填を済ませた第一陣と繰り返されるのです。
第二陣の射撃時には、不用意に身をさらして被弾するものも数多かったと思います。
また、その状況下では、指揮官クラスの戦死・戦傷も多かったでしょうから、人員・戦意の喪失、指揮系統の破砕等、鉄砲の連射により相手側の受ける有形無形の影響を「衝撃力」と表現したのです。
「堺を押さえた」というのは、直接支配した、という意味ではありません。
日本史の教科書にも、堺は商人達が自治をしていたと載っていると思います。まあ、私の学生時代は随分前なので、変わっている可能性は大ですが。
堺は外国交易の盛んな場所でもあったので、信長が彼らと優先的に取引できる関係を結んだという意味です。
表立って交易若しくは支配するよりも、陰に回ったほうが、他の警戒を呼ばない等、有利となる場合も多いのです。
何より、信長は新しい物好きだったと言われていますから、外国の文化や産物の入手できる堺という場所は、信長にとって憧れに近いものが会ったのかもしれません。
No.8
- 回答日時:
少し外れるかもしれませんが、補足として。
参謀本部が西欧の戦術を参考に、穴だらけの珍説を主張したのは明治36年、日露戦争の始まる前年でした。
当時の日本は工業力が育成途上で、弾薬すら戦争が始まれば輸入しなければ足りない状態でした。戦争が近づき、イギリスなどから最新の兵器をどんどん買い入れていた時期です。
参謀本部が国民へ宣伝したかったのは、最新の兵器を用いれば、どんな敵にも勝てる。そのためには多額の出費(すなわち増税)など、我慢しなければならない、という空気作りだったかもしれません。
そして、一度国が史実として教科書へ載せてしまうと、なかなか変更はきかないものです。
余談でした。
No.7
- 回答日時:
えっと、これって、実は歴史書の問題なのです。
まず、長篠の戦にて、鉄砲三段で打ち破ったとしているのは、「信長記」という書です。
筆者は小瀬甫庵という人なのですが、この信長記、かなり創作が入っておりまして、同じ時代の批評でも「小瀬甫庵の書には本当のことは3つのうち1つくらいしかない(たしか三河物語かなにかの記述)」とされています。
しかし、桶狭間の奇襲などを、面白おかしく取り上げており、江戸の世において、信長記は多くの人に読まれたのです。
そして、現在ではこの資料は歴史書としての価値はほとんどなしという評価になっています。
方や小瀬甫庵が「正直すぎる」と評価した信長公記(太田牛一著書)は、第1級の資料としています。
この小瀬甫庵の太田牛一にたいする評価からわかるように、彼は意図的に創作部分を入れ込んでいるのです。
つまり、信長記は、歴史書ではなく、現代で言うところの花の慶次とか並みの、「歴史小説」とすべき代物です。
現代においても同様です。三国志演義を読んで楽しむ人は多いでしょう。しかし、その元になった、正史三国志を読む人は、そうそういないでしょう。
そういうふうに、いわゆる創作物だけが読まれる状態になると、どうなるかというと・・・「赤壁では諸葛亮が大活躍した(実際にはほとんどしていない。また、赤壁は正史ではほとんど記述がない)」「周瑜は諸葛亮に看破されてそれで持病が悪化した(実際に看破されたという話は正史にはない)」とか、そういった創作で盛り込まれた話が、「歴史化」してくるのです。
鉄砲三段や桶狭間奇襲も同様で、信長記のほうばかりが大衆に読まれすぎたせいで、歴史化してしまったものです。
発想は、おそらく、雑賀衆などがやっていたものを、小瀬甫庵が頭の中で長篠の戦に当てはめたのでしょうね。
机上の空論という言葉がありますが、想像するのは簡単でも、実際にやるには相当な労力がかかります。鉄砲三段も、空想の代物だからこそ、長篠の戦に組み込むことが可能なのです。
回答ありがとうございました。
大河ドラマを見ても、作者の想像や演出で描いている部分がどこなのか悩みますが、
江戸時代から同じようなことがあったわけですね。
教科書には正しく書いてあったのかどうかは覚えていませんが、
参考書や先生の説明に「嘘」を教えられた可能性はありますしね。
史料が信頼できるかどうか踏まえながら勉強しなければいけないなんて、
歴史こそ“よく考えて”学ばないといけない科目だったんだな、と今更のように思います。
逆に当時の私にとって歴史が難しかった理由もわかるのですが(笑)。
No.6
- 回答日時:
歴史というのは面白いですね。
鉄砲の三段布陣による連続発射。
これには前提条件があります。
1 鉄砲の数が必要。
2 連射を可能とする弾薬が必要。
3 鉄砲を操作することに習熟した兵士の存在が多数必要。
そして、それらを可能とする経済力、です。
武田の騎馬隊は、イメージからすると万余の騎馬軍団というイメージですが、実際は500頭位、しかも日本馬なのでポニーに近い馬格だったそうです。
ですが、「自分より大きな馬が、こちらに向かって走ってくる」という衝撃で、勝っていたようです。
信長は、長篠の戦いにおいて「柵」でこの衝撃力を封殺し、鉄砲の連射というより大きな衝撃力で武田を破砕したのです。
信長は、「楽市・楽座」等の経済政策と堺を押さえ、鉄砲を多数所有したことで知られています。
その所有数は世界一だったといわれています。
「鉄砲の」と規定したならば、三段備えの戦術というのは空前絶後でしょう
この回答への補足
回答ありがとうございます。
>鉄砲の連射というより大きな衝撃力
鉄砲の音で馬を驚かした、という話は聞きましたが、衝撃力というのは、どんな力のことを言うのでしょうか?
>信長は、「楽市・楽座」等の経済政策と堺を押さえ、鉄砲を多数所有したことで知られています。
ちょっと調べてみたのですが、年表の多くが鉄砲伝来の年号が書いてある位で
信長が堺を押さえた年というのが明記されていませんが、それは長篠以前なのでしょうか?
No.5
- 回答日時:
「発射に時間がかかる飛び道具を多段に配置して交代で発射する」という発想自体は、中国南宋の時代にあります。
鉄砲ではなく弩の三段射撃ですが、信長より三百年以上前でおそらく世界最古ではないかと思います。また銃に限定すると二段撃ちが1514年チャルディラーンの戦い(オスマン帝国vsサファヴィー朝)でありました。
日本ではNo4さんの言うとおり雑賀衆などが多段射撃を行っていたようです。
1594年に考案されたマウリッツの多段斉射は十段でしたね。それが銃の性能の進化につれてグスタフ・アドルフのときは五段になりフリードリヒ大王の時代には三段になっています。
この回答への補足
となると、やるかやらないかは別問題として戦国時代以降の人間が
「三段撃ち」を有効な戦術として考える可能性はあるわけですね。
チャルディラーンの戦いを小瀬甫庵が“ニュース”として聞いていて
小説を面白くするためにヒントにした可能性もあるかもしれないですね。
No.4
- 回答日時:
日本では銃の掃除や玉込めを分担する方式で、連射を行なっていました。
雑賀衆の組撃ちや、島津家の繰り詰めなどが有名です。
信長も、桶狭間より前に、今川の砦を攻撃する際、この方式でみずから鉄砲を放ったとの記述が、信長公記にあります。
ただし長篠において、連射が必要だったかどうか、疑問です。野戦築城してあるので、たまに撃つだけで充分だったのではないかと考えます。
No.3
- 回答日時:
No.1
- 回答日時:
ちょっと的を得ている回答かどうか分かりませんが、こんなことを言っているサイトもあります。
参考URL:http://www005.upp.sonet.ne.jp/rudlf/data/rekisi/ …
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