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朝鮮通信使は日本に対する朝貢だったのですか。

A 回答 (5件)

結論から先に言えば、朝貢ではありません。



足利幕府が明の冊封体制の下で勘合貿易(明確な朝貢)を行ったからといって、それを理由に「当時の日本が明の属国になった」などという学説がない事でもわかるように、「朝貢か否か」というのは、「国力がどっちが強いか」等といった現実の話とはまた別の、「国と国」との間の「形式」のレベルで考えるべきものです。

朝鮮通信使は、史料の量の関係もあってか、専ら江戸時代のそれに限定して語られる事が多いのですが、実際には、室町時代にもありました。その頃は、日本は、形式上は明の冊封体制下にあり、その意味で、朝鮮と日本は同格でした。朝鮮からの朝貢と考える理由は、特にありません。

その後、室町時代後期から江戸時代初期まで、豊臣秀吉の時代に、朝鮮が日本に侵攻の意思があるかないかを調べる為に送ったのを除くと、長い中断がありましたが、江戸時代の通信使も、形式論としては、室町時代の通信使の復活です。

実際、No.1の方がリンクにあげたウィキペディアの記事にある対馬藩の国書偽造は、国交回復に当たって朝鮮が日本側から先に国書を送る事を要求したのに対し、それでは謂わば「和を乞う」形になってしまって幕府が受け入れるはずもなく、自藩の経済的な理由から国交回復に熱心だった対馬藩が、苦慮の末やった事で、まさに朝鮮・日本が、お互いに「下に立ちたくなかった」から、対馬藩がそうせざるを得なかったという事です。
新井白石が、朝鮮が日本に送る国書で、将軍を「大君」ではなく「国王」と呼ばせる事にした際も、白石の主張は「大君では、朝鮮では王子を意味するから、対等になる為には国王とすべき」というものでした。白石の主張が、「まともな理屈か、屁理屈か」かは、この際横に置いて、「対等」という概念に従っていたのは明確です。

このように「対等」の概念が、外交上存在したからこそ、通信使は復活し、かつ続いたのですが、一方、対国内の宣伝上は、徳川幕府にとっては、「朝鮮通信使が徳川将軍に拝謁する為にはるばるやってきた」という事を強調したほうが、自らの権威付けには役立つので、多額の金をかけて破格の待遇はしつつも、プロパガンダとして、「朝鮮国王の使いが将軍にお目見えした」という印象を出そうしました。それだけに注目すると、朝鮮が下位にあったように誤解される事も、ひょっとしたらあるのかも知れませんが、それを言ったら、日本の返礼使が、1回の例外を除き、漢城まで行く事を許されず釜山で用を済まさせられた事は、『門がどうだ』以前のもっと基本的なレベルで、「全く対等ではない」「日本の方が明らかに下」という理解も、充分可能です。(漢城まで行かせなかったのは、専ら軍事上の理由だが、いずれにせよ、この点では『対等な扱い』とは到底言えない)

それぞれが、国内には、自分を「小中華」と考え、相手を蔑視する傾向を持ちつつも、それを国同士の外交上のレベルに持ち込めば、相手がOKするわけがない事もわかっていたので、内外の顔を使い分けました。
http://www.hmn.bun.kyoto-u.ac.jp/sympo02-01/01c. …
これは、返礼使を釜山でとめた朝鮮(よって、対内的な体裁をあまり気にしなくて良い)よりも、プロパガンダに利用した徳川幕府の方で、より顕著です。

現在の我々が、徳川幕府のプロパガンダに影響される必要は無く、新井白石のような政治のトップの層が、「対等」という前提を受け入れていた以上(現実には、国交維持の為受け入れざるを得なかったと言った方が良いかも)、通信使を朝貢と呼んだら、学問上の世界では、それは「間違い」です。同じ意味で、日本の返礼使が、釜山で止められ続けたからと言って、屈辱外交だ、と考える必要もありません。
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この回答へのお礼

お詳しい回答で、造詣の深さを感じます。ありがとうございます。大変参考になりました。

お礼日時:2007/01/25 10:28

「朝貢」のむずかしい定義まで考えた回答ではないですが、読書好きの私見です。


李氏朝鮮は清国を宗主国と仰いでいましたから、日本への通信使は朝貢ではないと思います。
明治以降、朝鮮を蔑視して支配した時代があったから、朝鮮は格下だという観念が抜けませんが、現代の両国の情勢から見るのではなく、当時の視点で見るべしと思います。
朝鮮は、軍事力では日本に劣ることがあっても、学術、文芸面では先行していました。
江戸時代、鎖国体制の日本にとって唯一国交のあった国が李氏朝鮮です。
李氏朝鮮も清国も原則、鎖国でしたが、憎い豊臣家を滅ぼしてくれた徳川幕府と国交を結ぶのに何の支障もありませんでした。家康は朝鮮出兵に加わっておらず、一兵も送っていません。
家康存命中の2代将軍秀忠の時代に一回目の来日があり、幕府はこれを手厚くもてなし、これがその後のしきたりとなりました。3代家光の時代から鎖国に入りますが、断絶することなくその後何度も招聘しています。
それは日本にとっては、文化先進国である朝鮮から得るものが多かったことに他ありません。
通信使の正使、副使、従事官の三使は、第一級の学識者であり、随員も才能豊かな知識人で、通信使一行は一大文化使節団でした。
司馬遼太郎氏は『街道をゆく 壱岐・対馬の道』で「朝鮮通信使の来聘に対する処遇は、歴世、上下をあげて厚く、とくに江戸城での礼遇は京都からの勅使(日光例幣使)に対するそれよりも重かった」と述べています。
朝鮮通信使一行が通る街道は、諸藩に命じて改修していますし、茶店の什器や見物人の服装まで事細かに気を遣っていたことは、申維翰の日本紀行文『海游録』から読み取れます。
これを一挙に簡素化したのは、将軍の補佐役だった新井白石です。
通信使外交は、むろん互礼で日本からも行っていますが、朝鮮側は日本使節を王都の漢城(ソウル)へは入れておりません。
長くなりますから終わりますが、朝貢ではないと思いますね。

http://cobalt.ceser.hyogo-u.ac.jp/users/naritas/ …
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この回答へのお礼

たいへん分かりやすくございました。ありがとうございます。

お礼日時:2007/01/25 10:25

 ちょっと補足です。

前に書いたときには資料が見つけられなかったので。

 例5としてあげた絵とは「江戸図屏風」のことで、私が書いた「裏門」とは、「平川口御門」のことです。
 江戸図屏風は、下記URLで見ることができます。

http://www.rekihaku.ac.jp/gallery/edozu/layer4/p …

 ちなみに平川口御門の位置づけは、下記の文献によると、「若狭小
浜藩主酒井遠江守忠與が(中略)具合が悪くなり乗物と陸尺(舁手)を中之口にまわさせ、その他の御供は平川口御門にまわしました。」とあります。ここから、藩主はおろか駕籠舁きにもならないその他の人が通る裏口だったことが分かります。

http://moura.jp/scoop-e/seigen/pdf/20060417/sg06 …

 ちなみに正門は、もちろん大手門です。
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 それは、何をもって「朝貢」とするかという定義に依存する話です。



例1:当時、そう称されていたかどうか。
 「通信使」ですから、朝貢使ではないので、違うということになります。

例2:辞書の定義に準拠
ちょう‐こう〔テウ‐〕【朝貢】
[名](スル)外国の使者などが来朝して朝廷に貢物を差し出すこと。来貢。
 これを素直に受け取れば、「朝廷」は京都にあり江戸城ではありませんから、この定義では「朝貢」にはなりません。

例3:辞書の定義に準拠するが、実質的解釈を行なう
 「朝廷」を拡大解釈して「実質的な権力者の政治中枢」とすれば、それ以外は辞書の通りですから、「朝貢」であると言えます。

例4:「朝貢」の意味に沿って考える1
 なぜ、朝貢をするのでしょうか。それは、宗主国に対して自らが臣下であることを自他共に示し、主従関係を維持するためです。この目的は、有事の際に宗主国からの保護を確保するとともに宗主国からの膺懲を避けることであり、属国なりの安全保障政策の一環ですね。
 その意味で、日本が朝鮮の宗主国であったかどうかを考えると、ちょっと難しい所です。シナが朝鮮に軍事的に圧力をかけても、江戸幕府が兵を出したとは考え難いからです。膺懲の軍を出すのも同様です。実際そういう事例も無かったので if になっていまいます。
 「朝貢」では無いと言えると思います。ちょっと弱気ですが。

例5:「朝貢」の意味に沿って考える2
 相手国の政府中枢に言って、贈り物をする、という形式は、対等な外交関係でもよくあることです。ただ、相手と自分の各の違いがあまりに大きい場合、「朝貢」に準じるものだと言えます。
 なぜなら、援軍要請や膺懲防止という極端な行為までは考えずとも、交易などにおいて便宜を図ってもらったり不当な扱いを避けるという、ややソフトな目的で相手の政府に贈り物を贈ることもあるからです。なお、こんな贈り物をしなければならない時点で、「宗主国-属国」という関係ではありませんが、相当に力関係に強弱がある関係とは言えます。
 力関係の強弱を確認する方法として、通信使の扱われかたの格を見るというものがあります。調べると、江戸城に入城する際、行列が裏口から入っている絵が残されています。これは、明らかに格下の扱いで、対等な客扱いではありません。対等であれば、正門から入りますからね。
 この意味では、「朝貢」と言えます。

 このように、定義によっていろいろ判断が変わります。
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この回答へのお礼

とても詳しくお書き頂きありがとうございます。よくわかりました。

お礼日時:2007/01/25 10:22

 通信使は対等な立場での使者ですから、朝貢には当たらないというのが妥当な判断でしょう。


 日本からの返礼使は対馬藩が釜山まで行くことで済ませていたらしいですね。
 詳しくは下記をどうぞ。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/朝鮮通信使

この回答への補足

ありがとうございます。大変参考になりました。

補足日時:2007/01/25 10:20
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