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どーも、今回は一般の方々のキリスト教に対するイメージ・意見など幅広く聞きたいです。一般の方々の考えを聞かせて下さい。

A 回答 (14件中1~10件)

信者ではありませんけれど、キリスト教には好感を持っているものです。



一口にキリスト教と言っても、長い歴史の中でさまざまな変遷がありますし、現代でも教派や国によってかなりの違いがありますから、一括りに論じるのは難しいですよね。
そのために、人によってイメージはさまざまでしょうし、これまで回答されている方の中にも、多少誤解をされている方もいらっしゃるようです。(あくまで私の理解の範囲のことですし、私自身にもきっと誤解があると思いますが。)

過去の歴史における過ちにしても、その当時の権力に利用された(或いは、キリスト教自体が権力になってしまった)ことが問題だっだのだと思います。
回答の中で、キリスト教の排他性(異教徒への攻撃性)が指摘されていましたけれど、本質はちょっと違うと思います。本来のキリスト教は、ユダヤ教の排他性を否定し、異教徒へ門戸を開いていったのが始まりだったはずです。(ただし、キリスト当時でも、ローマ帝国からの独立運動の手段として、民族主義的思想に利用されたことも否定はできませんが。)

他の宗教でも、例えば日本の戦前~戦中における国家神道なんかは、天皇を現人神として奉ることで多くの過ちを犯してきましたし、現代でも一部のイスラム教ではいまだに? 宗教ではありませんが、建前では共産主義(これも一種の宗教?)という理想を掲げながら、実際には多くの問題を抱える社会主義国家も存在しています。
結局、キリスト教自身が悪かったと言うのではなく、人間のやることにはつねに過ちがあるということではないでしょうか。少なくとも現代のキリスト教は、過去の過ちは過ちとして認めており、その点については評価すべきだと思います。

そして、現代のキリスト教の実態について思うに、もちろん全てではありませんが、本家の西欧では社会習慣化してしまい、宗教としての本質がかなり損なわれてしまっている感がありますし、逆にアメリカの一部では、新興宗教的なのりになってしまっているところも見受けられます。

ただし、私はキリスト教自体の理念(私の理解では、謙虚に人間の限界を認め、キリストに帰依することで精神の救いを得る(現世のご利益宗教とは一線画す)ということだと思うのですが、いかがでしょうか?)は、ほとんど全ての教派に共通(ただし、モルモン、物見の塔、統一教会などの一部の自称キリスト教を除く)で、非常に健全なものだと感じております。

余談になりますが、キリスト教って仏教の浄土真宗(門徒宗)とよく似ていますね。パウロ(初代キリスト教において、教義体系のほとんどを確立した人物)と親鸞の思想なんて、キリストと阿弥陀仏を入れ替えたらどこが違うのって感じです。
私みたいな軟弱な人間にとっては、これだけ徹底した他力本願は、かえってすごく魅力的に思えてしまいます。

さて、大衆宗教という言葉が否定的に使われていましたけれど、(回答された方は、権力との結びつきの意味で使われていたようですが)宗教って本来大衆のものではないでしょうか。私の理解では、一部のインテリが個人レベルで持つ思想は所詮哲学であり、自己満足の世界で完結してしまい、普遍的な救いを追求する宗教にはなり得ないと感じています。問題なのは、大衆(というより人間の本質)は体制に流されやすいということで、人間の弱さを例えばキリストとか阿弥陀仏とかに頼ることで克服するからこそ、そして集団の中で自分を見つめなおして行く(思想の独走を修正する)からこそ宗教足りえるように思います。

えらそうなことを書いてしまいましたが、私自身、キリスト教でもファンダメンタルな教派の方と話をすると、ちょっと引いてしまうところがあります。一方でリベラルな教派には魅力を感じることがありますが、これって一歩間違う?と哲学ですよね。

最後になりますが、私は基本的に唯物論的な考え方が染み付いてしまって、なかなか宗教には入り込めませんが、wa-chanさんのように、素直にかつ謙虚に信仰を持っていらっしゃる方を見ると、とても好感を覚えますし、ちょっとうらやましく思ってしまうこともあります。
長々ととりとめのない話になってしまい、申し訳ありませんでした。
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございます。まだまだ私も経験不足、勉強不足という事を感じさせられました。失礼とは思いますが、ここで皆様にお礼を言いたいと思います。本当にいろいろな意見ありがとうございました。

お礼日時:2002/04/05 22:33

>宗教組織の大きさは関係ないと思いますよ。


そうですね。信じるか信じないかは個人の問題ですが、それだけの問題ではすまされないのが大衆宗教だと思うのです。組織が巨大化し、一国に浸透するほどになると、社会の問題になってきます。地獄を呼ぶには十分です。個人と社会、切り離せません。しかし、社会と宗教を、個人をとばして癒着させてしまうのが、腐敗した大衆宗教だと思うのです。
 
>大事なのは一個人がその組織の中でどれだけ神を信じるかということ。
 
神を信じるのは個人なのに、何故組織の中にいなければならないのですか?
そういう人は、宗教の押し売りをよくするような人です。
組織が無くなれば、その人の信仰は終わってしまう。その人は、独りでは信仰を維持できません。
 
 信仰には度合いがあると思います。文化としてなるのは大衆宗教です。それはそれでいいと思います。社会に身に付くアビリティの一つでしょう。
 ですが、組織に頼るのか、神に頼るのか、組織を信じるのか、神を信じるのか、
信仰を得るカギである個人を組織に取り込まれてしまっては、信仰は得られないと思います。
 
個人が、その理由を他に転移した時に、地獄は生まれると思います。 
それをしやすいのが、大衆宗教であり、無宗教気取りだと思います。
ほんとの無宗教者は、宗教を意識しないと思います。
 
 信仰は、個人に根づくというよりも、「おこる」ものだと思います。
社会においては「根づく」でしょう。違いがあります。大衆宗教、宗教組織は天国への門にはなりません。信仰は個人のもので、組織のものでも社会のものでもないのでしょう。それは、おっしゃるように、あくまでお手伝い、でとどまるべきです。小さい門はその人の心にあるでしょう。キリスト教が悪いのではなく、いつでも悪いのは人間の内の悪だと思います。戦争の理由を宗教に転換するからいけないんだと思います。自分達のせいなのに。
 
「神がそばにいる」といって 奴らはインディアンを打ちのめした。
 
神がそばにいると、言い訳しておいて、打ちのめすんです。
言い訳せずに爆弾落とせば、悪さばればれですからね。悪はよく偽る。
堂々と打ちのめせばいいのに、正義だとか言い訳するんです。いつも。
 
私は、祈る時はキリストにも釈迦にも、神にも、何かしらわからないものにも、祈ります。感謝も同じです。弊害は起こりません。
それが個人の信仰だからです。
ばらばらなアドバイスですみません。
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この回答へのお礼

いえいえ、貴重な意見ありがとうございます。
確かに、個人を飛ばして社会と宗教が結びつくと大変大きな力になりますね。その通りです。そして死者が出てくることも・・・なんだかんだ言って人間のいいように宗教を利用していますね。私としてはどの宗教を信じてもいいと思います。ただ願うのは世界の平和ですね。喧嘩は嫌いです。

お礼日時:2002/04/05 14:13

今の世界でとても影響力のある宗教と思っています


イエスの思想は「この世界をより良く活きるには」、という発想で貫かれているところに力を感じます
でも多くの回答者が述べているように、キリスト教となるとその解釈が教義どころか人の数だけあり一概には言えなくなります

実例を簡単に挙げます
マルコスが大統領の時代フィリピンはとても荒んだ印象をもつ国でした
でもどこか明るさに満ちていました
南の眩い太陽のせいばかりではないし、それがとても不思議で歩きまわり、ある時は人にも聞きながら考えてみました
一つの答えは南洋風のカトリック信仰にありました
好い加減な男どもをよそに、多くの女性の生活を支える真摯な態度が国を支えていたのです
ところが一方で暗い中世の歴史がある
戦争を考えるときには、未だに尾をひく独善的な一神教の弊害を度外視できません

そんなところが僕の感想です
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この回答へのお礼

maqgogoさんありがとうございます。さっきは私が回答しましたが、今度は回答していただきありがとうございます。そうですね、宗教が与える良い影響と悪い影響・・・これからもそれは続くでしょうね。ただ良い影響がますます多くなることを期待します。

お礼日時:2002/04/03 22:15

キリスト教だけでなく、大衆宗教になった宗教信者の大半は不信仰だと感じます。


大衆とはそういう集団だからです。実際に信者になって、キリスト的に言う天の国に入ったものはどれだけいるでしょうか。
キリストは言っています。
「天の国への門は、目にとまらぬほど小さい。行き易い近くの大きい門に行ってはならない。」
つまり、大衆宗教として巨大な門になってしまったキリスト教組織は、もはや天国への扉にはならないということです。
大きい門を通るのは安易です。キリストの導きがなくても通れます。
しかし、目にもとまらぬほどの小さい門は、キリストの導きなくして通れません。
天国へ行きえるのは小さい門だとキリストは言っているので、キリストを信じるなら、大衆宗教としての、与えられるキリスト教から脱却すべきでしょう。組織の価値は教えを残すという事で、あやまった信仰をさせるものではないからです。生きたキリストに導かれるなら、その人は天国に行くでしょう。
宗教と、大衆のあやまった結びつきが、不幸を生んでいると思います。
宗教心は個人から湧き出る心で、他に与えてもらうものではないと思います。
僕の考えるキリスト者的な観点から、一般人として解答させて頂きました。
大衆的な腐敗宗教につかまってしまう事は、地獄を生むと思っています。
今の季節、のんびり神社で花見してた方が、天国に近いと感じます。
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この回答へのお礼

う~ん、そうですか。大衆宗教になれば天には行けないのでしょうか。確かにただ教会に行き、ただ横の人のまねをし祈るだけなら、天国には行けないでしょう。しかし、自分はキリスト教徒だと確信し本当に神を信じ、祈るならその人は天国に行けるでしょう。宗教組織の大きさは関係ないと思いますよ。大事なのは一個人がその組織の中でどれだけ神を信じるかということ。周りから言われてテキトーに『神はいる』なんて思っていても全く無意味です。自分でハッキリ神がいる!と感じれた時に罪を意識し悔い改め、そして神の国へ行けるでしょう。宗教というものは個人が自覚するための手伝いをするものです。最終的に神の道を歩むか決めるのは個人です。

お礼日時:2002/04/03 17:20

クリスチャンではなく,一般人ですが,過去に聖書は旧約も新約も,日本語版,英語版,中国語版を読破しています。


過去の世界規模の大きな戦争を引き起こしたのは,キリスト教が中心であるといえますネ。
古くは十字軍による虐殺遠征から最近ではアフガンまで。
「汝の隣人を愛せ」
「右の頬を‥」
これらの有名な「愛」に満ちた言葉は,あくまでも同じキリスト教徒のみを対象としたものであり,異教徒は悪魔であって,制裁を加えることに何も問題がない(魔女裁判なども露骨ですよネ)ということですネ。
これが本質としてあることは明白であると歴史は教えてくれますネ。

もう一つの面として,科学と対立し,科学の進歩を妨げたという事実もありますネ。
ガリレオに対する裁判などは有名ですネ。

欧米の利己主義の原点はキリスト教にあると思っています。
以上kawakawaでした
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この回答へのお礼

そうですね。キリスト教の堅い考え方のせいで多くの命が奪われたのはとても悲しいことです。ただ愛に満ちた言葉があくまで同じキリスト教徒を対象にしているというのは間違いです。愛は未信者、他宗教の方々にも向けられています。しかし人間というものは都合のいいもので、自分に不利となると聖書の言葉など忘れてしまうのです。これは人間の一番いやな部分だと思います。常に誰にでも愛を向けていれば一番いいのですが、なかなか難しいことですね。

お礼日時:2002/04/03 16:21

回答者どうしの議論は好ましくないのですが、wa-chanさんが詰まっているよう


ですので、少々助け舟を出します。

この世には因果の法則はあるかと思います。
原因→結果の関係ですね。そしてキリスト教の多くの宗派では、神が創造主、
つまり第一原因であるという教理を持っているかと思います。

そこで私たち人間は、第一原因のその前の原因はないだろうか、という考え
を持ったときに、答えに詰まってしまうこともあるかもしれません。

それについて、私はこう考えます。神は法則をも創造したのだと。
つまり因果関係という法則そのものも、神の創造であるということです。


一般に仏教では「法前仏後」、つまり法則そのものは最初から存在していて、
悟りを開いた人(仏)がその法(ダルマ)を知るという考えです。
キリスト教では神が絶対であるように、仏教では法が絶対であるということです。

それに対してキリスト教は「神前法後(※)」という考えのようです。
神がまずあって、神が様々な法則を創造したということです。
また、聖書を注意深く読むと、神の業(わざ)は単純な因果法則を凌駕している
ことも読み取れるかと思います。
善因善果/悪因悪果の法から逃れられない仏教の教えと比べて、これは福音では
ないかと思います。


なお個人的な意見がずいぶん混じっていますので、正式な宗派の見解は、
教会の神父/牧師さんに確認してください。


(※)「神前法後」という言葉は、小室直樹先生の「日本人のためのイスラム原論」から拝借しました。なかなか便利な造語です。
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この回答へのお礼

勉強不足ですみません。そしてお助けありがとうございます。

お礼日時:2002/04/03 16:09

こんばんわ、疑問は尽きませんね。



さてご質問の件ですが、私自身宗教のことはまじめに学ぼうとしたことが無く、お答えすること自体が冒涜になるのではないかという気持ちがあります。

ただ、私自身マックス・ヴェーバーの『プロテス
タンティズムの倫理と資本主義の精神』という書物を学生時代に読み、非常に感動した経験があります。

ずいぶん前のことなので、内容はあまりおぼえていませんが、ストイックに生きてきたプロテスタントの生き方が、資本主義の勃興に貢献したと行った無いようだったと思います。

宗教の教義がどうであれ、そのように1つの時代の民衆の心の支えになっていたことはすごいことだと思います。一方価値観が多様化した現在、キリスト教などの宗教がどの様な役目があるのかに興味もあります。

まとまらない意見ですみません
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この回答へのお礼

いえいえ、質問が質問ですから、まとまってなくたって結構ですよ(私はこの意見まとまっていると思いますが)
キリスト教であれ仏教であれ、人の支えになっていると言うことは非常に嬉しい事です。

お礼日時:2002/04/03 16:06

予想はしていたのですが、キリスト教に対して肯定的な意見が少ないですね。


日本は歴史的に一神教を受け入れにくい国なので、まぁ仕方がないのですが。
(それでもキリスト教は、戒律の厳しいイスラム教よりは受け入れられています)

けれどもね、信じる・信じないは別としてキリスト教とは何なのか、ということ
はよく理解していた方がよいかと思います。


日本は一応、政治的には民主主義・経済的には資本主義の国家ですが、民主主義も
資本主義もキリスト教なくしては成立はありえなかったのです。

超簡単に説明すると、キリスト教では神と人との「契約」という概念があります。
この契約の概念が人と人の間にも適用されるようになって、資本主義社会が発展
していきます。商売で契約がきちんと守られないと、健全な企業が育つことがで
きませんから。

一方、キリスト教では「神の前での平等」を説きます。
王様だろうが庶民だろうが、神の前ではみんな同じだというわけです。
この教えが、やがて「法の前の平等」という思想に発展します。
「法の前の平等」なくして、民主主義の成立はありえません。


今の日本で政治家を信頼している人がどれだけいますか。あまりいないでしょう。

では、なぜ政治家が国民の信頼を無くしているかというと、政治家が「公約」
を守らないからです。選挙の時には「公約を守ります」と言いますが、選挙に
当選すると、いつのまにかなし崩しになっていることが多い。

日本の政治家がなぜ公約を守らないかというと、結局は「契約」という概念が
無いからです。頭の片隅くらいにはあるかもしれませんが、その「契約」を
死んでも守りぬくまでの覚悟は、まずありません。

その点、欧米の政治家は少しはマシです。「公約」とは選挙民との契約です。
契約を守らないような人間はまともなキリスト教徒ではない、つまり欧米の
クリスチャンの観点ではまっとうな人間とはみなされませんから、公約を破れば
間違いなく次の選挙で落選します。


キリスト教の本質を理解すれば、政治・経済に対する見方が大きく変わります。
政治や経済に興味が無い人はかまいませんが、将来に社会で活躍したいという人
は、信仰は別にしても、キリスト教に対して理解を深めていても損なことはありませんよ。
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この回答へのお礼

的確なご意見ありがとうございます。
私も皆が信者になればいいとは思っていません。ただ世の中にこのような宗教や考え方があるんだ、と認識していただけたら幸いです。

お礼日時:2002/04/03 15:59

何をもって一般でしょうか。

いろんな人がいますから、いろんな人の一人として解答します。
 私は霊能者ですから、キリストの霊柱の中で生きていることを知っています。個々の人格というのは、そういった人格系列とも言えるところから由来します。
様々な人格の入れ物になるのが自我です。
キリストというのは人格の事で、それが人間イエスに降りたという事です。
私にとってのキリスト教のイメージは、銀河における地球教といったところですか。この銀河には、この地球教があります。
仏教はたくさんの宇宙を含む、世界教でしょうか。
地球を統治するのはキリストの霊柱の霊ですから、そういう見方でキリスト教をとらえるとよいと思います。銀河(一つの宇宙)において地球は重要な霊的進化の場です。それを導くのが、イエス=キリストの霊です。
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この回答へのお礼

なかなか難しい意見ありがとうございます。一般とはキリスト教を信じていない方々(他宗教の方を含めて)の事です。説明不足でスミマセン。私は若いのでまだよくわかりません、ゴメンなさい。ただキリストの内に生きることはすばらしい事だと思います。

お礼日時:2002/04/03 00:15

 


 「純真」「純朴」「真面目」「ナルシスト」・・・

 でも一番感じてしまうのは、「偽善者が多い」という事でしょうか。しかも、ほとんどの人が「偽善の行」に気づこうとしない。

 私が二十歳くらいの頃、知人に熱心に信仰されているクリスチャンがいましたので、ある時、片方の頬を一発平手打ちした事がありました。・・私はその後の反応に期待していたのですが、反対側の頬を向けるどころか、逆上して怒っていました。

 そもそも、聖書とはいったい何なのでしょう。大筋においては、確かに人が生きていく上において有益な指針を与えてくれているのかもしれません。しかし、私にとっては、訳のわからない事が多い書物です。

 伝言ゲームを体験された事があると思いますが、先頭の人から最後尾の人へ言葉が伝達されると、必ずと言っていいほど、最初とは違う言葉になってしまいます。(何故、そうなってしまうのかは、ご存知だと思いますので割愛します。)

 私は神の存在を実証する術を知らないので、神の存在は肯定も否定もしませんが、布教が開始された頃、神の教えを伝えて行く手段のほとんどが口伝だったとすると、長い年月が過ぎ去るにしたがい、正確に伝わって来たとは到底考えられません。

 聖書の解釈というのは、一般人にとってはとても難しいものです。しかし反面、とても簡単だとも言えます。・・なぜなら、キリスト教の中にも各宗派が存在している通り、自分の都合のいいように解釈して良いのなら、苦労は必要ないからです。

 自分の生きるべき方向性を見出せない人にとっては、指針を与えてくれますから、信仰して行くにしたがい、明かりが見えてくる事でしょうね。しかし、その頃には、「洗脳」という「呪縛」からは、のがれられなくなってしまいます。
 
 ・・・また、そういう状況に陥りやすくさせる要素が多い宗教です。
 
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございます。
まずあなたにとって偽善者とはどのような人ですか?平手打ちして怒ったら偽善者ですか?聖書に背き罪を犯したら偽善者ですか?そうすれば偽善者は『多い』ではなく全員です。我々は日々罪を犯しながら生きています。その罪を認識し悔い改めるのがキリスト教で、わかっていながら悔い改めないのが偽善者ではないでしょうか。私だっていきなり殴られたら、怒り、殴り返すでしょう。ただそこで終わりではありません。次に聖書を開いた時に、ハッとし罪に気づき悔い改めるでしょう。

聖書の正確さですが、昔は口伝ではなく巻物を一つ一つ写していたそうです。もちろん口伝もあったでしょうけど。だから割と正確だと思います。
イエスの生涯については4つの福音書が書かれていますので多少のズレはあっても正確だと思います。

聖書を都合のいいように解釈する。これは簡単な事ではありせんよ。むしろその意味をそのまま受け取った方が簡単なくらい。なかなか都合のいいようには解釈できませんね。

最後にキリスト教は自由な宗教です。出入り自由、無理矢理な勧誘、引き止めはしません。そして楽しい宗教。だから洗脳、呪縛などはありません。

お礼日時:2002/04/03 00:05

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