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俳句の、鑑賞文と句意は、どう違うのでしょうか?
何だかどちらもほぼ同じような気がします。
どなたか教えてください。

A 回答 (1件)

 「句意」より「鑑賞」の方が、広い範囲の内容を含みますが、ここまでが句意、ここからは鑑賞という明確な線引きはできないと思います。



 句意は、字のとおり、その句の意味ですから、その俳句の、言葉で表現された事柄を中心に解説することになります。

 「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」を例に取れば、「今、目の前には、夏草が生い茂っているだけだなあ。しかし、ここは、かつて武士たちが手柄を立てて栄耀栄華を誇ること夢見た場所なのだ。」というふうに、多少言葉を加えながら、この句の意味を解説することになります。

 これに対して、「鑑賞」は「大辞泉」によれば、「芸術作品などを見たり聞いたり読んだりして、それが表現しようとするところをつかみとり、そのよさを味わうこと。」ですから、「つかみとり」「味わう」という行為がポイントになり、言葉では直接表現されていない部分にも積極的に言及し、作者が何を感じ、何を詠(よ)もうとしたかについて、自己の考えを述べることになります。
 先の句であれば、「人間のはかなさ」には当然触れることになるでしょうし、また、芭蕉の句であること、平泉を訪れた際に、源義経が最期を迎えた高館で詠んだ句であること、この句が収められている「奥の細道」の中でのこの句の位置づけとか、そこで触れられている、芭蕉が尊敬する中国の詩人・杜甫の漢詩「春望」との関係というような、俳句の背景に触れることにもなるでしょう。
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この回答へのお礼

そうなのですか。ご丁寧にどうもありがとうございました。
とても役に立ちました。

お礼日時:2006/08/22 02:33

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