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10代です。
自分のペットを見たり、友達としゃべっているときに、「自分と他人の違い」や「自我」というものについて考えています。
変な話なのですが、世界や他人(自分以外のあらゆるもの)は在るのでしょうか?普通に考えれば、親から生まれてきた自分がいて、そのまた親から生まれた私の親が存在しているので、こうして今があり、宇宙という場所の地球という星で大勢が共存していることが当然の話だと私も思うのですが、たまに「今見ているすべては私の意識からなるものだから、すべては私の空想なのではないか」と怖くなってしまいます。「生きていることは奇跡なんだなあ」と感謝して生きてきたはずなのですが、たまにこの世を疑ってしまうというか・・・人が信じられなくなります。いくら考えても確かな真実というものは無いと思うので、結局この世で生きていくしかないのですが、(いくらもがいても気づいたら他の世界へ飛んでいたなんていう経験はありませんから笑)変な話、少しでも安心したいです。みなさんはどう思いますか?ご意見をお待ちしています。・・・それでも「自分」がいることの確実さって何でしょうね~。不思議。これだけ世界に生き物がいて、(今までの過去にも、そしてこれからも)誰一人「自分」という人が自分以外にいないのが、すごく怖い・・・というか。

A 回答 (7件)

この手の話は霊魂の存在なくしては語れません。


実はあなたのいうことは半分実であり、半分虚です。

これは今説明しても理解できないでしょうが、
興味を持続できればやがて導かれるでしょう。
そうでないのなら時期に気にも止めなくなります。

それで多分、今のあなたは充電不足の状態とみて取れます。
幽体離脱とまではいきませんが、霊は体から離れている状態。
ですから気分もふわふわして地に足がついていません。

これが当たっているようなら霊を頭のてっぺんから足の先まで
自分の体に重なって戻すように意識してみて下さい。
普通はそれで正常に戻ります。
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僕も今高校3年で受験まで2週間しかありませんがlaruru2さんとほぼ同じ事を毎日考えてます笑


僕なりの結論ですが自分の見ている外界と自分以外の人達が見ている外界は10あったら5~8ぐらいまでは共通していて、あとの5~2は人間それぞれのフィルターをかけて事実から少し変更されたものなのではないかと思います。それに自分自身の世界の見え方も一定ではなく、変化していますよね。それにみんなの世界の見え方が全く同じでも変だと思うし…なにより自分と同年代でこういう哲学的な思考をしている人が居てすごく嬉しかったです笑 お互い頑張りましょう
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質問者さんは周りの人がとても大事で、幸せな方なんですね。


私なんかの場合は逆で、いつもこの場から逃げ出したいと思ってました。でも、今までの経験で、いいこともあれば悪いこともあるなと思うし、悪いと思っていることって、自分の性格を少しずつ矯正してるなって思います。

質問者さんは、凄く自分を取り巻く人が好きで、もしこれが空想だったら怖いと思うのでしょうか?
でも、この世って、色々怖いことがありますからね。よく考えると、この世のほうが地獄でしょうね。
いろんな人間が混じっていて、嫌な人もいっぱいいるでしょう。

よほどの身内でないと、なかなか信じるのも難しいでしょうし、10代では、まだまだ人の裏もなにも知らないでしょう。だから、今はとてもその環境が恋しいものだと思うんですよね。安心できるということは、自分が何か恐ろしい経験をして終わったというか、完了した後だと思います。
生きてる実感て、困ったこととか、楽しいこととか色々やりとげること、で、実際に孤独になってみるのも実感だと思います。

私の場合は、こんなにたくさんの人が生きてて、変な人もいっぱいいるだろうに、よく生きてこれたね~って感じです。
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哲学に確かな答えというのは無いと思いますので、


簡単な話、
あなたと同じように考える人間が他にも大勢いるという事実が、この世界にいるあなたの存在を肯定してると思いますよ。
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こんにちは。


質問者さんと同じような疑問を持った人が過去にたくさんいて、いろんな答えを出そうと試みています。「哲学」と言われる学問がそれですね。

私も過去に似たようなことを考えたことがあります。
自分が見ているこの本は、他人にはどのように映っているのか。
隣の部屋に飾ってある壁掛けは、今私が見ていないこの瞬間にも必ず存在しているのか。
昼間見えたものが夜には見えなくなる。どちらが本物の姿なのか、、などなど。

こういう答えを見出そうとすれば、哲学関係の本を読んでみるといいと思います。
いきなり専門的なのは難しいので、入門書か、触りだけでも触れてみると、なるほど、と思うことがあるでしょう。専門家でないので詳しいことは分かりませんが、以下のHP
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BB%E4%BD%93% …
などからリンクを辿って行ったりして、ご自分の興味のありそうな分野を見つけてみるのも良いでしょう。
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私もそんなことを10代に(それ以前にも)考えたこともありますが、


この問題に対する論理的かつ明確な答えはおそらくはないと思います。

ただし、この問題(及び派生する問題:例えば
各主体によって異なる認識がどうして共通認識となりうるかなど)
について考えた人は古今東西数多くいます。哲学の範疇です。
そういった先人たちの考えを読んでみるのも、
解決には至らないまでもより思考を深めることにはなると思います。

一見入門的な、しかし読むと深みにはまる本として
永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み』をおすすめしておきます。
まさに質問者さんの考えているスタンスに立って
とことんまで突き詰める姿勢を示しています。。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4888482 …
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こんばんは。

なかなか面白い考え方ですね。失礼ながらお若いのにしっかりした物の考え方を持ってらっしゃるよううな印象を受けました。

さて本題ですが、私は「自我」というものは「他人」や「自分を取り巻く世界」があって初めて成り立つものだと思います。質問者様とは逆の発想ですね。何か比べる又は基準になるものがあって、自分はこう思うというのが「自我」ではないかと思います。よって、「他人」、「自分を取り巻く世界」及び「自我」は確固たる存在だと思います。

何かの受け売りですが、音も光もない場所に人間を放り込むと約1ヶ月くらいで自我が崩壊し、自分が何者かすら分からなくなるそうです。

私も質問者様とはちょっと違いますが、例えば自分が見えている「赤」という色は他人が見ても「赤」なのだろうか、自分の「青」が他人の「赤」ではないのだろうかというように自分と他人とは見えてるものが違うのではないかと考えたことがあります。ですが、仮に見え方が違ったとしても同じものを指しているという基準はあっているので問題ないかと思います。

あまり回答になってなくて申し訳ありません。とりあえず実害はないのでよしとしましょう。怯えることもないでしょう。

物事を色々な角度から見る姿勢はご立派だと思います。これからもその姿勢を忘れずになさって下さい。
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この回答へのお礼

とてもご親切なご回答ありがとうございました。
>例えば自分が見えている「赤」という色は他人が見ても「赤」なのだろうか~
私もこれについて考えたことがあります!私が「これが赤!」と思っている色も、もしかして他の人は、私にとっての青が見えているかもしれないな~なんて。でも日常の生活や会話に支障が出たことはないですので、たとえ目に映る色が多少違っていても・・・極端に違うということは無いんじゃないかなと考えます(笑)
>仮に見え方が違ったとしても同じものを指しているという基準はあっている~
そうですよね(笑)たとえ私の見ている赤が、momizi_markさんには私にとっての青が見えていたとしても、イチゴとりんごはだいたい同じ色だと認識できるのは同じだと思います。・・・もしそうだとしたら、赤に対する「情熱的」「燃える」(これは私にとっての印象ですが)といったイメージを、momizi_markさんは、私にとっての青に抱いているということになりますね(笑)ここまできたらすべてメチャクチャですけど・・・よく社会が成り立っているなと思います。

お礼日時:2006/10/09 06:51

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