プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

10ページに満たない短編「北国ミシガンにて」。
田舎の食堂の住み込み女中が、常連客の鍛冶屋に片想いを寄せ、彼がこれを“強引に”成就してやるという話です。

あるとき、彼が食堂の主人らと一緒に、数日狩猟に出かけてしまう。この間、彼女は、ひじょうに寂しく切ない気持ちになる。

ひしひしと女の情熱が伝わる、優れものの描写に至ります――

All the time Jim was gone on the deer hunting trip Liz thought about him. It was awful while he was gone. She couldn't sleep well from thinking about him but she discovered it was fun to think about him too. If she let her go it was better.

ここで気になるのは、最後のところです。"let her go"とは、どういうことでしょう?

翻訳はマチマチで、
1)「いっそ、ひと思いに身をまかしたほうがましだろうとも思った」(龍口直太郎)
2)「思いきってからだごとぶつけていけたら、どんなにいいだろうと思った」(大久保康雄)
3)「心ゆくまで彼のことを考えているほうが、ずっとよかった」(高見浩)

とくに、高見訳は、他とぜんぜん違っており、こんなにあっさりしたモノでよいのだろうか、と随分疑問に思います。
龍口訳は、“体を許す”という意味にしかとれない訳し方で、なんだかはっきりしない大久保訳よりも、キチンと狙いが絞られています、が、果たしてこの絞り方が的外れでないかという危惧もあります。
(あてにならない私の感覚では、「告白できたら」といった訳もありそうかなぁと)

どうぞ、みなさんのご意見をお寄せ下さい。

(余談ですが、引用部2つめの文章中、awful について――ココはどういう訳でも構わないですが――個人的には、龍口訳「たまらないことだった」が大のお気に入りです。ちなみに、大久保訳「いたたまれない気持ちだった」、高見訳「とてもみじめだった」。)

A 回答 (8件)

Gです。

 もう一度書かせてもらいますね。

ambiguityと言う単語をご存知ですね。 let herself goと言う表現が「自慰」と言う意味であると言う事はありません。 ただ、その意味を持たせる事ができる表現だとは言えます。

つまり、今まで何回も書いてきたことですが、読む人の姿勢によって、この表現を「自慰」とみなせる事も出来、この表現や他の表現が出版社には受け入れる事が出来なかったわけです。

私は隠れたフィーリングと言った理由がambiguityと言う単語で表現できるわけです。 つまり、表面上は、自分の気持ちに任せる、と言う一応問題のないフィーリングを出した表現でも、見方によってはこの時代ではとてもこのような見方をすることで「エロ過ぎる」と見えるわけですからこの件に関してはアメリカよりも「一歩進んでいた」フランスでは一度は出版されたわけです。

しかし、大変な努力をしてやっと30年代後半(15年後)にアメリカでも出版できるようになったわけです。 ヘミングウェイの「母国」ですね。 時代の流れが国によっても変わってくる、と言う事でもあります。

そんなの昔の事だから分からない、と言う人もいるかもしれませんね。 本当に分からない事なのでしょうか。 こちらに私が来た60年後半ではもう既に「アンダーヘアーは誰でも買える雑誌」に載っていたのです。 日本ではいつでしたっけ。 (この例を持って来て、気を悪くした人がいましたらごめんなさい)

23年のものと38年のものには表現が変わっているところはあるかもしれません。 しかし、funと言う表現の持つ「問題のないフィーリング」はちゃんと伝わる文章である限り他の単語に編集されている可能性は少ないと思いますし、ヘミングウェイだからこその「表現力」を削ってしまうような編集になってしまうと思いますし、また本当にそうであればヘミングウェイが「抗議・反対」したと言うような事はネットでも載っている事でしょう。 (chunterさん、もしよろしければこの点についての出典を公表していただけると貴兄の教えに従う事がより易しいと思いますがいかがでしょうか。 この質問で勉強している(私を含めて)皆さんの利益になると思います。 質問者でない私からもよろしくお願いいたします。)

なお、チャタレイの方は、記述があまりにも許容範囲を外れていたという事でイギリスでは1960年まで出版できませんでしたね。 (確かアメリカでもそのちょっと前まで発禁書だったと思いますが、私の思い違いかもしれません) Up in Michiganと同じようにヨーロッパのイタリアで出版されたのが28年ですね。 イギリスやアメリカでも出版されてからもまだ問題はあったようです。 (法律的にはクリアーされてはいましたが) (私にはこの作品に関する知識は常識以下なのです間違った事を書いているかもしれません) ただ、私はヘミングウェイの表現力とambiguityの質の高い使い方はLawrenceよりすばらしいものを持っていると個人的に思います。

ではまたの機会にお会いしましょう。 楽しみにしています。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

たいへん熱のこもった回答に感謝を申し上げます。

要するにGさんとして、「自慰」と解釈するのは、躊躇があるということですね?

たしかに、let oneself go を、手元の辞書で引いてみると、
give way to one's desire とか、give way to one's feelings といった説明に出くわします。
つまり、“欲望・感情に身を任せる”ということで、仮に、この“欲望”を性欲寄りに解せば「自慰」になるでしょうし、“感情”寄りに理解すれば、高見訳同様、空想にふけるということになるでしょう。
結構、幅がある。

とはいえ、この幅、ambiguity についての、私の考えは、やや異なります。
すなわち、ambiguity を駆使して作家が狙うのは常に過激な標的だと、私はおもうのです。
テキスト中の ambiguity を指摘して、ここは2通りの解釈がある、3通りの解釈がある、などと言って悦に入るのは、滑稽な連中(学者など)の癖ですよ(まあ、私の想像ですが)。

日常経験でもそうでしょう? 誰でも口を濁すときには、毒を腹に秘めている。
それと同様に、ambiguity も暴いてみれば、過激な内容だといって間違いない。

その意味では、ここを最も過激に「自慰」だと解釈して、既存の翻訳をバッサリ切り捨てるのは、悪くない。そういう気がします。

ただ、訳としては「自慰」を前面に出すのは、誤りでしょうね。意訳も甚だしい。

私の要望は、If と better について、論理的な解説を加えてくれる方がいたらなぁ、というものです。実は、そういう投稿をお待ちしているわけです。

お礼日時:2006/10/15 08:45

Gです。

 補足質問を読ませてもらいました。

>その意味では、ここを最も過激に「自慰」だと解釈して、既存の翻訳をバッサリ切り捨てるのは、悪くない。そういう気がします。
>ただ、訳としては「自慰」を前面に出すのは、誤りでしょうね。意訳も甚だしい。

読者が読んで(自由に)感じることと翻訳者が作者の「代わりになって」違う言語で表現する事とはまったく違う事です。 これは絶対に分かって欲しいところなんです。

「自慰」と読者として解釈・理解する事はかまわないでしょう。 だから「人によってはエロ本的」要素がある、とまで言ったのです。 それを「自慰」である、と断言するのはその人の自由です。 しかし、これを翻訳者として書いてしまったら翻訳者としての人生は終わる(無視される)でしょう。

翻訳者とは「読んで自分が感じる(解釈する)ままを表現する事はタブー」と言える勇気を持たなければ作者を無下にしているのです。 翻訳者は小説家ではないのです。

だからヘミングウェイのフィーリングを感じ取って欲しいのです。

こういう解釈もある、という事は「滑稽な連中(学者など)の癖」だという事もあるでしょう。 私も否定はしません。 しかし、それは、ネットして調べてきただけの「解釈」をすることとそんなに変わらないことです。

私は、そうでなく、「自分の持っているもの」を出す事が出来るだけの知識を持つ、つまり、自分の自分の知識や能力によって「自分なりの答え」を出せる実力を作り上げていく事を大切にしたいと生きてきました。

そして、選択を表現する「3通りの解釈がある」と言う事が「自分のしっかりとした考えがない」と言う事ではなく「(自分の能力を使うことで)視点を考えて見る事ができるから」こう言う解釈も「自信を持って」言えるということであれば、私にとって、それは大変有意義な事と信じています。 

そしてものをいろいろな面から見えるようになるのは自分の向上の初段階なのです。 しかし、それには「選択能力」を必要とし自分を向上させるには絶対的なものなのです。

指導員・教師として、こういう選択がある、と言う事が「断言してそれを教えるときがあり、また、こういう風にも見えるという事を知って欲しい」と言う、教える事に対して、二通りの教えを生徒に教える必要は必ずあると信じている私です。

物事を教える場合、そのことを知識のひとつとして教える必要性と、「考える能力を身に付けさせる」「考える土台を作る」必要性がある、と言う事なのです。

日本ではとかく後者を重要視していないと私は感じます。(偏見的先入観かもしれませんが) 向上する土台を作ってあげていない、と言うことです。

>私の要望は、If と better について、論理的な解説を加えてくれる方がいたらなぁ、というものです。実は、そういう投稿をお待ちしているわけです。

そう言って欲しかったです。 その要望を表現しないでどうやってそのフィーリングを感じることが出来るでしょうか。

If she let her(herself) go it was better. と言う表現で、it would have been betterと言う表現はしていませんね。

これを現在形表現をすることで少し解釈しやすいと思います。 If she lets herself go, it is betterとなりますね。 とすれば、she'd better let herself go.と言うフィーリングに近いものがあると感じることが出来ますね。

問題は、'd betterと感じるのは誰か、と言う事なのです。 それを感じなければこの文章を翻訳するのは難しいと思うわけです。 私は、ヘミングウェイだと思うのです。 それを、Lizの言葉としてここでは表現しているわけです。

また、個人主張のままで書いてしまいましたね。 気を悪くしてしまっていたら謝るしかない私です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

毎回、真摯なご回答をくださることに、大変感謝しております。

> 二通りの教えを生徒に教える必要は必ずあると信じている私です

この点については、まさしく同意見です。
ただ、「教える」場合と「物を書く(作品を作る)」場合とでは、事情が異なるだろう、というのが先日私の述べたことでした。
ともあれ、以上の議論は、ほんの余談ですし、問題解決に直結するわけでもありませんから、とくにお気になさらなくても結構です。

> she'd better let herself go.と言うフィーリングに近いものがあると

のご意見は、たいへん参考になります。

これを受けて、現段階での、より具体化された私の疑問は、"If she let herself go, it was better." = she had better let herself go. と置換して良いものなのか、それとも、同文= Whenever she let herself go, it was better than only thinking about him. と解すべきなのか、という形になりそうです。

もしこの点に関して判断してくださる方がおられるなら、Gさんを含め、ぜひ投稿を待ちたい、と思っています。

お礼日時:2006/10/17 00:32

ちょっと追加です。

ご質問の中のfunがどうしても気になっていたのでネットで調べましたら、funではなくfittinであるようです。fittin'ですね。であれば、意味がfunとは異なります。この場合、しっくりくる、ぴったりとの意味合いですから、より興奮したイメージが浮かび上がります。
ご確認ください。

この回答への補足

ネットで???

新たにこの投稿をお読みになる第三者のために、念のため繰り返しますが、私が質問中で引用した箇所、および質問タイトル中の“let her go”は誤りで、正しくは"let herself go"でした。
「自慰行為」とのことです。

が、今回のご指摘、fun ではなくて fittin'とはなんのことでしょう?
草稿との異同があるという話ですか?

ちなみに、私の手元のペーパーバックでは、まさしく"fun"です。
ちなみに翻訳では:
a)「楽しみでもあった」(龍口)
b)「楽しみでもあることを知った」(大久保)
c)「楽しいことでもあった」(高見)

補足日時:2006/10/13 19:43
    • good
    • 0

やはり疑問視されたようですが、一度ネイティブの意見を求めてみてください。

もちろんこれはエロ小説ではなく、この女性の心境を描画するにあたり極めて自然な表現で本来難しいものではありません。無論その当時のことですから、euphemistic的表現であるため、飽くまで読者がどう解釈するかによって変わることもあろうかと思いますが、全体の流れで考えてみると自慰を指している事は明白です。
寂しくてたまらなかった。
彼の事がで頭が一杯で夜寝られなかった。
でも、彼の事を考えるとfunの気持ちにもなった。=彼のことを考えて興奮したとの意味です。
だから、その興奮を解放することで気分が晴れた。
若い女性で興奮を解放する手段とは?

私はそもそもliterary worksは原語で読まぬとtoo much is lost in translationと感じるので、翻訳モノは読みません。やはりこれが翻訳家の限界かと思います。分かっていながらこのような刺激的な部分を柔らかな解釈にしてしまったのか、を知りたいところですが、責任は重大でしょう。
私は、翻訳を手伝うような仕事もしていますが、予想外に翻訳家の英語理解力は高くないのです。一方、彼らに求められているのは、日本語での表現能力ですから、このようなミスは仕方ないでしょう。両方のスキルを持ち合わせている翻訳家は本当に限られていると思います。
でも本音を言うと寂しいですね。こんな事をするなら超訳しちゃった方がマシかも知れません。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

なるほど、じつに良く分かるご説明だと感じます。
ありがとうございます。

chunterさんは、「原語で読まぬとtoo much is lost in translationと感じる」そうですが、私は英語力がおぼつかないので、原文だけだと、いわば much MORE lost ということになるし、時間もかかりすぎるので、複数の翻訳書を読み比べながら作品を享受しています。モノを比較する楽しみも捨てがたいので、私にはコレが一番なんです。

お礼日時:2006/10/13 20:11

Gです。

 お礼でのお言葉ありがとうございました。

>この作品を、Date Rapeの物語として読むのは、きっと、きわめて現代的なアプローチなのでしょうね。

Date Rapeの物語、と言うのではなく、それをこの物語に含めている、と言う事なのです。 

>むしろ、私は、一種"神話"的な男女関係が、詩的な反復を多用した文体で描かれることで、比類ない質の表現を得たのだ、という風に読み、ジンとします。

私はその感想は大変いいと思います。 作品が読者の何かポジティブなものを掴んでもらえると言う事は作者にとってもいいことだと思いますし、他の人が正しいとする感想を持たなくてはならないと言う事は決してないと私は心から信じています。 感想に{定説」はないのです。

>あと、私の勝手な感想かもしれませんが、作家の自殺の問題や批評の蓄積については、25歳の青年が書いたモノを読む際に、あまり関係が無いように思います。

ないでしょうね。 この部分は、この作品とは直接関係のあるものではなくただ私個人のヘミングウェイと言う作者と全体的に見たときに、私の残り少ない年月を気にしていると言う事もあるでしょうけど、マクロにものを見るときとマイクロにものを見る時もあってもいいのではないかと思った意見なのです。

>もっと正確に言うと、そういうことを考え合わせながら読むと、いわば“全体を知っているがゆえの錯誤”に陥りそうな気がするのです。

私もそう思います。

>ヘミングウェイが25歳だったこと、1900年代初期、そして出版の困難さ、せいぜい、コレだけで“装備”は充分だと思うし、その程度の知識でさえ、作品を読むときには忘れ去っている。

これにセックスに関しての彼の姿勢も入れていただくと「装備万端」と言う事になると思います。

>読めば読むほど、身が軽くなっていく、そんな気分で私は作品を享受しています。

エンターテインメントとして読むこともそれなりにいいことだと思いますし、人によっては、この作品を一種のエロ本として読んだ人もいなくはないはず、と私は思うのです。

>しかも、「自慰」のことなんですね? だとすれば、どの訳者も的外れだということになりますね。
>女性の自慰について文書を公刊できるような状況はまず無かったのでは? また、そうした(かならずしも常識とは言えない)知識をヘミングウェイは、大胆に書きこんだわけですから、たいしたモノだということになる。

私もこの事は忘れていました。 でも、なぜ私が、一度は出版されたにもかかわらず、そのときに一緒にひとつの本として出版されたほかの2つの短編は2年後に再版されたにもかかわらず、この作品は出版者が再版を拒否したと書いたのがお分かりだと思います。 

表面からは「読み流す事も出来る」文章で書かれているために気が付かない事でも、セックス・愛に関しての「きわどい」ともいえる表現がされていると多くの人が感じる作品だからなのです。 セックスを本題にしているのかも、と言う姿勢でこの作品を読んでみればなぜ出版されなかったのか、本意が隠されているいるとしても、これに気が付けば「明らかにまずい」と出版社や私のように人間の言う感想は理解できると思いますし、その時代の事を考えれば、「公刊できるような状況」ではない、ということになり、事実再版しなかったわけです。

しかし上にも書いたように、どんな作品でも読者にはどのように読もうと自由である事は作者自身認識されている事です。 私の「私なりの」回答も同じですね。 

私の持っている個人的感想を押し付けるつもりは毛頭ありません。 ただ、英語カテと言う場所ですので、私の個人主張によって英語でかかれたものの裏表を理解・解釈する為のヒントとして受け取ってもらえたらうれしいと感じるのです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

いつも長文で温かいご意見をお寄せいただき、ありがとうございます。

この作品のエロティシズムということが盛んに話題になるので、つい「チャタレー夫人の恋人」(未読ですが)を連想したんですが、むしろ、「チャタレイ」(1928)のほうが、5年ほど遅いのですね。
これも、ヘミングウェイのパイオニア的ポジションを認識させるものだと思います。

お礼日時:2006/10/13 20:21

これは確か、If she let herself go it was better. じゃないでしょうか?



自慰の事ですが。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

そうです!
訂正をしていただきありがとうございます。

"let herself go"――これが正しい原文でした。

しかも、「自慰」のことなんですね?
だとすれば、どの訳者も的外れだということになりますね。

まあ、当時、女性の自慰について文書を公刊できるような状況はまず無かったのでは? また、そうした(かならずしも常識とは言えない)知識をヘミングウェイは、大胆に書きこんだわけですから、たいしたモノだということになる。

お礼日時:2006/10/12 23:13

Gです。

 こんにちは!! また、私なりに書かせてくださいね。

まず、もう一度私が書いたことを思い出してください。 この年代でのセックスに関しての考え方ーFirst American Sexual Revolutionを作り上げた一人である、と言う事を。

この作品は1920年代に最初にフランスで出版されましたが、同じ本に含まれたもう2つの短編はすぐに再版されましたが、この短編は1930年代までされませんでした。 なぜだと思いますか? セックスに関して当時出版社はNGを出したからなのです。

今でこそDate Rapeと言う単語が出来その犯罪に関して携わっている私ですが、こちらの大学でこれを読まされたときにはまだ50年しかたっていなかったので分かる気がしました。 この作品でもこの(Date) Rapeが含まれていたわけです。

「時代物」を読むときにその時代の文化的背景をよく考えながら読む必要と、今までどのような批評がなされてきたのかを知ることで初めて文章のフィーリングを感じることが出来るのです。

今回も同じように、これを、現代の文章として読めば高見氏の訳は自然でしょう。 しかし、短編であるからこそ、一文章、一節、一単語をよく吟味しなくては作者を意図をも含める翻訳と言う仕事は出来ないと私は考えるのです。

前回の「全裸で体を洗っているのを見た場面で、火焼け(??)した部分とそれまで隠されていた、肌そのものを感じさせる部分、が引き出せる性的描写」と同じ表現方法をしていると感じませんか?

ヘミングウェイのその時代の「隠されたともいえる」(現代ではそれほどの「衝撃を与えない」ので)セックスシーンをどのようにして今日の翻訳者が日本語で表現するのか。 龍口氏はわかっているように思えます。 (もちろん私は今回の機会まで彼を知りませんでしたし、2-3度の例だけでは判断できないでしょうが)

feel funnyが前回ありましたね。 今度はit was funと言う表現をしています。 辞書の訳ではとてもこのフィーリングをぴったり出した日本語にはなりませんね。 

という事で、出版禁止(出版社の拒否)になった短編である事も考えると、(1)&(2)の訳の方が作者のフィーリングを出していると私は感じます。

一度自殺に失敗した彼が数年前にはノーベル賞さえもらってパルツァー賞を受けたまでのtalentをその数ヵ月後にはお気に入りのショットガンでの自殺を遂げました。 多分想像できないなと思いますが、ショットガンでの自殺ほど「今まで体を生かせてきた頭脳を確実に再生不可能」にするものはありません。 しかし、難しい単語を使わずに誰にでもすぐ読めそうな文章を使い、フィーリングを「文章の組み合わせ」で表現した物として、私にはフィーリングと言うものがいかに英語理解ないし解釈になくてはならない物なのかを「口うるさい教授」に洗脳されたと言ってもいいと思います。 そしてその「教材」がヘミングウェイだったのです。 35年以上前の話です。

これでいかがでしょうか。 分かりにくい点がありましたら、補足質問してください。 
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご意見を寄せてくださいまして、ありがとうございます。
この作品を、Date Rapeの物語として読むのは、きっと、きわめて現代的なアプローチなのでしょうね。
むしろ、私は、一種"神話"的な男女関係が、詩的な反復を多用した文体で描かれることで、比類ない質の表現を得たのだ、という風に読み、ジンとします。

あと、私の勝手な感想かもしれませんが、作家の自殺の問題や批評の蓄積については、25歳の青年が書いたモノを読む際に、あまり関係が無いように思います。
もっと正確に言うと、そういうことを考え合わせながら読むと、いわば“全体を知っているがゆえの錯誤”に陥りそうな気がするのです。ヘミングウェイが25歳だったこと、1900年代初期、そして出版の困難さ、せいぜい、コレだけで“装備”は充分だと思うし、その程度の知識でさえ、作品を読むときには忘れ去っている。読めば読むほど、身が軽くなっていく、そんな気分で私は作品を享受しています。

お礼日時:2006/10/12 23:08

高見氏の解釈に賛成です。



"it was better" は、 "but" をはさんで、 "It was awful" と対照をなします。
"let her go" を 「このまま」 のニュアンスでとらえ、直前の文とのつながりをかんがえるならば、 "let her (self) think about him" の意味になり、 「心ゆくまで彼のことを考えているほうが」 のように解釈するのが自然だとおもいます。

「身をまか」 すという解釈は、 "let her go" のところだけをみればたしかにそうも読めますが、文のつながりが飛躍してしまううえに、作品全体からも、このとき彼女がジムに 「身をまか」 せたいとおもったわけではあるまい (すくなくとも意識においては)、とわたしは感じました。

余談ですが、 squashing さんの影響で、龍口訳の短編集 「キリマンジャロの雪」 (角川文庫) を買ってしまいました。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご意見をありがとうございます。
たしかに、高見訳は穏当な気がしますね。
(ただ、それだと読んでいて、なんとなく面白くないんですけど)

もしも(1)、(2)のように訳すなら、仮定法でなければオカシイように思う……
また、ご指摘のとおり、「身をまか」すという話題が、ここで出て来るのは、ちょっと唐突なんです。

ともあれ、角川文庫をお買い求めになったとか。
貢献者たる私に、角川のほうから、いくばくかの報奨金でも入らないかな……

お礼日時:2006/10/12 00:56

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!