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大阪って昔は難波(なにわ)と呼ばれていたとか。
その時は大阪城は何と呼ばれていたのでしょうか?

A 回答 (6件)

「大阪城」のサイトの「波乱万城 -大阪城歴史絵巻」を御覧下さい。



 ◎大阪城
  http://www.tourism.city.osaka.jp/ja/castle/histo …

 「石山本願寺の時代」に『明応5年(1496)、本願寺8世法主蓮如が山科本願寺の別院として大坂御坊を建立し、これが石山本願寺の起源となった。その経緯を述べた蓮如の御文章は「大坂」という地名が見られる最初の文献である。』とあります。また,『 『信長記』には、「そもそも大坂はおよそ日本一の境地なり」に始まる有名な一節があり、大坂の優れた地勢について詳しく述べられている。』ともあります。

既に出ているように,大阪城が築城される以前から「大坂」だったようです。

参考URL:http://www.tourism.city.osaka.jp/ja/castle/histo …
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大阪が難波(なにわ)と呼ばれていた当時(飛鳥・奈良時代)、上町台地にあったの難波宮(なにわのみや)ぐらいです。

場所は現在の谷町4丁目。現大阪城のすぐ側です。

なにわの呼称に関しては
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA# …

参考URL:http://www.osaka-cpa.or.jp/html/bunka/rekisi/nan …
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室町時代中期までは、日本の低地は開拓されていないと言って良いと思います。


河川の氾濫で人が住めるような状態ではなかったと考えてください。
室町末期の有名な河川改修に武田信玄がしたものがあります。
教科書にも載っているのではないでしょうか。
つまり、その頃から低地に人が住めるような土木技術がどうにか完成したのです。

東京、大阪、岡山、広島、などは何れも戦国時代後期以降人が住めるようになったところです。
それ以前の都市、京都、奈良、鎌倉、は内陸か山が近いところです。
武田信玄の甲府、上杉謙信の春日山、毛利元就の吉田郡山、後北条の小田原、伊達政宗の米沢、どれも山が近いところでしょう。今川義元の駿府-静岡はよく解りませんが、どこまで行っても低地という土地柄でもないと思います。

勝手な憶測ですが、低地の干拓に割と早く成功したのが織田信秀・信長ではないかと思っています。守護代の家老がのし上がった背景に、この農業生産もあったのでは無かろうかと思っています。

大阪城ですが、
よく言われるのが当時は葦が生い茂るようなところで、そこに石山本願寺があったと。本当か嘘かは知りませんが。
近畿をほぼ手中に収めた信長が、そこを拠点にしようと一向宗-本願寺と大戦争をしました。
これが秀吉の代になって大阪城となるところで、秀吉は大阪の大開発をやってのけたのです。
(で、家康は江戸の大開発を行ったと)

あなたの質問にあえて答えるなら、石山本願寺でしょうか。
しかし、それほど長い歴史はなかったのだろうと思います。
例えば平清盛は、大阪に遷都せず、福原(神戸?)に遷都しています。
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大阪城は、昔の石山御坊、別名石山城と、その城下跡につくられています。



石山御坊(石山本願寺とも)は、15世紀後期の蓮如上人のころより発展。そのとき、坂の上にあったこの地は「小阪」と呼ばれ、それが後に「大阪」となります(大阪の書物での出現は1498年とされています)。
織田の時代には本願寺の総本山として、織田と敵対していました。堅牢な城になっており、結局織田は和睦と言う形でこれを打ち倒します。

で、秀吉の世になって、この石山城跡に城を築城。
つまり、戦国時代末期まで「大阪城」自体が存在しません。

秋田城のようにつくられたのが非常に古い城も数多いですが、大阪城は戦国末期につくられた、新しい城です。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/石山本願寺
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まずもって、難波の時代に大坂城はありません。


城ができたときにはもう大坂と呼ばれるようになってましたから。
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