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「すべての昆虫は六本足である」
は昆虫の定義を与えるものなのか、
それとも経験から帰納された法則か。

A 回答 (10件)

まず,法則とはなにかですが,私は


「理由は分からないが,その仮定をおくと
世の中の森羅万象を,普遍的に説明でき
反例が見つからず,かつ
他の何かからは,導くことができない仮定」
と理解しています.
他の何かから,導かれるものは「定理」であり,
法則とは呼ばないのも,きっとご承知でしょう.

「昆虫とは,6本足である」というのは
確かに,仮定ではあります.
しかし,「昆虫とは何か」が,定められていないと,
この文章は,何も意味を持ちません.
昆虫とは何かですが,それは一般に,
「頭部,胸部,胴部を持ち,
胸部に3対6本の脚と,2対の羽を有する」
と定義されています.
定義の中に「3対6本の脚」があるので,
「昆虫とは,6本足である」は,当然の帰結です.
したがって,法則たり得ません.
(他のことから導かれるから)
単に,定義ということになります.

一方,昆虫について,何か別の定義をすることができ,
そして,その中に「6本足」という,文言が,
含まれていないのなら,
「昆虫というものは,なぜかは分からないが
不思議と6本足ばかりである」
ということになって,
「昆虫とは,6本足である」は,立派な法則と呼べます.

この回答への補足

どうもご回答いただき誠にありがとうございます。

>「理由は分からないが,その仮定をおくと
>世の中の森羅万象を,普遍的に説明でき
>反例が見つからず,かつ
>他の何かからは,導くことができない仮定」

とのことですが、
>理由は分からないが,その仮定をおくと
の「その仮定」とは一体何処から与えられたものでしょう?

>他の何かからは
の「他」ではないものとはなんでしょう?

>一方,昆虫について,何か別の定義をすることができ,
>そして,その中に「6本足」という,文言が,
>含まれていないのなら,
>「昆虫というものは,なぜかは分からないが
>不思議と6本足ばかりである」
>ということになって,
>「昆虫とは,6本足である」は,立派な法則と呼べます.

ということであれば、それは経験から帰納された法則ということであり、逆に又経験による反証の可能性が残されているということになります。

その法則が昆虫の概念の定義をあたえるものであれば、それは経験による反証の可能性を持たないものということになります。

補足日時:2006/09/16 15:33
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>命題を誤用されている方が多いのですね。



命題。
タイトル テーマ。
または真理を問いうる<意味のある文>
つまり<問う価値がある内容であるもの>が命題。

>総合的命題、分析的命題の意味をご存知なんでしょうか。

いえ、知りません。
総合的命題となるともう漠然として命題という言葉は入る余地がないというイメージを持ちます。
総合的とは何に対しての総合的なのかあいまいなイメージを持ちます。
分析的命題とは何の分析なのか、私でははかり知ることができませんでした。
そして、やはり今回も、私にとってすれば、何を聞いているのかあまりにも漠然としすぎていて、問いに対する答え以前に、何を質問しているのかいよいよわからないということがはっきりとわかりました。

恐らく質問の趣旨はこんなことだろうとイメージして答えてきましたが、返答を読むと的すらかすめてもいないとわかりました。

質無謀なチャレンジだったと深く反省しております。(大汗)
大変な失礼をお許しください。では。

この回答への補足

>ある人間が定義しただけで、間違えていると立証されれば、書き直せばいいわけです。
>確かにその定義した人にとっては経験から導かれた定義でしょうけど、真理ではないとなった時点で、その定義を書き換えればいいのだと思います。
>もちろん明確な根拠が無ければむやみに書き換えるべきじゃありません。

私たちがあるものを昆虫として認識できるのはそれ以外のものから区別されていること、そして対象が抽象化され分類されているからで、概念の定義が与えられるということは経験による反証可能性をもたないということなんです。
例えば、犬はずっと犬でしょう。
でなければ私たちは何も認識できないことになります。
犬の概念が書き換えられますか。

それと「ひらめき」についてですが、ひらめきとは何かについてひらめくということですね。つまりある観測事実が前提となっているわけです。
その観測事実を元にひらめきによって仮説をたてるわけで、バースの用語ではアブダクションですが、これは帰納であるとも言えるわけです。no5さんの言う手続きは仮説演繹法と呼ばれるものですがこの全過程は帰納です。
帰納である限り蓋然的な正しさしか持たないということになりますね。

補足日時:2006/09/26 06:11
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この回答へのお礼

いえ、いえ、とんでもありません。

>要するに人間はこの世の法則を絶対的に知ることはできないし定義できはしないが、アバウトに共通認識を駆使して一緒に暮らしているわけで。

すべてのにんげんがE=MC^2を理解できるわけではないという意味ですか。それとも人間の認識の外にそういったものが実在するということですか。

>宗教は科学である。

確かに宗教を対象として取り扱う学問は科学でしょうけど宗教自体はかがくではないですよね。

お礼日時:2006/09/26 05:09

再び失礼します。



>>神を畏れ敬うこと

>う~~ん、これ命題かなあ?

経験科学の一つ宗教学という限定においては、それがその宗教の命題であると私は思います。

でも宗教学以外に医学も心理学も経験科学です。

よくわたしが言われることは、「今まで言われていたことをそのまま鵜呑みにするな。自分が実際に直面したことを身体で感じ、感覚を研ぎ澄まし観察しろ」です。

わたしが従事しているのも経験科学の分野ですが、経験科学とは確かに今までの人たちの経験による叡智の上に成り立っていますが、それを絶対の真理と決定していない。
してしまったら終わりです。


宗教も経験科学です。
決定されているようで、実は変化し続ける運命を免れていません。
聖書にしても、何度も書き換えられています。
先人の経験による知恵を知りながら、正しくないと思えば、新しい物語に書き直している。

必死に書き直されないようにしても、真理ではなく人間が編み出した経験科学でしかないので、当然人間は全部を知れませんので、必然的に絶対と決定したものにホコロビが含まれており、書き直されてしまう運命なわけです。

さて、馬鹿の壁を書いた養老猛さんは解剖学の権威でもありますが、彼は昆虫を百科事典で調べていて、どうしても合致しなくて悩んだそうです。
そして、やっと突破したそうです。
「百科事典が間違えているから合わなかったのだ」

百科事典も経験科学なので、真理でもなく書き換えられる運命をはらんでいるわけです。


>「すべての昆虫は六本足である」
>は昆虫の定義を与えるものなのか、

ある人間が定義しただけで、間違えていると立証されれば、書き直せばいいわけです。
確かにその定義した人にとっては経験から導かれた定義でしょうけど、真理ではないとなった時点で、その定義を書き換えればいいのだと思います。
もちろん明確な根拠が無ければむやみに書き換えるべきじゃありません。


>内包が増加すればより明確な定義と言えますね。

分類していけば、とてつもなく詳細になってしまうと思います。
例えば昆虫一つにしても、その特徴を名前にすると、すごく長い名前になると思います。
人間の分類上の名前はえらく長いですが、ヒトと代名詞で呼んでいますもんね。


リンゴは沢山の種類があります。
でも、味がリンゴだったらわたしが知るリンゴとは形や色が違っても、「わたしが知るリンゴとは違うからリンゴじゃない」とは言いません。

世界各国の人に「リンゴ」と言って出して「これはバナナだ」と言う人がいないことから、おおまかなリンゴの定義で共通認識は成り立っているのでそれでいいかと。

明細化を要求されるのは、その専門の分野に携わる人たちで、それは興味というものを通して、明細化されるのだと思います。

で、「自分の目に前にあるリンゴと他の人の見ているリンゴは同一ではないのに、同じ言葉であるリンゴと分類するのは何故か」

イデアという共通のものを使うから。
そのイデアを使えないものは、共通認識をもてない。
では共通の認識をもてない人もいるから、それは真理 つまり 法則ではないのか。(リンゴは実はリンゴではないのか)

いや、ある程度の人間の認識力が一定のようなので、共通認識がもてない人がいようと、リンゴとしていいと思う。
ただし、共通認識がもてなくて、リンゴがリンゴであるのが困るのであれば、どうして困るのかを調べて、一定の共通認識がある人とそうでない人が、同じ一つの世界に暮らせるように知恵を使えばいいと思います。

例えば色盲の人が横断歩道を渡れないのなら、絵や音で知らせるという工夫をするように。


と、今回はさらに混迷を極めてかもしれませんが、、、大汗。

要するに人間はこの世の法則を絶対的に知ることはできないし定義できはしないが、アバウトに共通認識を駆使して一緒に暮らしているわけで。
必要に迫られれれたとき法律などルールを設け、それを共同体の共通の決まりごととすることで、争いがおきにくくしてきたわけです。

現在宗教による戦争が勃発しているといわれていますが、よくよく調べると、宗教が原因じゃあない。
「今まで宗教戦争が何度も起こっていたので、また宗教だろう」という経験から推測されたその定義そのものは実は正しくない。

もっとよく調べれば過去の宗教戦争といわれたものが、実は宗教を隠れ蓑にしたもので宗教が原因で争いごとがいつも起こっているのではないとわかれば、経験から導かれた過去の誤まった定義は修正され、より争いの本質が見えてきて、それによって解決の手段も見えてくるわけです。

この回答への補足

命題を誤用されている方が多いのですね。

http://www.tt.rim.or.jp/~rudyard/torii003.html

総合的命題、分析的命題の意味をご存知なんでしょうか。

補足日時:2006/09/25 16:18
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「すべての昆虫は六本足である」は分類学上の定義であり法則ではないですね。



法則は自然界の現象を人間の理性により記述したものです。
それ故、法則は適用できる範囲が限定され、誤差を含みます。

自然法則はアプリオリに実在せず、人間の理性の働きの結果として記述されたもの、というのが私の考えです。

この回答への補足

>法則は自然界の現象を人間の理性により記述したものです。

である以上思惟形式の異なる宇宙人には>E=MC^は存在しないということですよね?

補足日時:2006/09/26 06:25
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この回答へのお礼

どうもご回答いただき誠にありがとうございます。

法則が実在しないとするならば、先天的な思惟形式によってその普遍性がもたらされるものということですね(カントの先天的綜合判断)?
論理実証主義者たちは先天的な綜合判断を否定していますが。
マッハの思惟経済という考え方も在りますね。

お礼日時:2006/09/25 16:42

No.6です。



>質問の趣旨をもっと単純にしますと、経験科学のような綜合的な命題は蓋然的か必然的か、つまり先天的か後天的かということです。

前回、質問を読んでその質問の趣旨が漠然としていたので、答えるきっかけがつかめないと思っていましたが、何度か目にするたび、「こんなことを聞いているのかな」と思うイメージが出たので、わたしが受け取ったイメージから答えてしまいました。


経験科学といえば<宗教学>を思い浮かべます。
聖書作家は民族が遭遇した経験から<神の特徴>というものを掴もうとしている。

経験科学である宗教の命題とはなにか。
難しいですが、三大宗教の基本の書から読み取ると、伝道の書の中にある「神を畏れ敬うこと」を命題としているように思います。



この畏れ敬う対象の神。
内容を読むとその特徴から言って、神とは自然の事だとわかります。

ヨブ記ではまったくの義人が、ひどい目に合います。
これでもかというほどの不幸がヨブに起ります。

この義人に起った災難は蓋然か必然か。
ヨブの友人は必然だといいます。
ヨブはまったく不正を犯していない自分がどうして災いを被るのだと、彼らの理論に納得できませんでした。
友人の言葉はなぐさめにもならず、とうとう人間ではなく、天に向かって抗議しました。
つまり自問自答して自分が納得できる答えを導き出しました。

ヨブ記の作者が到達したもの。
神はついに答えたとして記述されています。
「わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのだ。 お前は一度でも朝に命令し、曙に役割を示したことがあるか」
これによってヨブは納得したとなっています。

ヨブ記では神と悪魔が談合して、ヨブを試したとなっており、故意にまったく不正を働いていないヨブを選んでイジメたとなっていますから、これは蓋然でも必然でもないですね。

要するにどんな義人にもとてつもなく不幸が襲うことがあるということを言っているわけで、「スマトラ島沖地震による被災者はソドムとゴモラのような住民のような人たちだったので神が殺した。その死は当然の報い(蓋然的)だ」とする人がいたら、とても恐ろしい思想ですよね。
被災者の死は蓋然的でも必然的でもない。
(ソドムとゴモラの住民が悪者扱いになったのは、後世の人が勝手に悪者だったからだと話を作ってしまったようです。実際は火山噴火により村は全滅したそうですが、これを意味づけしようとした人が、悪徳の町だったからに違いないってしたようです。)


さて、プラスチックは自然界に存在しませんでした。
実験の失敗から出来たもの。
と私は聞いています。

この実験の失敗を「あーあ 失敗しちゃった」と捕らえなかった人がいたのでプラスチックはできたわけで、この失敗としてゴミ箱に捨てなかったこの人のこの判断は蓋然か必然か。
他の方との対話にも出てくる言葉「ひらめき」が該当するように思います。

これを科学者の中には神からの啓示など言う人もいるくらい謙虚な人もいるようです。


>すべての昆虫は六本足である

その定義は正しくないので、それにそって考えることはできませんが、他の例であげると、遺伝というものがあります。
遺伝的に発生しやすくなる病気というものがある。

確立なのか。

遺伝子を調べていくと、遺伝子の中にそれが発生するように仕組まれているのに発生しないのは、他の要素がからんだためだとわかってきているようです。

例えばある動物と動物を掛け合わせると、新種の動物ができます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%90
これが人間が作ったもので、粗食で力が強いので、人間にとってとても役に立つ動物ですが、子どもはできますが、そのラバ同士が生殖を行っても子どもはできません。
遺伝子の関係で不可能らしいです。(必然)
(染色体だったか忘れましたが、親同士は偶数なので、合致し生命は誕生するが、そのできた子供の染色体?は奇数にしかならず、奇数同士では生命は誕生しないそうです。染色体?同士が片手ではなく両手を取り合わないと、遺伝子だったか何かがお互い出し合えないので、生命誕生が成り立たないらしい。)


エイズウイルスが体内に入っても発病しないでいる人がいます。
なにかあるわけです。
<エイズウイルスが体内に侵入すると必然的に死ぬ、あるいは蓋然的に死ぬ>で人間は諦めません。
だって発病しない人がいて、それが偶然発病しなかっただけと捉える程度なら科学者とは言えない。
神の御心次第という考えの人は科学者にはなっていないでしょうし。
<なにか原因があるはず>と探し出すことで、人間はウイルスに今まで勝ってきたわけだし。


と例を挙げてみましたが、もともとの質問がよくわかっていないので、的外れな回答に今回もなってしまっていたらお許しください。

経験科学を宗教学と捉え、なおかつ科学に関するもの、その中の遺伝に関するもの、先天的か後天的、などまぜこぜになんとか答えようとチャレンジしてみました。


>独自性と創造性

いえ、書いた内容全ては今まで読んできた本に書かれていた内容です。
正確さにおいては全部暗記していないので、本の内容そのままを書いていませんが。
私独自の理論はなに一つないです。
(ガイアの怒りというところも遺伝子関連の本の中に書かれていた内容です。)

ただ、今後 わたしが読んだ本に書かれていた内容を覆す発見が誰かによって成されるかもしれませんので、あくまで参考程度として読んでください。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

>神を畏れ敬うこと

う~~ん、これ命題かなあ?

命題とは判断の陳述の意味です。
判断を与えるものだから「AはBである」のような平叙文の形式をとります。

補足日時:2006/09/22 07:17
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この回答へのお礼

それとちょっと気が付いたのですが、蓋然的性と必然性は意味が違います。
また定義とは概念の内包を与えることです。内包が増加すればより明確な定義と言えますね。

お礼日時:2006/09/22 18:51

http://www.ne.jp/asahi/21st/web/earthcalender.htm
誰かが見たわけじゃありませんが、おおよそこんな感じで火の玉だった地球に人間までできてしまったという説を私は支持しています。

地球という惑星に生命が誕生したのは奇跡の中の奇跡ですが、実際起ったのですからその事実を受け止めています。

ほとんどの生命体は男女があります。
中には違うのもありますが。

DNAの研究は始まったばかりで、ほとんど謎なのですが、少なくともこれは設計図と考えるのが妥当でしょう。

人間はもともと一つだった可能性があります。
男女なくして生命は誕生しない?
クローンであれば、生殖をしなくても誕生します。
アメーバーが分裂するように。

もともとメスしかいなかった。
ところがY染色体を生み出した。
どうして生み出したのかというと、一つの説ですが、mtDNAだけではある面では強いですが、他の可能性が出てきたときもろくも消滅せざるを得なくなる。
生存し続けるために、一ではなく、多 つまり いろいろでやられない可能性を無限に秘めた多 になることで、どれかは負けても、他の可能性を秘めたものは生き残り、結果もとの母たる何かは永久に存在し続けることができる。

自然淘汰に負けずに存在し続けるため、Y染色体を作り出し、自ら分裂せず、異種と交配を続けることで存在し続けようとしたのではないかと。

昆虫の自然淘汰でも、虫の足が何らかの問題で欠けたとき、食べ物を探しにいけません。
しかし 3本あれば、1本欠けたくらいでは移動ができなくなりはしない。

すると2本足の虫より3本足の虫の方が子孫を残せるわけです。
さらに3本足より4本足の方が着実に移動ができるわけです。

2本足が子どもを5匹産み、2匹生き残っても、その子孫が5匹産めば10匹になります。

4本足もやはり5匹産みますが、より多く生き残るので3匹生き残るとします。
するとその子孫は2本足より多くなり、世代を超えて圧倒的に増えます。

キリンの首は何故長いのか。ゾウの鼻は何故長いのか。

いろいろ説がありますが、環境に適して生存するために進化したというより、たまたま突然変異で長くなり、食べ物をより取れたので生存競争を生き残ったのではないかと私は個人的に思うのです。

進化の過程で環境に適合できなければ、その系図は絶滅します。

他の動植物の突然変異は人間のに比べるとすごく短いそうです。
人間の女性の場合は2千年に1回くらいの確立で突然変異が起るそうです。

さて、その突然変異でもし、科学の技術無しに、生殖を解しなくても子孫を作れる人が出てきたら・・・

今までも起ったかもしれません。
(別にイエスの母マリアがそれだったと言うつもりはありませんが)
環境に適合し、生き残らなければ、その突然変異の結果起った生命の子孫は増えません。

時期ではない。

このままでいけば、1万5千年後くらいに人間の男性は絶滅する計算になるそうです。
設計図ゆえにそうなっているのか、母なるガイヤの怒りを買ってしまったのか。

これを神の御心を知るということで、DNAの研究をしている人もいるのではないかと思います。

人工的にクローン人間を作って果たして人間は神になれるのか。

ガイヤ つまり 自然の法則(自然淘汰も含む)に背くことになるかどうか 結果を私は見ることができないのが残念です。


>それとも経験から帰納された法則か

わたしが近いと感じるのは、経験を地球の歴史として考えると、帰納かなぁ・・・と思います。
そして人間も所詮 物質とエネルギーが元ですから、死ねば土に返り、他の動植物の肉となったり、他の鉱物と合体したり、あるいはそれを捕食した人間の体の一部を構成したり、その人の子孫の肉体や神経や活動や思考するためのエネルギーになったりするわけで・・・

サイクルなんですよね。

この世は一定のエネルギーの数値があり、それは増えもせず、減りもしない。
生命の誕生も消滅も一過性のものにしかすぎない。
自然淘汰もそのサイクルの一部。
このように思えてなりません。

しかし、他の人に捕食されそうになると、なにがなんでも抵抗したくなりますよね。
「自然に還れ 食べられろ」といわれても、「まだその時じゃない」というより「食われてたまるか」ってね。
他の動物だって死にもの狂いで抵抗するのに、自分たちが捕食されるのは嫌がるのに、私ら平気で食べているんですよね・・・

結局 負けたものは勝った方に捕食され、勝った方が生存競争をより生き残る力を持っているので、当然その子孫が生き残るというのが自然界の絶対的ルール(法則)なのかもしれません。

で、このままでいけば人間同士 共食いすらするわけですが(しているわけですが)、人間は知恵というものがあり、「少なくとも人間同士の共食いはやめよう 一緒に生きよう」 という思考をするものまで現れ、これが勝った方が食べるという法則を消す作用を持つエネルギー体 あるいは 突然変異なのかもしれません。

しかし 弱い。

今もって人間は共食いしていますから。(エネルギーの強奪・戦争)
このままだとやはりガイアの怒りで絶滅ですね・・・・

この回答への補足

質問の趣旨をもっと単純にしますと、経験科学のような綜合的な命題は蓋然的か必然的か、つまり先天的か後天的かということです。また論理法則は如何?

補足日時:2006/09/20 17:23
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この回答へのお礼

ご回答いただき誠にありがとうございます。

ご説明の内容は、kigurumi様が、経験及び資料やデータより与えられた知識から、kigurumi様の独自性と創造性を発揮することによってお導きになられた仮説ということでよろしいでしょうか。

どうも貴重なご意見ありがとうございました。

お礼日時:2006/09/20 17:00

なるほど,法則の定義からの議論ですか.



私の考えは,以下の通りです.
根本原理:人間の知的活動が,あるかないかにかかわらず
自然界に存在する.
しかしその真の姿は,人間には分からない(想像するしかない)
根本原理に,人間の知的活動は,作用していない.
法則:「根本原理は,こうではなかろうか」と,人間が想像した仮定で,
多くの検証を経ても,なお反例が見つからないもの.
法則には,人間の知的活動が,作用している.
法則が,根本原理を,完璧に描写しているかは,
誰にも分からない.確かめようもない.

「他の何かからは,導くことはできない仮定」の
「仮定」ですが,
それは,どこからも与えられません.
「その法則の発見者」と,後に呼ばれる人物の
天才的なひらめきからのみ,生じます.
経験からの帰納と言っても,よいです.
(しかし,知識の寄せ集めレベルではない)
ニュートンが,落ちるリンゴを見て,
「全てのものは,落ちる」の,水準にとどまらず,
「全てのものは,互いに引き合うのではなかろうか」
と閃いて,
「全てのものは,互いに引き合う」と仮定したら,
世の中の物理現象を,うまく説明できた.
一方で,これに反する現象は見つからなかった.
そこで,この仮定が「万有引力の法則」と
呼ばれるようになり,ニュートンはその発見者として
物理学史に,名を残しているのです.

また,シュレディンガーが,
極微の世界において,電子などの粒子が,
従うべき方程式は,これではないか,と仮定したのが,
シュレディンガー方程式です.これも法則です.
なぜ,シュレディンガー方程式が,成り立つのかは,
当のシュレディンガーも含めて,誰にも分かりません.
ただ,その方程式を,仮定すると,
極微の世界の粒子の振舞いを,実に見事に記述できるのです.
だから,おそらくは真実だろうと,
多くの人に,「信じられて」いるのです.
(信じる,信じないは,個々人のまったくの自由)

「他の何か」ですが,他の法則や,定理を指します
例えば,ケプラーの法則は,実はニュートンの
運動方程式(これも法則)から,導かれることなので,
本当は法則とは呼べません.

「他の何かから,導かれるものではない」とは,
直接的・論理的に導かれものではないことを,指します.
天才のひらめきによって,帰納的に導かれることは,
ここには含まれません.

上で述べたように,「法則」には,何の根拠もありません.
単に,その仮定をおくと,世の中の全てをうまいこと説明でき,
かつ,反例がそれまでのところ見つからない,というだけです.
よって,これから,反例が見つかる可能性は,残されています.
というか,その可能性に常に曝されています.

>「経験による反証の可能性が残されている」
その通りです.どんな法則でも,単なる帰納に過ぎず,
根拠はないのですから,反駁の可能性が,常にあります.
他の人の,厳しい検証に堪えられた仮定のみが,法則として残り,
反例が見つかった仮定は,淘汰されます.
今の時点で,我々が信じている法則も,
今後,学問の発展により,覆される可能性は,なお残っています.

>「その法則が昆虫の概念の定義をあたえるものであれば」
確かに,その場合の「法則」は,反駁の可能性を持ちませんが,
単なる定義ですから,本来は「法則」と呼ばないものです.
理由は最初の回答で,既に記した通り.

最初に述べたように,自然界を支配する
根本原理(あえて法則とは呼ばず)は,
自然界の中に,アプリオリに存在していると思います.
ただ,それが何であるのかについては,
人間は想像することしか,できません.
その想像の産物(仮定)が,多くの検証を経て,
「どうも信ずるに足るようだ」となると,
その仮定は,法則として,
多くの人から,支持されるようになります.
しかし,根本原理がなんであるのか,人間には分からない以上,
法則が根本原理に一致するのか,確認することは,
最後まで,できないでしょう.

この回答への補足

「根本原理」なるものがこの世の一切の現象を支えるものであるとして、それが単数か複数か、つまり一元論か多元論か気になるところですね。

補足日時:2006/09/18 03:59
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この回答へのお礼

どうも再度ご回答いただき誠にありがとうございます。

>「その法則の発見者」と,後に呼ばれる人物の
>天才的なひらめきからのみ,生じます.

質問させていただいた「他」ではないもの、とは「ひらめき」ということでしょうか。
つまり人間の独自性と創造性ということですね。

Kacke様のお考えでは「根本原理」なるものが人間の認識とは無関係に対象(自然)に内在するということですね。

どうも貴重なご意見ありがとうございました。

お礼日時:2006/09/18 02:22

たびたびお邪魔します、私は質問者の様に賢くないですが。




分別の上で突詰めるという事は、真実から遠ざかるのでは無いでしょうか、分別した真実は人間の頭で考えた真実であって、人間が分別する前にあるがままに真実はあると思うのですが。世間一般の人から見れば蝶は綺麗、蛾は汚いのでしょうが、それはあくまでも、分別・で見ているので、あるがままに(真実から)見れば、綺麗汚いはないのでしょう。是々非々とも非なりじゃないですかね。「昆虫は六本足」も只それだけの事、だと思います。

この回答への補足

う~~ん、「昆虫は六本足」と言語化つまり概念化された時点で悟性が働いていると思うのですが。
つまり対象が何かという具体的属性(昆虫は六本足)による見分けがついた時点で分別が働いていると思います。

補足日時:2006/09/17 17:51
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この回答へのお礼

どうも再度ご回答いただき誠にありがとうございます。

質問の趣旨は、
自然法則はアプリオリに実在し自然界を支配するものか、それとも人間の理性の働きの結果なのか、単なる知識のよせあつめか、ということです。

ri-zyu様のお考えだと法則自体には意味がないということですね。

お礼日時:2006/09/17 18:24

あるがままに物事を見たならば、「あるがまま」じゃないでしょうか。

この回答への補足

確かに現象学的には、太陽が地球の周りを回っているように見えますが。

補足日時:2006/09/17 11:21
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この回答へのお礼

どうもご回答いただき誠にありがとうございます。

なるほど感性的要素一元論ですか。

たいへん貴重なご意見ありがとうございましたv(^∀^)。

お礼日時:2006/09/17 10:43

昆虫とは、陸上に適応した節足動物で


成虫は
頭部・胸部・腹部の3つの部分に分かれている
触覚が1対複眼も通常1対で胸部に3対の足を持ち2対の羽を持つ
などなどの特徴を備えたものを昆虫と定義して呼ばれます

参考URL:http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BA%AB%C3%EE
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この回答へのお礼

どうもありがとうございますた。v(^∀^)

お礼日時:2006/09/16 02:53

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