団塊の世代を含む50歳以上の男女の方に質問です!!
実は今、学校の課題で1960年代から現在の海外旅行の変化と50代以上の方の意識の変化について調べています。
なので、今回は団塊の世代を含む50歳以上の男女の方に1960年代と現在の海外旅行のあり方や、頻度。
そして、現在の海外旅行の楽しみ方。
比較した上での変化。
自分はここが多きく変わったと思う。
本当にどんな些細なことでもかまわないので、出来るだけ多くの方に返答いただけたら幸いです。
よろしくお願いします!!!
まさに団塊の世代の者です。
会社を退職してその後を模索しているとき、たまたま親戚がイタリアに駐在員として家族で住んでいる時期に重なったこともあり、又とない機会というので1974年8月から11月まで行きました。
持ち出しできるドルも制限されて、3ヶ月も滞在する身としては心許なかったので、日銀まで相談に行き、どうにもならなかったのを憶えています。
出発は羽田で、自分の時の記憶ではないのですが、イミグレーションを通過したあと「別れの窓」というのがあって、見送る人とガラス(アクリル)窓ごしに話すことができました。当時は「外国」がそれほど遠いところだったということでしょうか。
ヨーロッパはアンカレッジで給油していくというので、トランジットで
空港のトイレに入ったとき、アサガオの高さに驚き、「外国ダー」というのを初めて実感したのを憶えています。
旅先では、現在の旅行者数でみると見当もつきませんが、当時は、「最後の晩餐」や「ルーブル美術館」などほとんど並ばずに入れたものでした。
むこうでは、列車の一人旅が主だったのですが、ちょうどドイツからオランダへ渡る頃パスポートのチェックがあり、次の駅で降ろされ、荷物を全部ひっくり返されて調べられてしまいました。実はオランダのアメリカ大使館占拠事件(ハーグ事件)の直後だったらしいのですが、日本人が一人で帰国の飛行機のチケットを所持せずに(叔父宅に置いていた)列車に乗っているということで疑われてしまいました。
今なら、日本人の一人旅なんて大変な数になって、いちいちチェック出来ないでしょうね。
当時と現在では温暖化で気候もずいぶん変わった気がします。
11月初めの帰国なのに分厚いコートをミラノで買って、着て帰ったのですが、暑いという感覚はなかったと思います。
それにしても、このときの体験が私の人生の節目として大きなものになっていることは間違いありません。
どうでもいいことなのですが、そのころ通ったミラノの店の名前とか未だに憶えています(MOTTAやUPIM,ESSE LUNGAなど)
現在はほとんど旅行することもないので、最近の現状はわかりません。
私の印象ですと、今はどこへ行っても日本人がたくさんいるだろうなといったところでしょうか。
最後の団塊世代です。
最初の海外旅行は75年だったと思います。仕事で東南アジアに行きました。
当時は、海外へ行くなんて事は個人でも仕事でもあり得ないと思ってましたから、大変な事になったって感じでしたよ。
先ずは戸籍謄本を取り寄せてパスポートの取得から始まります。現住所が東京都でしたので有楽町の交通会館へ、いろんな予防接種を(2度に分けて)受けたり大使館へビザを取りに行ったり、パスポートを持って銀行へ米ドル(当時は310円くらい?)を買いに行ったりとかなり多忙でした。
会社からは支度金が支給されましたので、デパートでサムソナイトのスーツケースを買いました。
出発は土曜の朝方でしたが平社員の為に社用車(ハイヤー)が独身寮まで迎えに来てくれて運転手(社員)の方から「大変ですねぇ」と労いの言葉をかけられました。
向かった先は、「ここで30回見送りをすれば海外へ行けるようになる」と言われていた羽田です。平日昼間なら当然見送りがあるのですが、その日は連れの先輩一人だけ。寂しい出発でした。
利用航空会社は会社手配の日本航空、食べた事もないような豪華な機内食でした。控えがなくてはっきりしませんが、赤い裏カーボンの航空券にものすごい価格が書かれていたと記憶しております。
着いた先では税関で英語で質問責めにあいました。
宿泊先も日系でしたが、日本人は日本企業にいる程度で旅行者とは一度も会いませんでした。
街中では金がなく帰国できなくなった欧米人がたくさんいましたね。元はバックパッカーだったのでしょうか。
仕事は1週間で終り、帰りはお決まりの外国製煙草と洋酒を買い、あっという間の海外でした。
その後、結婚し子供が出来、数次旅券は一回も使用することなく20年が過ぎ新たに申請した10年パスポートで年に数回近場のアジアを格安ツアーで訪れるようになりました。
インターネットの発展に伴い、情報収集や航空券、宿泊の予約も実に簡単で、もう費用面では国内旅行と変わりません。外国語は相変わらず下手くそですが、どこへ行っても十分に楽しめるようになりました。
美味しい現地ならではの食べ物、風景、完全フリーのツアー又は個人手配の旅でした体験できないことが何よりも魅力です。新しいパスポートも入手したし、定年を迎えても体力が続く限り出かけるつもりです。
団塊の世代の者です、私が初めて日本を出たのは、1972年の春、文通相手に会うため、オ-ストラリアに向かいました。
その時は、1ドル360円の時代、確か一人1000ドルで、全部トラベラ-ズチェックで持っていきました。
オ-ストラリアもその時は、予防注射(種痘)とビザが必要でした。今は簡単なイ-タスでOK。
行きは横浜から船で、帰りは飛行機でした。船のお金が21万(下から2番目)、飛行機が17万でした。
もちろん羽田空港でした。
シドニ-などは日本人がかなりいましたが、エ-ア-ズロックに行くときは、さすが日本人はいなく、
ましてや女性だったので、バスのトイレ休憩で寄る、ドライブインで、現地の人に異様な目でみられたのが印象に残ります。
それからしばらく間があり、ここ10年は年に2~3回、海外に気楽に行ける様になりました。
今や誰でも簡単に、そして安い、日本の旅行に行くより安いのもあります。
ツア-も自由パックから添乗員付まで、さまざま
昔はそんなにツア-なるものはなかったような~
温泉に行くように手軽になったのですね~
でもやはり昔、自分で調べて行ったフリ-な旅が
一番感動でした。
1969年に海外無銭旅行に500ドルとバンコックまでの片道船便チッケットを持ち 万歳に送られ九州の田舎よりヨーロッパを回ってロシア経由で帰ってきました 当時は生きて国に帰るとは思っていませんでした 何しろただ陸地がヨーロッパまで続いていると信じて陸地伝いに行き、何度か生死の間を行き来しました 現在のように簡単に何時間かでヨーロッパに着く旅行と違い三ヶ月かけてイスタンブールに着きましたそれから一ヶ月かけてノールエイの北の古都ベルゲンに行き漁船に乗っていました 現地の人は日本人など見たことが無く黒髪が珍しいのか髪をお土産に抜かれたりしました また箸を自分で木の枝から作って友達にプレゼントしたりしてとっても喜ばれたことも有りました
旅の途中人生の喜怒哀楽をもっとも深く味わった一年でした その後の自分の人生にどれほど役に立ったかは計り知れない旅行でした。
日本人の海外旅行が自由化されたのは1964年4月1日から。東海道新幹線開業、東京オリンピック開催の年です。それ以前は外交官や公務員の公用渡航、留学・移民のほかは、外貨獲得のため輸出産業や商社の視察・商談を目的とした業務渡航が認められていただけでした。
1964年の自由化当初、外貨持出し枠は500米ドル(18万円)まで、1人につき年1回。東京-サンフランシスコ間の航空運賃が片道約28万円、往復約45万円。大卒上級国家公務員の初任給が1万9100円、東京-大阪間の航空運賃が片道7千円の時代です。
翌1965年に発売された「JALパック」のツアー料金は、ヨーロッパ16日間約68万円、それでも第1回は26人が参加。ハワイ9日間は約38万円。初年度の年間総取扱い旅客数は2192人。
一般庶民が気軽に行ける金額ではとうていありません。ちなみに団塊の世代の人たちは当時まだ中学生です。
ちなみに海外渡航者数(日本人出国者数)の推移は以下の通りです。
(入国管理局統計)
1946年 8人
1947年 12人
1952年 1万人
1955年 2万人
1957年 4万6千人
1960年 7万6千人
1963年 10万人
1964年 13万人(海外旅行自由化)
… …
1980年 391万人
1985年 495万人
1990年 1,100万人
1995年 1,530万人
2000年 1,782万人(過去最高)
2005年 1,740万人
海外旅行ではありませんが
1860年代に商店街の福引で 羽田発の「東京上空遊覧飛行招待」というのがありました。
私がものごころ付いた頃で 引き当てたのは私ですが近くに住む祖父に上げた記憶があります。
今で言うハワイ旅行くらいの扱いではなかったかと思います。
余談ですが 祖父の葬儀の際はそのときの飛行機前で取った写真が使われましたので とても印象に残っています。
今と違う所を挙げると。
まず1ドル360円で外貨の持ち出し制限がありました。
アルコール・タバコ・香水んぽ無税持ち帰りは殆どの人が利用していました。
羽田はキオスク程度の売店しかなく、待ち時間を潰すのに苦労しました。
見送り・出迎えは普通で、飛行機が飛び立つまで待っていました。
帰って来ると、体験談を話したり8ミリの上映会があったりと大騒ぎしました。
機内食が楽しみで、一部を記念に持ち帰ったりする人もいました。
エコノミーのイヤホーンは有料でした。
観光旅行に関しては殆どが添乗員付き団体行動でした。
現在は個人・小グループ単位の行動が主で、現地係員のみのケースが多く、気に入った場所をリピートし、土産も殆ど買わずないという状況なので、変わったものだと思います(時々昔スタイルの旅行を中国の人がしています)。
この回答へのお礼
見送り・出迎えは普通で、飛行機が飛び立つまで待っていました。
↑
飛行機が飛び立つ瞬間までっていうのが、すごいですね。
私は一回もそこまでは見たことはないです。
それほど非日常的なものだったのでしょう。
状況がとてもよくわかりました。
参考になります。
ありがとうございました♪
参考資料 http://www.jata-net.or.jp/tokei/004/2003/04.htm
最初に海外旅行に行ったのは1986年です。(出張で韓国)
その後数回出張で行きました。(台湾・香港・欧州等)
当時は海外旅行など「高嶺の花」で思ったこともありませんでした。
数回の海外出張で「海外慣れ」したのとパック旅行等により安く行ける様になり身近なものになりました。
因みに1988年の欧州往復航空運賃(クラスC)は714K\の記録が手元にあります。
最近では「非日常的な体験」と「その地でないと得られない飲食」を楽しみにしております。
歳のせい?で近場に1回/年程度です
(70歳前の男です)
この回答へのお礼
「海外慣れ」したのとパック旅行等により安く行ける様になり身近なものになりました。
↑
やはり、当時とは意識も全く違いますよね。
年に一回も行ってらっしゃるんですね!!
参考資料までありがとうございます。
これからも海外旅行を楽しんで、色々なものを感じてください(*´∀`*)
ありがとうございました♪
当時の「海外出張」は会社から支度金が出て、上司などから餞別を頂き、羽田まで仲間や上司が送りに来てバンザーイなんてやられる程大変な騒ぎったね。
そして、餞別のお返しに『ジョニ黒』や『洋もく』を山ほど抱えて帰りました。PANAMのカバンをさげて!また、ヘアーの出ている『雑誌』を税関で取り上げられた上にこっぴどく絞られ、迎えの上司たちをサンザン待たせて叱られた上に、笑いものにされた経験が懐かしいです。
この回答へのお礼
なんだか、おもしろい!
当時の「海外出張」は会社から支度金が出て、上司などから餞別を頂き、羽田まで仲間や上司が送りに来てバンザーイなんてやられる程大変な騒ぎだったね。
↑
餞別まで、頂いたんですね!!
今では日常的なことですが、本当に約40年ほどでここまで、違うんですね!!
詳しいご返答ありがとうございます(゜∀゜*)
- 最新から表示
- |
- 回答順に表示










全国スキー場・ゲレンデガイド2011-12
関西発・かにバスで行く城崎・竹野への旅
出発直前のタイムセールでお得!海外ホテル格安予約


