なぜ鎌倉?
鎌倉は平氏流の鎌倉景政の本拠ではあったのですが、
なぜ頼朝はこの地に幕府を置いたのでしょうか?
なにか縁故があったのでしょうか?
回答(6件)
- 最新から表示
- |
- 回答順に表示
- |
- ベストアンサーのみ表示
矢張り地の利です。 鎌倉を中心と定めたのは、全国統一前の関東統一直後ですから、関東になります。 安房水軍の力を借りた頼朝は、清盛同様水運の便を重視し、 良港になる小田原、鎌倉、江戸あたりを考えたでしょう。 将門に倣えば関東の中心の江戸ですが、当時は利根川、荒川が東京湾に注ぎ、洪水も多く江戸は湿地帯で、町を作れる状態ではありませんでした。 従って鎌倉になり、三方を山に囲まれた天然の要害で、かつ屋敷を作る木材の調達も容易という事で決まりました。
江戸が町になるのは、家康が入り利根川の流路を変えて、太平洋に流す大規模な掘削工事を行ってからです。
No.5ベストアンサー20pt
この質問は想像するだけで楽しくなる。頼朝の側近になったつもりで。
良港と砂鉄ですね。
「三方を山で囲まれた守りやすい地形」は当然ですが、相模湾に面した天然の良港に恵まれています。
都に住むン万人の生活物資や資材を運び込まねばならないですね。
明治末まで、輸送の主力は海上交通です。
その後執権となった北条氏が、日本列島各地の水上交通の要衝をおさえることで鎌倉幕府の発展に大きく寄与したことからも当初の狙いが港にあったと思います。
頼朝は、宿敵清盛のやり方をよく考察したに違いありません。
清盛は、1180年福原に遷都していますが、福原の地形が鎌倉と同様に、三方が山で良港に恵まれています。
この当時、台頭してきた両雄が同じ考えをもったことに大いに興味があります。
次に製鉄です。
鉄は、農具となり農業生産拡大に寄与し、武器となって勢力拡大にかかせないものです。「鉄は国家なり」と言う言葉もあるくらいですね。
三浦半島一帯は古代から砂鉄の産地です。関東武士の武器供給源となったに違いありません。観音崎の南側がタタラ浜と呼ばれています。
名刀・相州正宗は鎌倉刀匠たちの究極の産です。
都住民の生活を支える食料増産に鉄の果たした役割を無視できません。
平家の栄華の源泉の一つは日宋貿易による巨大な利益ですが、日本刀は銅や硫黄と並んで輸出の稼ぎ頭でした。
それから、鎌倉は奈良時代には郡衙が置かれ地域の中心地になっており、平安時代中頃には源氏の所領となっていました。
石井威望著『日本人の技術はどこから来たか』を参考にしました。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4569558 …
余談ですが、武士の集団があっという間に完全とも言える行政機構を備えた鎌倉幕府を成立させることができたのか、私にとっての謎です。
ほとんど歴史小説で得た知識ですが、
・頼朝の最大支援者である北条氏の勢力下だった
・京から離れることにより、公家からの政治的影響力を低下させる
・箱根峠による防御力
・関東の豪族たちは、元々自主独立の気質が強かった。
ではないかと。
司馬遼太郎が、
・京は地形的に防御することが困難。そのため、京に本拠地を置くと、短命に終わることが多い
・関東は昔、「坂東」と呼ばれ、意味するところは「蛮東」。中央に対する対抗心が強く、統制が困難だった
的なことを書いていました(うろおぼえです)。
頼朝が平氏打倒の旗揚げを行う際に、
そのバックアップを行ったのは伊豆の北条氏です。
しかし北条氏だけでは力不足であるために、
相模・武蔵・房総など各地の豪族の協力を得て、
打倒平氏のための戦力を整えました。
彼らを束ねるための本拠地といった意味で
地理的に中心となるような鎌倉を選んだのだと思われます。
北条家の基盤が伊豆で近かったってこともあるだろうね。
鎌倉より東はその時代はもうすげぇ田舎だったろうしね。江戸というか関東平野なんて湿地だし、川はしょっちゅう氾濫するし。
また人口がそれほど多いわけじゃないからそんなに広いところを獲得する必要がなかったせいもあると思う。
- 最新から表示
- |
- 回答順に表示
- |
- ベストアンサーのみ表示












