色んなキリスト教
いろんな種類があるキリスト教で気になる事があります。
「信仰すれば天国。信仰しなければ地獄」
私にはこの考えが理解できません。こう思っている人に恐怖すら覚えます。
「信仰すれば天国。信仰しなければ死後、無になる。」
こちらの方がまだ理解できます。
神は無条件で人間に命を与えてくれ、選択することも与えてくれたのですよね?なのになんで信仰しないと死後に地獄にいかなきゃならないのですか?生んでおいて、そんな理不尽な事はありません。
生まれたのが罪?だったら選択肢も与えずに自分を信仰するように人間の脳にインプットしておけばよかったんじゃないの?
親のいう事をきかなきゃ罰を受けるのは当然だとか言うのなら、
前者の神は最初からそうインプットさせ人間を造れば良かったのでは?
しかし、前者の考え方をしている人は「後者は人間が都合の良いように作り変えた」と言います。
そして後者の人間は「そちらの方こそ、信仰させるために都合の良いように代えたのだろう」と言います
このような宗教の議論をすると頭が痛くなり吐き気がします。
しかしどちらが正しいと思いますか?
前者を批判するような言い方になり、前者の宗教を信仰している方が
不快に感じたのでしたら、謝罪します。
(私は前者も後者も信仰していません)
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信仰無ければ地獄というのは、明らかにドグマですね。良くありません。これでは、信仰の尊厳を犯します。人間の理性にも反しています。
キリスト教が昔、ローマでニケーア公会議で、国教化されるに際し、国や一部聖職者に都合の良いように書き換えられたのでしょう。
今は、流行のスピリチュアリズムで、既存のキリスト教は大きな変化を迫られています。興味がおありなら、「コナンドイルの心霊学」などお読み下さい。
実際イギリスには、既存のキリスト教とか一線を画す「スピリチュアリストチャーチ」というものがあり、スピリチュアリズムを信奉するリベラルな方はそちらに通っているそうです。
この回答へのお礼
回答ありがとうございます。
信仰してる人たちへの拒絶みたいなものがなくなりました。
みんな普通の人なんですね。私は無信仰だし宗教に興味がありません。
恐怖はなくなりました。
そして長きに渡り私の疑問に回答してくださった方々、ありがとうございました。
ポイントは私が最も疑問に思っていた事へ回答していただいた方へ差し上げたいと思います。
皆様ありがとうございました。
どちらも間違いではないと思います。
両者とも含むと思います。
あくまでわたしが捕らえた風景でしかありませんが、下記のように思えます。
<キリスト教を信じるものは天国で神とともに永遠に生きつづけ、キリスト教を信じないものは地獄で炎で焼かれ永久に苦痛を味わう>
とまことしやかに言われるようになり、布教(強迫的になってしまったら、それは伝道ではなくなるので、あえて伝道という言葉は使いません)に利用されるようになってしまった原因は何かと考えると、わたしが一番に思いつくのが、ルカ16のストーリーです。
金持ちが死に黄泉の国で苦しんでおり、ホームレスのラザロは死後、神と一緒にいるという内容です。
これをキリスト教は、布教する際に利用したのではないかと思えます。
原始キリスト教の時代、入会者は全財産を団体に収めなければなりませんでした。
(日本の一部カルト教団も同様のルールがあるようですが)
イエスの時代には、終末を願う人たちで満ち溢れていたわけです。
それは世界の終わりの望んでいたのではなく、原始キリスト教徒は全員ユダヤ人で、彼らは自分達が唯一神により選ばれた民族であると固く信じていました。
(イエスが言っていた異邦人とは、ローマ人のことではなく、他のユダヤ民族のことだと思えます。10支族のこと。)
それゆえ、<自分たちは義>とするには悪が必然的に必要で、異教を悪と捉え、終末がくれば自分たち以外の人々が神によって罰せられ、自分達は開放されるという思想がありました。
(これが終末思想。)
後にこの団体はパウロにより、ディアスポラして異郷に住むユダヤ人に布教活動していくことになりました。
さらにコンスタンティヌスの時代になると、古代ローマには皇帝は神の代理人とする思想があったことから、キリスト教は彼によって利用されすりかえられてしまい、いつのまにか、キリスト教徒は異教の神(太陽神)を崇拝するようになってしまいました。
後に日曜日を礼拝する日となった理由は、こういうわけです。
(つまりイエスというラベルのついた別の神を現代も崇拝していることになるわけで。)
コンスタンティヌスが他の勢力と対抗するために、田舎町コンスタンティノープルに防衛拠点を作りビザンチン帝国を作ったとき、はっきりとユダヤ人以外の人々もキリスト教を政治上の都合により信仰させられたのではないかと思えます。
コンスタンティヌスはビザンチン帝国(東ローマ帝国)を造る際にキリスト教も認め、やがては国教に定めました。
ビザンチン帝国はこの世の終わりまで続くと人びとに信じられていましたが、1000年(永久)王国はほんとうに1000年でオスマン帝国により滅亡させられていまいました。
(その前に光<ルネッサンスの栄華>と闇<キリスト教が退廃の限りをつくした>が顕著に現れました。)
ビザンチン帝国は領土を拡大し、思想を統一するのにキリスト教が利用されたわけですが、その際に土着の神を崇拝する人たちにどうしても受け入れてもらえないとわかると、方向を変えて土着の神とキリスト教の神を結合させて、すり替えていったようなのです。
または頑固に土着の神を崇拝する人にいくら布教してもダメだとわかると、その土着の神に悪魔というラベルを貼って、徐々に彼らの神を悪魔だと思えるように洗脳していったようなのです。
キリスト教は沢山の悪魔を創造しましたが、そのキリスト教が悪魔として作った原型は、その土地の人びとの生活に密着し太古の昔から人びとに寄り添ってきた神たちだったわけです。
もちろん悪意によるものではなく、<この世を清めなければ>というある種強迫観念により、善意として布教活動をしていたとは思います。
(正義のためなら不正も辞さない?)
この世を悪とみなしたので、清めなければ という発想になったのだと思います。
昔からその土地に暮らす人々に愛されていた神々が邪悪な穢れたものであるか?
私はそうは思いませんが、熱心すぎたキリスト教徒にとっては邪悪なもので、漂白して清めてあげなければ 助けてあげなければ という熱意というか強迫観念により、土着の神を悪魔とするようになってしまったのではないかと思います。
日本の中世からある宗教も、日本の原始宗教と結合し、穢れをとても嫌います。
その派生した思想の一端が現代にまで繋がる差別(部落差別)になってしまったようです。
この世を穢れと考えた時、同時に不幸が発生する。
キリスト教は神のみがまったくの義としています。
つまりキリスト教徒は自分達はちっとも義ではないとわかっているわけです。
そこまでは謙虚で美しいとは思いますが、キリスト教はまったくの義であり、それを信仰している信者はまったくの義であるとなるかというと大いに疑問が発生します。
ブッシュもとてもとても敬虔なキリスト教徒であると自ら言っていますし、彼自信も固くそれを信じて、神の導きのもとに戦争をしかけていると信じているようです。
正義という名の元に、自らの手を汚さずに人の命を奪い、文明を破壊しようとしているわけです。
正義を掲げるとそれができてしまう。
誰も止められないほどの強いエネルギーを生み出す。
それが穢れに対する強迫観念のエネルギーのものすごさです。
ということで、強迫観念ほど恐ろしいものは無いし、とてつもない破壊力を持つのだと思えます。
ほどほどがよろしいかと思いますが、自分はまったくの義になってやるという欲望は誰も止めることがきません。
それがどんなに破壊を生み出すと説明しても、理性を欠如した欲望に対して、誰も 神がいたとしても 止めることは不可能です。
唯一 止めるものは理性。
それはキリスト教では神から発せられる聖霊としている側面もあるようですが、穢れを祓ってやるというとてつもなく欲望の炎を持つ人間に接触すると、たちまち理性=聖霊は燃え尽きるのではないかと思います。
#7です。疑問にできだけ答えます。
>なんで人間は罪を背負わなくてはならないのでしょうか?
罪の問題は日本人には難しいです。
西洋でキリスト教によって罪の意識が人々の心に何千年をかけて植えつけられました。
この意識は主に神に対して自分はどうかというものです。神の掟を裏切ってないか?など。
それに対して、日本は恥の文化であり、神との関係よりは人との関係で、主に善悪を考えます。
誰かに対して「すまない」という感じるんです。
逆に、誰にも迷惑をかけないかなら、悪くないというわけです。
それ故、日本人がキリスト教を理解しようとすると、
罪の意識というのを、自分なりに、解釈し直すことが必要になります。
自分は<罪の意識>を<歪みの自覚>という風に捕らえています。
自分は一生懸命生きてるけれど、何処かおかしい、何か足りないという感じです。
いわば、本当の自分=本来の自分を見失ってる思うわけです。
それで、人はこの満たされないものを埋めるために何かを求めます。
普通の人は、仕事をして家庭を持ち、まあ、人並みの暮らしをすれば、これで生きてる一応の意味を感じてやったいけます。
しかし、宗教的な資質がある人は、この世の不完全なものでは、生きてる意味を満たす事ができないのです。だから、死を超える何か絶対的なものを求めて、宗教の道へと進むのではないでしょうか?
宗教による救いの体験について
宗教の救いの体験は、キリスト教や仏教など宗教の種類は違っても、その原体験は驚くほど共通してます。
普段の自分(自我)が生きてる意味(具体的にはいろいろです)を追い求めていって、その結果、どんなに努力しても無理だと絶望して、「もうどうにでもなれと」あるゆる自我の計らいを放棄したときに、普段の自分(自我)は消えて、それを越えた<大きな力>が自分の内で働くのを感じるのです。いわゆる、古い自分が死んで、新しい自分に目覚めるという再生の原体験です。
パウロの救いの原体験について
パウロはユダヤ教の熱心な信徒で、律法を守る事を絶対化してました。救いへの道として、律法を守る事に必死に取り組んでいたのです。
しかし、どんな人間にもユダヤのあの律法を完全に守る事などできるものではありません。
それで、パウロは律法を誰よりも守っている誇りもあるけれど、律法では満たされない不安も感じてたと思います。
そんな時に、パウロはキリスト光にあう回心の体験をするんです。
パウロは回心体験の後で「もはや生きてるのは私ではない、、私の中でキリストが生きてるのだ」と言います。(ガラテヤの信徒への手紙より)ここでパウロのいう<キリスト>とはもちろん人間イエスのことではない、イエスの内で働いている<聖霊>のことです。これは救いの原体験でいえば<大きな力>に当たります。これは個人や宗教によって呼び方が違います。ある人は<いのちの働き>と言い、仏教では(<仏性>など呼びます。
自分は、パウロの神学には批判的ですが、パウロの救いの体験は本物だと思ってます。
パウロの救いの神学について
パウロはキリストによるこの救いの体験を、ユダヤ教の聖典(旧約聖書)を使って、主にユダヤ教の律法主義への批判という観点から理論武装したと思われます。当時は、キリスト教といってもまだ生まれてまもない新興宗教に過ぎません。だから、巨大なユダヤ教に対抗するために、ユダヤの聖典を基にどうしても壮大な理論(ストーリ)を作る必要があったのでしょう。
パウロの神学の主なものに原罪説と贖罪説があります。
原罪説=最初の人間が禁断の果実を食べたせい
贖罪説=イエスが人類のすべての罪を背負って十字架の生贄になった
現代の聖書学者(最先端)の中にには、これらのパウロの神学に対して、時代と地域の枠に囚われすぎていて、妥当性がないと批判的な人もいます。つまり、原罪説は神話にすぎなくて客観的な事実でない、贖罪説もユダヤ教の羊の生贄にする風習を取り入れた解釈にすぎないといことです。私はこういう考えかたが正しいと思ってます
ここらへんの所は、八木誠一という聖書学者の本に詳しく載ってるので、興味があれば一度読んでみてください。
No.12ベストアンサー20pt
#7です。お礼を読みました。
>hisyaさんはなにか信仰してるのですか?
私は一応キリスト教の求道者です。たまに教会に行きます。
自分はイエスの弟子でありたいと思ってますが、キリスト教の教義には多くの疑問を持ってます。だから、いつまでたっても、教会から洗礼を受けた普通のクリスチャンになれません。
新約聖書は主にイエスの生涯(福音書)とパウロの神学など(書簡)からなってますが、
その中で、イエスの言葉や教えやたとえ話などには心を惹かれるので大切にしますが、パウロの神学=今のキリスト教の教義の多くは、絶対視しないというかあまり気にとめません。今のキリスト教はなんかイエスの言葉よりパウロの言葉を重視し過ぎてるように思います。これではまるでパウロ教ではないかと思います。パウロは弟子に比べて学門があり論理の構築に長けていますが、あくまで一人の人間なので限界もあります。ちなみに、パウロは生前のイエスに会ったことがないですよ。
後、私は、パウロ神学による教義に限らず、宗教の教義自体をあまり重要視してません。
宗教の教義というのは、どうしても図式化=単純化が極端になりやすく、複雑な現実を捕らえるのには、無理があるような気がしています。補足や例外を全くつけずに、機械的に割り切ると、おかしなことになると思います。要するに、宗教の教義は人間が作った便宜的なもので、絶対的な真理ではないと思ってるのです。なお、イエスは「言葉は殺すが、霊は生かす」と言って、当時教義として重視されていた律法であっても、聖書の文字をそのまま絶対視せずにおかしな点は批判しました。有名なのは安息日に関してです。
だから、「信仰すれば天国。信仰しなければ地獄」という教義は正しいとは思ってません。
↓
ちなみに、この教義に関しては、布教以前の人はどうなるか?牧師に質問したことがあります。その時に、牧師から納得できるような回答は返って来ませんでした。これはキリスト教の泣き所=突かれたら痛いところのようです。
また、「信仰すれば天国。信仰しなければ死後、無になる。」という教義も正しいと思ってません。
↓
ちなみに、この教義の宗教団体の教えを聞きに行った事もあります。ただ、この団体は、あまり、評判がよくないと人から聞いてなんとなくやめました。今となれば、これよりは「全ての人間は死んだら無になる」のほうが自然で本当らしく思えますね。
現在、死んだ後の裁きがどうなると思うかと言えば、ほんとうに正しい神が存在するなら、その人にふさわしい裁きがちゃんと下されるだろうということです。だから、死後のことはあまり心配せずに、祈りや聖書を読むことで神と交信することが大事じゃないかと考えています。聖書はそのための良き道しるべだと思いますね。ただ、聖書はある意味暗号なので、たとえば<敵を愛せよ>など、個人では、解読を間違がえることも多い気がします。だから、自分一人で考えるだけでなく、時に、別のクリスチャンの人と話をすることも独善になるのを防ぐ上で大切だと思ってます。
すいません連投で・・No.4です。
>>キリスト教では現在も、女性は結婚前にセックスすると地獄に落ちる(というか、ダメ)なのか?です。
聖書には、そういう記述は無かったような気がします。またTVの説法番組を見る限りそんな教えは聞いたことありません。私は、キリスト教徒ではありませんので、「現在のキリスト教」について本当のところはわかりませんけどネ。
私は以下の書籍や、最近では、ダビンチコードや死海文書への関連本、同映画放映時にスカパーで放映された各種特番、映画「ジーザズ・クライスト・スーパースター」とか「パッション」などで、イエスのお考えだったところを推測しています。
・霊界通信 イエスの少年時代―貧窮の中の小さな王者(G・カミンズ)
・霊界通信 イエスの成年時代―神と人間のはざまで (G・カミンズ)
・霊界通信 イエスの弟子達―パウロの回心前後 (G・カミンズ)
・愛の錬金術 上下巻―隠されてきたキリスト(バグワン・シュリ・ラジニーシ)
・聖書の真義 福音書と預言書の秘義解明 M・ドーリル博士
>>ですが自己責任内での欲も、聖書では認めないのでしょうか?(避妊する・ピルを飲む・できちゃった婚する覚悟がある場合)
うーん、そんなに「性欲」について悩む必要は無い気がします。キリスト教は、もう2000年以上も前の古い教えであり、そして、当時と現代とでは環境は大きく異なってます。いくらイエスが優れた方であろうとも、現代の状況を見通してまで、教えを述べられてはいないでしょう。
通常、文明のサイクルとして2千年前後というところではないでしょうか。私は、もうキリスト教は役割を終えたと思ってます。
あなたは、もっと心を自由にして、多くの書籍や教えを学んで選択されればいいと思いますよ。本来、人間は霊であって、肉体を卒業したら、セックスはほんとに重要な問題では無くなるわけですからね。
No.10ベストアンサー10pt
No.4です。
なかなか素直な疑問をバルカン砲みたいに連射ですね。(そーいえば、自衛隊もバルカンの弾層が空なのを確認しないで、暴発させてますね。)
>>そういえば気になったのですが、なんで処女じゃないと駄目なんですかね?
女性を商品のように思っているからかもしれませんね。イスラム教では、もっと激しくて新婚初夜に出血したシーツを家の外に飾る風習があるようですよ。出血しないことを苦にした花嫁の自殺さえ珍しくないそうです。外出時に顔や体を隠してますが、自宅も妻や娘を客に見せないですむような構造になっているそうです。
日本では、戦前は「処女性」には、かなりおおらかで、「花いちもんめ」の歌は、ほんとに好みの女の子と一夜をともにする遊びだったそうです。(妊娠したら、それまで相手した男性の中でいちばん金持ちの男を選んだらしい)
キリスト教でいえば、イエスはマクダラのマリアといい仲だったというだけでなく、「一番弟子」だったようですね。つまり、男性の弟子たちよりも、奥深い教えをイエスより伝授されていた。つまりペテロ等の男性からみて、嫉妬・やっかみの対象だったはずで、何としても地位を落としめる必要があったんだと思います。まあ、イエスが十字架に架けられるとき、男性の弟子は逃げ去ったが、女性たちは殺される危険があっても逃げなかったし、復活したイエスに最初に会ったのは女性たち。弟子としての差は歴然ですね。
今の言葉でいえば、イジメでしょうか?
>>でも今は時代が違うじゃないですか?
なんでセックスが悪いことのように書かれてるんですか?
うーん、聖書は「今」書かれたわけじゃないですから・・・。で、今なぜセックスについて訂正の発言をしないか?といえば、「タブーだから、ちゃんと考えてない」「処女性重視への反論を主張することは、自分の地位を賭ける行為だから」といったところでは?
>>だったら結婚という契約すれば女も男も性欲が生まれるように人間を造ればよかったんじゃ?そもそも欲を我慢するという事が正しいなんて考えが良く解かりません
これは、キリスト教の解釈から離れての回答です。男女を創ったということは、神が「互いに助け合って、幸福になりなさい」ってことだと思います。結婚しないでも性欲があるということは、神は、「結婚」という制度はあっても無くても、お互いが幸せなら良しとされているんでしょう。ただし、現実問題として「独占欲」「嫉妬」「信頼感」って感情もあるので、必要悪?としての結婚制度が推奨されるんでしょう。
それから、みんなが「欲」のままに生きたらどうなるか?ヒドイ世界になるのではないでしょうか?もちろん、みなが荘子や老子みたいになってご隠居さんみたいになると、発展も無いでしょうが・・・。欲が全部が全部ダメということではないと思いますがね。向上心ってのも欲でしょうからね。
P.S.
男女平等社会のアメリカでは、専業主婦だとしても、いきなり男が離婚することは、慰謝料などの法的な問題はあっても、倫理的・社会的には全然問題ないそうです。男女平等に徹すれば当たり前のことでしょうけど、たとえ手に職の無い女性であろうと「守られるべき存在」では無いということなんですね。(だからアメリカ女性は手に職を持つ)
この回答へのお礼
再度ご回答ありがとうございます。疑問をぶつけてしまってすみません。
私が処女だのどうので一番聞きたい事なのですが、
キリスト教では現在も、女性は結婚前にセックスすると地獄に落ちる(というか、ダメ)なのか?です。
欲のまま生きればひどい事にはなりますよね。
ですが自己責任内での欲も、聖書では認めないのでしょうか?(避妊する・ピルを飲む・できちゃった婚する覚悟がある場合)
5番です。
>私の疑問に思うことは論破できないという事が答えですよね?
論破するとかしないとかの問題ではありません。
人の信じ方の問題です。
ただ、そういった疑問は、昔からあったという事です。
>そう言われるとエホバ神がいるのに悪魔サタンの存在を許す必要はないですよね。
神とサタンの関係は、キリスト教のなかの悪魔学でさかんに研究されています。
サタンは、堕天使であるとする考え方や、サタンは、神の命により、堕落しそうな人間を探し出す役目を負っているとか、神の栄光をより明らかにするための影の役目を負っているなどの考え方があります。
最後の考え方では、神の強さを見せるため、わざとやられ役の悪魔をつくって、八百長試合をしている事になってしまいますが。
>セックスをしようが宗教的に地獄に落ちる、否定されるということは無いのですよね?
セックスをする事で地獄に落ちるのではなく、何のためにセックスするかが問題となるわけです。
子孫を残す目的(子造り)であれば問題ないのですが、快楽目的だと地獄に行く可能性があります。
>「信仰しなくても地獄には落ちない」とちゃんと書く必要があったのでは無いですかね。
信仰の度合いにより、死後の行き先は異なります。
天国は、12有り、信仰の度合いにより行き先が異なります。
地獄の数は、明示されていませんが、キリスト教の神を知らずにいたため、神を礼拝しなかったために、地獄に落とされた人もいたようです。
(パウロの黙示録)
>なんか言ってる事すべておかしくて、頭逝っちゃってるなと思います。
こういう人って頭の中ではどんなこと考えてるのですかね?
普通に接してると全然普通なんです。
これを言い出したら、宗教や神話、おとぎ話などは、そんざいできなくなってしまいます。
またSFアニメなども同じです。
日本人が神道を信仰する事でも、黄泉の国の話は有ります。
日本の国をドロの中に矛を突っ込んで造った話も有ります。
神社へお参りする人は、頭逝っちゃってるなと思いますか?
だとすると、年末年始に明治神宮にお参りする人も、靖国神社へ参拝した小泉首相も完全に逝っちゃっているのでしょうか?
この回答へのお礼
回答ありがとうございます。
この宗教を知らない人たちって地獄に落ちたり永遠の命をもらえなかったら「残念」で終わりなんですかね?
なんで快楽目的だと地獄なのでしょうか?生殖行為に快楽を求めると地獄逝きとなるのが理解できないのですが、
個人の自由だが宗教的にそう書いてあるのだから従わなければ
宗教的には地獄でしょうがないという事ですか?
神社にお参りするのと宗教を信仰するのは違う気がしますが、
今日テレビ番組で、秋葉原でアニメに夢中になっている人を特集していたのですが、宗教を信仰してる人と似ているというか、こういう考え方なら納得できました。
この問題を論じると長くなるので、回答をいくつかに分けます。つぎはPART2です。
「信仰すれば天国。信仰しなければ地獄」
この考え方にも重大な欠陥があります。
それはキリスト教の伝わる以前の人々はどうなるかという問題です。
この考え方をそのまま適用すれば、布教以前の人は本人に何の責任がなくても、
キリスト教の信仰がないだけで地獄ということになります。
この問題にカトリックは「煉獄」というのをつくり対処した。
↓
初期のキリスト教(今のカトリック)がゲルマンに布教するときに、部族の長が「私達の祖先はいまどこにいますか?」と質問して、宣教師が「地獄です」と答えると、部族の長は「私は先祖と同じ所に行きたいので、あなたたちの教えを信じる事はできないと」と拒否したということです。ゲルマンへの布教はこのことが障害になってなかなか進まなかったようです。そこで、カトリックの人は天国と地獄のほかに煉獄というのを作りました。それは一端死んだら天国でも地獄でもなくて煉獄に行くというこものです。これによって布教以前の人々は皆煉獄という中間地点にいることになったのです。ゲルマンへの布教はこれによってなんとか進んだそうです。つまり、初期のキリスト教は教えを広めるために、布教先の土俗の信仰もうまくキリスト教に融合していったわけです。
この問題に現代のキリスト系のある新興宗教は
「信仰すれば天国。信仰しなければ死後、無になる。」という教義を作り対処した。
↓
現代のキリスト教でも、アジアなど先祖崇拝がまだ根強く残ってる所に布教する時には、
「先祖はどうなるのか?」という問題がキリスト教への信仰への大きな障害になります。
そのためか、現代のキリスト系のある新興宗教において
「信仰すれば天国。信仰しなければ死後、無になる」という新しい教義を採用してる所が、
普通の教会から批判を受けつつも、新たな信者を結構たくさん獲得してます。
後、この教義は、祖先の問題は別としても、信仰しなければ地獄とは脅しではないかと反発する人も多いので、ある意味、キリスト教に関心がある人に受け入れやすいのかもしれません。
いずれにせよ、西洋のように非クリスチャンが例外のような所でないと、地獄の話はキツイのかもしれません。それに対して、日本などクリスチャンの少ない所では地獄はないという話がピッタリくるのでしょうね。あと、日本では、天国と地獄があるという教義の一般の教会でも、天国の話はよくしても、地獄の話はあまりしません。
この回答へのお礼
回答ありがとうございます。かなり分りやすいです。
それぞれの宗教が見えてきました。わかるだけで精神的に楽になりました。ようするに信じるか信じないかの領域という事ですね。
hisyaさんはなにか信仰してるのですか?
まだ疑問があるのですが、なんで人間は罪を背負わなくてはならないのでしょうか?禁断の果実とか、イエスとかそんなの私達に関係あるのですか?(血はつながってるわけですが)
聖書を書き換えただのお互いに言い合ってますが、どっちがホントなんですか?考古学者立会いの下の物的証拠だとしてもいくらでも偽造できると思うのですが?
ノアの箱舟はホントに存在するのでしょうか?でちあげではない確実な物的証拠があるのでしょうか?
キリスト教が全く浸透して無い国もあると思いますが、その国の人は地獄逝きという事ですか?
とても都合の良いストーリーだと思いますがどうですか?
禁断の果実を食べたならそんなものまた生やせば良いし、イエスなんていくらでも再生できるでしょう。当事者以外にも罪をかせるのは間違えだと思うのですが?
キリストの話のそのものは理解できましたが、牧師が働かないという思考回路・そのほかの教えそのものが、とうてい私には理解できません。
ようするにキリスト教は「救いをもとめ信仰すれば天国へいけるかもしれない」でエホバは「今の命は無条件に神がくれて、神を心から崇拝すれば永遠の命がもらえるかも知れない」ですよね。
よく分りました。回答ありがとうございます。まだお付き合い頂ければよろしくお願いします。
この問題を論じると長くなるので、回答をいくつかに分けます。まずはPART1です。
「信仰すれば天国。信仰しなければ地獄」
これが普通のプロテスタントのキリスト教の考え方です。
人間は皆罪深く地獄へと落ちていく存在という認識なのです。
まず、このことの自覚が必要になります。つまり、己の罪の深さです。
それで、己の罪の深さを自覚した人間だけが、自分は地獄に落ちるのが当たり前と思うのです。だから、罪ある人間がそのまま信仰しなければ救われずに地獄なのです。
ただ、ほとんどの人間が、罪の意識が薄いので、なんで自分は地獄なのと思うわけです。
普通の人は、人を殺すなど重大な罪を犯さない限り、自分は地獄に行く程は悪くはないと思ってるものです。言い換えると、ある人が、自分が重大な病気に罹ってるのに、自覚症状がないので気付かないようなものです。そのまま放置して、医者から治療を受けないと、病気は治りません。病人には、どうしても、医者が必要なんです。
ただし、前提になる<人は皆罪深く地獄に落ちても当然の存在>という認識が本当に正しいかは人間には分かりません。こう思うかどうかは信仰の問題になります。普通の人間がここまで深く己の罪を自覚するのは難しいのです。それで、キリスト教の信仰の第一歩は、己の罪の深さを痛切に感じる事から始まります。
>だったら、神が選択肢を与えずに自分を信仰するように人間の脳にインプットしておけばよかたんじゃないの?
この反論には重大な欠陥があります。
選択肢を与えないと自由意志がなくなり、それでは人間ではなくなり人形になります。
ここで大事なことは、自由意志がなくて選択できないと、人間に責任の問題は出て来なくなることです。つまり、選択=責任があってこそ、人間に善悪による裁きの問題=天国と地獄の選別が出てくるんです。
ANo.1です。
>「信仰しなければ地獄に落ちる」という事は事実なのですか?
>だとしたら何故、最初から神は天国しか用意しなかったのか
>生んでおいて信仰を強制させるなら本能的に神を信仰するよう人間を造れば良かったのでは?
>宗教を強制させるために人間が作り変えただけではないのですか?
にお返事します。
言い忘れましたが、私は無宗教です。
ですから、天国も地獄もどちらも私にとっては存在しないものです。
でも、真摯にそして純朴に信仰を抱いている人にとっては
地獄は存在するのでしょう。
ただ、それはその人の心の中に存在するのであって、
実際にその人が亡くなった後に意識だけが残って、
天国なり地獄なりのあの世を味わう、という
現象が起こるとは思いません。
神が本当に存在するから宗教があるわけではないと思います。
人が救いを求め、神を求めたから
そのひとたちにとっての神が存在したのでしょう。
人は理解できないことや
自分たちの力の及ばないことに
神の存在を見たのでしょう。
ですから天災や悪疫に神の罰を見、
いまの苦しみの先の死のあとに
せめて天国と救いを求め、
心の平安を得たのではないでしょうか。
ひとに信仰をしいるためよりも
不心得者をたしなめる
寓話として地獄の存在が信じられていた
のではないかと思います。
この回答へのお礼
再び回答ありがとうございます。
私も無信仰ですが家族がエホバをしていて友人がキリストなので
とても疑問な事が多いです。
地獄の定義についてはとても良く分りました。
そういう地獄なのだったら、「信仰しなくても地獄には落ちない」とちゃんと書く必要があったのでは無いですかね。
でも私の知っているキリストの地獄は、死んだ後に一生 苦しむらしいです。(苦しみしか残らない)
「この世は最初からすべて決まっている」「神の決めたようになる」なんて言うのですが、これはインチキなキリスト教ですか?
なんか言ってる事すべておかしくて、頭逝っちゃってるなと思います。
こういう人って頭の中ではどんなこと考えてるのですかね?
普通に接してると全然普通なんです。
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