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今書いている小説の一部で、どうしても疑問に思い先に勧めることが出来ませんので、お尋ねいたします。

私は手首のトレーニングのため、剣道の経験はありませんが、家で木刀の素振りをしていたことがあります。

そのとき、木刀を腰に構えた(鞘にさしたイメージ)状態から、落ちてくる枯葉を抜き打ちに撃つ、という遊びをしていたのですが、父親から、「現実の刀は鞘から抜き払うという動作がいる。お前の振り方では、刀なら鞘を割って指を落としてしまう」と指摘されました。

なるほど、本物の刀を持ってみると、これは「抜き払う」という作業だけで一動作必要で、「抜きながらそのまま斬る」ということは不可能のように思われます。

居合用の刀を見ると、かなり短く鞘から抜きやすそうな形状ではありますが、やはり「腰から直接振り出す」ことは難しいように感じました。

テレビなどで居合を見ていても、案外想像したよりはゆっくりした動作のように感じます。(型を行っているため、わざとゆっくりなのかも知れませんが…)一度抜刀してから、あらためて斬る、という動作しか見たことがありません。

これでは、例え間合いの中に敵が入ってきても、例えば相手が腰に拳銃を挿している場合、拳銃を抜いて撃つまでの時間に抜刀して斬る、ということは不可能のように思えてなりません。

本物の居合、あるいは抜刀術というのは、小説などに出てくるような「
抜く手も見せぬ」というほどの高速のものではないのでしょうか?

それとも、私の考え方がどこかで基本的に間違っているのでしょうか?

ご存知の方がおられましたらお教えください。

A 回答 (14件中1~10件)

伝統居合いをしています。

 そして仕事柄拳銃捌きもしています。 私のプロフィールを見ていただけばイメージできるかもしれません。

なんでもありの空手を教えているわけですが、真剣を使える人とは絶対に戦うことを避けます。 そして、拳銃の「速射」を専門にやっている人とも戦いません。 一兆分の一のチャンスしかないリスクを負うわけにはいきませんからね。 <g> もう少し生きていたい私です。

抜刀というものを前にいる人間を一気に殺すために実際に練習する私たちは鞘の「筋」と手首等での動きにマッチすることで抜刀のスピードを何倍にも上げることができる事を知っているつもりです。

また、これは拳銃による速射でも同じことです。 こちらの速射はただの「早撃ち」とは次元の違うものです。 腰から直接狙いを定めると同時に引き金は射線を崩さずに狙った相手を殺します。 はじめこの訓練を受けたときにこれほど「居合い」の精神に似たものはないと感じました。

つまり、確実に人間という生き物を、相手は何も感じないままに、「殺す」のです。 空手の「殺し」とはまったく違う次元ともいえます。 武道家として一生に何度かは通り越さなくてはならない精神的トンネルです。 それも何の光をも持たずに通り抜けなくてはならないトンネルですね。

刀身は鞘から抜けなくては何もできませんね。 そのためには手で鞘筋に沿って刀を押すと同時に鞘も縦から横にすると同時に腰で引くことで切っ先が少しでも早く鞘から外れることになります。

後はどうそのときの腰の位置(高さ)を利用するかということに横一文字になるかそれとも切り上げるかが決まってきますね。 決まってくるからこそ相手には悟られないようにしなくてはならないしそのためのスピードも磨かなくてはならないということにもなります。

人を殺すためにスピードというものを大事にする私が属する空手流派の教えがこの人を殺すための居合いと速射を習得することに大きなポジティブな影響を与えたことは確かです。

体の決まりきった場所に置く刀を決まりきった刀身の動きをまた決まりきった場所に相手を置くようにすることで体が、特に右手と腰の動きに必要な筋肉が訓練されるわけで、これを目的にする訓練をすれば一瞬にして相手は殺されます。

だからこそ私は真剣を使える人とは戦わない、ということになるわけです。 

ナイフや拳銃をものともしない護身術を教える私がそう感じるくらいに本当の怖さを私自身が知っているつもりです。 

速射について知らない人にご説明します。5メーターはなれたところに立てた棒の先にトランプを横に(つまり撃つほうからは柄も数字も見えない)向けて設置しておいて、腿の横においておいた手が動くと同時に拳銃の弾はその横に向いているトランプを真っ二つに切り裂いているのです。 これが速射の実力です。 それも世界のトップでなくてもやるのです。

拳銃と刀の比較ではないと何回もおっしゃっているところにまた書いてしまい申し訳ありませんが、抜刀の理解を速射の事実を知ることで高まるのではないかと思い実際の経験から書かせてもらいました。(もちろん、人は殺していませんので、そのほうの実際の経験はまだです<g>)

これでいかがでしょうか。 分かりにくい点がありましたら、補足質問してください。 
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この回答へのお礼

まさに、私が求めていた回答をくださり、心より感謝
申し上げます。

プロフィールも拝見いたしました。なるほど、「現場」に
いらっしゃる方の率直なご意見なのだなあと拝見させていただき
ましたし、おっしゃることもストンと腹に落ちます。

速射の記述につきましては私がケーブルテレビのドキュメンタリーで
みたものとほぼ同じで、「真剣を使える人と速射をやっている人とは
戦わない」というのは、実践護身術をされている方ならではの
シビアな現実的ご意見かと素直に拝聴いたします。

「何の光をも持たずに通り抜けなくてはならない精神的トンネル」
という表現は、素晴らしく的確で印象深いものかと感銘を受けました。

どうもありがとうございます。

お礼日時:2006/10/24 10:05

Gです。



#13のkumosukeさんの一最後の言葉「僕自身が誤った認識に立っている可能性もあります。」除いてすべて、武道とは身体と精神とのつながりを考えると、当然ともいえる真実です。 この考え方がなければ、「武道がスポーツではなく」「武道が人の道」「武道とは自分のすべてを信じることから始まる」「武道とは毎日使うもの」「武道とは以下に自分の身体と精神の向上を目標としている」「武道とは人間であることへの証」など私が言っていることはまったく理解できないはずだ、と言うことなのです。

武道の教えをちゃんとやればスポーツも一人前以上のことは必ずできる、と言うでもあり、モチベーションとしての精神的サポートでもあり、また、根本的向上を目指すアスレチックトレーニングでもある、と言うことが私の人生そのものを変えて、アメリカ人を教える立場にいることができるわけです。

日本の武道がなぜSWATで使われることも至極当然なことでもあるわけです。

武道をスポーツ化し、踊りを教えるだけで自分はぶどうをやっていると言う人たちから見たら武道をいつまでも知ることはなく、知ったとしても経験に基づかないうわべだけの知識だけとなり、また、奇麗事の言葉だけのものとなり、結局「信じられない能力」と言う判断をしてしまうことになるわけです。

甲野氏がおっしゃっている事は武道を武道として扱うことを「教えられてきた人たち」には当然で自然な真実として「別に新しい」ことではない、と言う認識を持っているはずです。 ただ、その教えを受けている人が現在の日本ではあまりにも少なすぎる、と言うことなのです。

はっきりと、打つ、蹴る、斬る、などの「武道の技」を何のために習うのか、なぜ、同じ人間である相手を一瞬にして「殺せる」実力を持とうとするのか、どれだけの自称武道家の人たちはわかっていると言うのでしょうか。

殺せる実力を持つための訓練はすなわち自分の生まれ持った能力を認識しさらにそれを向上させることであるということさえしっかり弟子たちに教えるだけ(第一章)で、どんなスポーツをやるにしても、どうやって自分の弱点を見つけ、なぜその弱点が自分を延ばすことへの壁になっているかを知り(身体的なものでもあるし精神的なものでもあるわけですね)どうやってそれをこなし、どうやって自分を伸ばしていくことができるかと体で感じることができるようにするのが結局武道と言う「訓練方法」なのです。 武道とは何かを達成するものではなく、達成の仕方、とも言えるわけです。 ですから、死ぬまで自分を向上させるということでもあるし、向上させることができるわけです。

武道と言うものがどういうものなのかを感じ取り始めるのに何十年かかるかは人によって(先生によってと言うことでもありますが)違うわけですが、人は勝手にこれを「悟り」なんていう表現をすることになるわけですが実際には「気がつく」と言うことに過ぎません。

よく型に隠された秘密を見つけた!などと喜んでいる人を見ますが、その「秘密」を聞いてみるとちゃんと先生から教えられているべきことに過ぎないのですね。

ちょっと話がそれましたが、それだけ人間には真の武道を使う人が「信じることのでき」、使わない人が「信じにくい」能力を持っている、と言うことで、今回のご質問に何かまた新しい角度でものを見るようになり、「武道を信じる」様になってほしいと思いまた書かせてもらいました。
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この回答へのお礼

なるほど、「武術はスキームである」とのご発言と
承りました。

本格的な武術の修行を積んでない自分には理解しようのない
世界があることも、おぼろげながら見えてきたような気がします。

物を書くということは直感で捉えることであり、
世に言う「信じられる」「信じがたい」といった常識に捉われる
ことはないよう努力してきたつもりですが、
やはり実践なさっておられる方からすれば、まどろこしい、
もどかしい中途半端な理解しか私が出来ないであろうこと、
多数のご回答をいただきながら、感謝すると同時に申し訳ない
ような気持ちで一杯です。

拙い質問ではありましたが、回答者の皆様のおかげで、
この項目も多くの人が読むに値するコンテンツとなった
ように思われます。

私も古武術に対する認識を改め、もう一度勉強しなおして
みたいと考えております。

回答者の皆様、真にありがとうございました。
また、ご縁がありましたらご指導を仰げればと存じます。

お礼日時:2006/10/29 16:37

No.12のkumosuke32です。

早速のお礼ありがとうございます(ちょっと変な文章ですね(笑))。お礼に気になる書き込みがあったので書いてみます。

 >ただ、あまりそこに力点を置きすぎてしまうと、
「武術はスポーツより優れている」というような短絡的発想に
陥ってしまう危険もあるなあと思うのです。

 とのことでしたが、それについてちょっと付記します。
  甲野氏に限らず、優秀な武術かの方の話に良く出てくるのは、優れた超一線級のスポーツ選手は武術的な動きをしているという話です。
 飛龍会の伊藤昇という方が、もうお亡くなりになっているのですが、いまして、彼の元には総合格闘技のパンクラスのライトヘビー級の現チャンピオンである近藤有己選手や極真空手の何派かは忘れましたが、マッハ蹴りの塚臣選手とかが教えを請うていた程の武道家ですが、彼の著書にもあるように、マイケル・ジョーダンやタイガ-・ウッズ、そして、あれは能でしょうか?玉三郎という方にも優れた武術の動きが見られると言っています。能とか中国の京劇を見て、武術と通じるという人は結構多いです。伊藤昇氏は玉三郎に後ろを取られて「今、私は殺されていましたね。」のようなことを言っているぐらい見事な体裁きなのだそうです。甲野氏もマイケル・ジョーダンを同じように評し、中国の卓球選手で世界選手権を何連覇かした人の足裁きはスポーツのそれでなくて武術のものと言っています。イチローにも多く見られるそうです。
 スポーツは主に西洋的な身体操法ですが、日本では失われつつある東洋的な身体操法は、実証性の高いものを紐解いても、見事なものが民間レベルでもあります。いわゆるナンバというものでも、それを研究する剣道家が西洋的な中心軸の動きを捨てて、外側に軸を置く二軸の動きに取り組んでいます。これは、西洋のトップレベルでも取り入れているそうです(ナンバということで取り入れているのではなく、優れた動きを追い求めた結果そうなるということです。)。

 つまり、スポーツでもさらに上を目指す人は必然的に武術的な動きになっていくということだと思います。武術とスポーツを本来分ける必要はないものなんだと認識できるのではないでしょうか。ただ、スポーツ科学というものが介在して、その理論を躍起になってしまったときに、己の身体感覚を磨くという作業がオフになってしまい、そこに至らなくなるということが現代に起きているのではないかと思います。ほかの分野でもありますが、いわゆるマニュアル主義というやつです。

 甲野氏の言葉で印象的なのは、スポーツはレクリエーションを元にしている、というものですね。武術は瞬間に生死がかかっている。その希求の違いが形として現れている部分があるというのが、今、甲野氏などがスポーツではありえない動きや、ありえない対処を可能にしていると言えると思います。

 こんなことを力説してしまう自分に恥ずかしさを感じていますが、僕はずっとスポーツに限界を感じていたんです。この間、K-1MAXを制したブアカーオは、本当に素晴らしい選手ですが、彼が佐藤嘉洋をKOしたシーンにもがっかりしていました。確か佐藤のミドルキックをキャチしてストレートでKOしたのですが、キャッチしてパンチを放つのに間が空いていました。単純に考えて、キャッチするのに身体を緊張させるのと、パンチを放つ、それも効くストレートを放つのに身体から力を抜くという力の使い方の違いのため、あの間ができるのだと自分なりに推測したのですが、あの間は戦場や多対一の状況では死を招くものだと思いました。
 スポーツでは体の流れに乗っている状況では速いが、そこから外れるととたんに遅くなるということがよく見られます。また、意外にこんなこともできないのかというものも多いと感じます。筋肉や骨格を元にした現在のスポーツの理論では人種による優位性をなかなか越えられません。
   
 スポーツの限界=自分の心の限界となっていたのですが、武術はその心のふたのいくつかを取り去ってくれ、世界の大きさと深さを感じさせてくれました。そういう意味では僕にとって大きな出会いであったと思います。

 でも、やはり、こういうことは自分で体感なりしてみないと納得はできないとも思います。僕自身が誤った認識に立っている可能性もあります。
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この回答へのお礼

やっておられる方ならではの、詳細なお話。
大変勉強になりました。

スポーツはリクリェーションの延長で発達したものであり、
武術は生死がかかったものである、という点から、
スポーツが見落としてきた多くの重要なものが
(スポーツ化していない)武術の中に存在する、という
ご主張に一点も反論するつもりはありません。

わたしはただ、「スポーツと武術はぜんぜん別のものであり、

動きの優劣=その存在意義の優劣

であるかのような短絡した発想に陥ることは防がねばならない、と
いいたかったのですが、私がいいたいことはご理解くださった上で、
あえてお書きくださったことだろうと拝察いたします。

もとはといえば他愛ない疑問でしたが、皆様方から想像を
遥かに超えた貴重なお話を伺えたこと、
大変感謝しております。ありがとうございます。

お礼日時:2006/10/29 16:31

No.5のkumosuke32です。

相変わらず甲野善紀氏の受け売りなのですが、皆さんとちょっと違うと思うので書いてみます。

 甲野氏と相対した人の話で共通するのは、甲野氏の動きが見えなかったと言っています。速過ぎて見えなかったのではなくて、死角に入ったから見えなかったからではなくて、我々の使う関節運動的な動きではないために、視覚で捉えても理解できないからではないかと甲野氏は言っていたと思います。武術の動きは関節的な動きというよりも細胞的な動きという話を最近していました(ちょっと理解が違うかもしれません)。細胞単位で動いているという話だったと思います。もちろん、骨や腱の制約はあるのでしょうが。
 達人になると現代の常識では計れない動きになるという話で、近代中国でも意拳のオウコウサイ(漢字、難しいんです。)という人の話は凄いです。人間業ではないなという感じです。

 甲野氏でも、先ほど書いた居合いの創始者でも、抜き身で切っ先がこちらを向いている状態では、普通に抜刀しては間に合わないと考えていたようです。「カムイ伝」で有名な白土三平の解釈では、鞘内にある刀の長さを計られないというメリットを取り上げていましたが、本来は追いつめられた状況を設定した上での技術と捉えた方がよさそうです。
 僕の私的な解釈で質問者様にも他の方々にも申し訳ないのですが、”抜き”と”切り”が一拍子でも、抜き身の突きには間に合わないというような極限状況の技術、相手のほうが抜き身で刀が長いというときに鞘内の短い刀でどう対処するかという極限状況に対処する技術、不可能を可能にするものが本来の居合いだったのかなと思います。先の状況において甲野氏は動きの質を変えた武術的な動きによるのではなく、不安定を利した動きで持って対処するのですが、これを見た居合いを長年研究している人が非常に感銘を受けたとありました。甲野氏に関わる本に載っていたので周囲を説得する力のある情報ではないかもしれませんが。でも、まぁ、この抜刀の動きを元にして甲野氏はプロ野球両リーグの誰よりも早いモーションで牽制球を投げて、桑田真澄選手を「笑うしかない」という状態にしたのですから、それでも、スポーツ的動きより速いということなんでしょうか。

 この二つの相手に見えない・捉えられない動きと、スポーツ的筋肉運動よりも速い動きが組み合わされば居合いというものが、ただの抜刀術ではすまないものになると思います。甲野氏自身が過去の達人に比べれば遥か遠い動きと言っているもので、これですから、居合いの達人の凄まじさはかくやという感じです。

 甲野氏の言っているような動きの工夫を日ごろしてみると、武術的な動きの世界の一端に触れられるように感じます。居合いを考える上でも試してみる価値はあるかもしれないです。
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この回答へのお礼

甲野氏についての補足、ありがとうございます。
「動きが見えない」という部分については、フェイントや
ギミックなどというレベルではなく、想像するに

武道家やスポーツ選手は普段から相手の動きを「パターン」として
認識することによりすばやく情報処理を行い、次に起きることを
予測しているからこそ常人には見えない素早い動きが「見える」し、
的確な対応が出来るのでしょう。パターンとして認識処理できない
動きに対しては、当然それが「見えない」

というようなことではないでしょうか。

「関節的な動きというよりも細胞的な動き」という表現が、
感覚からくる文学的表現なのか、それとも私のような凡人には
理解できないような物理学的事実に基づいたものなのかどうかは、
想像すらできませんが…。

桑田真澄選手に関して言うと、たしか甲野氏は「50歳まで現役が
できる」というようなことを仰っておられたようです。
ただし、公平に見ると

「笑うしかないという状態」

の境地にまで桑田投手がなれたかどうか、今春の動向が
注目されるところであると思うのですが。
(確かに成績を無視すれば、50歳まで現役続行は可能でしょうが
プロ野球という結果を求められる現場でそれが許されるかどうか…)

武術を語る上において、近代スポーツ力学理論のみに縛られて
いてはいけない、狭い常識に捉われてはいけないということは
重々肝に銘じております。また、それと同時に、武術家もしくは
武術のむやみな神格化、伝説化も避けるべきだと考えています。

仰るとおり、甲野氏の言っておられる動き、たとえばわざと
ダメージなしに転ぶ方法、倒れている人間を楽々と起こす方法、
なんば歩き、一本歯のゲタで高速歩行…などなどについては、
従来の常識を覆す(というより、忘れられていた人体行使の
ノウハウの復活と開放)素晴らしいヒントにあふれていると
思います。

ただ、あまりそこに力点を置きすぎてしまうと、
「武術はスポーツより優れている」というような短絡的発想に
陥ってしまう危険もあるなあと思うのです。

ある意味、「刀と銃」の比較よりもさらに無意味な比較になって
しまわないよう、文筆家としては心しなくてはならない部分です。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/10/24 10:28

No.9です。

鹿児島で勤めていた際、薬丸自顕流を習っている知人がいました。
彼の「切り上げ」は非常に速く、柄に手を掛けたと思ったら切り上げていました。
気になってWikipediaを検索してみましたが、薬丸自顕流は抜刀術も凄まじかったようですね。
よくよく考えてみれば、「一刀必殺(?)」の薬丸自顕流だから、抜刀術に力を入れているのも当然ですね。
では、又の機会に。

参考:薬丸自顕流(Wikipediaより)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AC%E4%B8%B8% …
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現役で居合道をしていますが、宜しいですか?


他の回答者様のご意見を見ていないため、被っている点はご了承下さい。

居合というものは、一般的に精神修養と言われますね。
どういう事かと言いますと、敵を明確にイメージすることで集中力を付けるということだと、私は理解しております。

月並みな回答ですが、
「居合は敵と戦うものではなく、自分の邪念と戦うもの」です。
(戸山流居合道のように戦う事に特化した居合も有ります)
人を殺すことを前提としていないため、ゆっくりとした抜刀を行う流派も多く存在します。
要は敵をイメージし、それを振り払えば良いのです。

私の所属している流派などは、「するりと抜く」流派で、「抜く」と「斬る」が一拍子です。
勿論、未熟な者が抜刀すると、鞘を割ることが有ります。
他にも「水鴎流(すいおうりゅう)」が抜刀と斬りつけ一拍子です。
参考になれば、幸いです。
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この回答へのお礼

なるほど、居合道は殺人術ではなく精神修養行へと昇華されたものだ
というお話ですね。なるほどです。

居合道に限らず、どんな武道でも言えることだと思うのですが、
戦乱の世が終わって平和にまったとき、あらためて道としての
確立が進められるようで、その時代時代や指導者の考え方に
よって武術の主目的が変わって行くのはやむをえないことでもあり、
必然であるのかも知れませんね。

(個人的には、やはり実用として人を殺せなくなってしまった
武術と言うものには抵抗があります。自分の命を守り、敵を殺す
という機能と、それが本質的にどういうことなのかを理解し、
精神的葛藤や躊躇を振り払える訓練がなければ、いくら技術のみ
熟達しようと、それはスポーツであり武道ではないのではないかと
思えてならないからです。能力的に人が殺せる、ということと、
その恐ろしさ、重さに耐え、必要とされたとき毅然と瞬時に
それが実行できるということはぜんぜん別の問題であると思います。
武の本質に関わる重大事ですが、その部分がいま、
時代の変化や現代人の精神的軟弱化によってなおざりにされている
ような気がしてなりません)

とはいえ、仰るように「自分の邪念と戦う」ということは
非常に大切であり、武術の究極の本質のひとつであるということは
理解できるように思います。

ご意見ありがとうございました。

お礼日時:2006/10/24 09:57

 回答ではないですが、銃の熟練者なら銃を抜くときもはっきりいって「起こり」なんて見えなかったような・・・。

でたらめに早かったです(少なくとも初動に気づかなかった)。主観なのですが、多分居合いで「起こり」が見えないように抜く人より早かったように思います。居合い自体は詳しくありませんが、手や体全体を柔軟・かつ迅速に動かしても、基本的には刀を全部鞘から出さないと相手を斬れませんし、突発的状況(よく幕末であった浪人の乱入のような状況)ではないという設定ならやはり「銃は剣より強し」になりそうです。まあ、質問者様のおっしゃるとおり比較は無意味ですが・・・。一応古流剣術もやっており、不謹慎かもしれませんが、自分はアメリカにいたら居合いより早撃ちをやっていると思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。僕も、おんなじ意見です。
銃の早撃ち大会では、腰を前に浮かして背中を
後ろにそらすような姿勢の構えで、確かに初動なんて
感知できるようなシロモノではありませんよね。

古武道と違って、人間同士が気配を察知しあうものではなく、
ランプがついたら素早く反応する…という方式ですので、
おっしゃるとおり比較のしようがありませんが。

ごもっともなご意見、ありがとうございました。

お礼日時:2006/10/22 10:25

>居合で、鞘というものがなかったら、もっと早く刀を振れるとお考えでしょうか?



一人の居合いの使い手が居合とそれ以外の得意な技で比べたら、という意味でしたら、
太刀筋の制限もなくなりますから、たとえ左腰付近での脇構えに限定しても居合よりも早く振れると思います。

鞘に仕掛けがあるわけではないですから、鞘は動きを制限するだけものです。
一方で鞘という制約がなければ、初動を見せないという戦略と身体操作技術は育たなかったとも想像します。
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この回答へのお礼

ご意見、ありがとうございます。

刀と鞘、という組み合わせ。鞘がなくてはもちろん
刀を持ち運ぶことはできないわけですし、「刀を鞘におさめてある」
ということが、ひとつの「意志表示」であることも
理解できます。

お礼日時:2006/10/22 10:27

まず、居合という技術の「速さ」は、次のようなものです。


・動作の初動を悟らせない。
・動作の開始から最高速に達するまでの時間が(スポーツに比べて)短い。
これらは体の使い方によるもので、相手の認識を狂わせる効果があり、結果として「抜いた事が認識できない=抜く手も見せぬ」ことになります。

刀は刃を持ちますから、当てるだけでそれなりの威力を発揮します。ですから肩や胸の自由度(可動範囲と操作性)が十分にあれば、鞘から抜いた後刃が通過する面(空間)全てに有効となります。
(刃物は押し引きしなければ切れないのですが、運動する刃と肉体が当たれば押し引きは発生しますし、もし押し引きが発生しなければ運動エネルギーがごく狭い面積に押し込まれます)
また、刃の長さの分と手首の動きだけ、手の動きよりも刃先の動きの方が速くなります。

一方の拳銃の利点と欠点をあげてみましょう。
利点・刀とほぼ同程度の重量がコンパクトにまとまっている=とり回しが楽。
  ・簡単に十分な威力を得られる。
欠点・攻撃範囲が射線上に限られる=当たりにくい。
  ・引き金を引く際に射線がブレやすい=当たりにくい。
  ・抜いて、狙って(構えて)、撃つ、の3動作が必要。

結論として、格闘戦の距離での抜き合いにおいて居合(以下は刀だけでなくナイフなどを含む)が拳銃等の火器に勝る点は次の2点。
・拳銃が必要な3動作のうちの2動作目「抜いて、構えた」時点で居合は「抜いて、薙ぐ=攻撃する」ことができる。
・拳銃の有効な範囲はごく狭い射線上に限られるため、相手が移動すると当てにくい。

----------------------------
拳銃使いが「相手が抜いたのを確認してからでも間に合う」と思っているのであれば、居合使いが抜き始めていることに拳銃使いが気づいていない、こともありえます。
速度が同等で威力が必殺であれば先手必勝になりますから、相手の初動に気づかないことは致命的です(眼前の敵から不意打ちを受けるようなものです)。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

おっしゃることは、よくわかりました。

>・動作の初動を悟らせない。
>・動作の開始から最高速に達するまでの時間が
>(スポーツに比べて)短い。

そうですね。動作の初動を悟らせないというのは、非常に
実戦でも大切だと思います。

>「抜いた事が認識できない=抜く手も見せぬ」
なるほど、そういう風に考えると、居合というものが
理解できてきたような気がします。

誤解を受けたかもしれませんが、決して私は居合いよりも
接近戦において銃が優位である、などと考えているわけでも、
そういう議論がしたいわけでもありません。そもそも
刀対銃なんて比較が無意味ですし…。

で、ひとつお尋ねしたいのですが、たとえば居合で、
鞘というものがなかったら、もっと早く刀を振れると
お考えでしょうか?ご意見をいただけると幸いです。

お礼日時:2006/10/21 14:29

 No.2の方が書いていた甲野善紀という人は、喉元に剣先を突きつけられた状態からどうやって切り抜けるかというのを工夫して不安定を利用した抜刀術を編み出しています。

これを元にして元巨人の桑田真澄選手の前で両リーグ合わせても最速のモーションで牽制球を投げて見せました。桑田選手が肘の手術から復活して最優秀防御率を獲得したのは、この甲野善紀氏の身体理論を元にして投球フォームを練った(研究したではなく)おかげなのだそうです。
 
 筋肉によるのでなく、全身の異なる動きをひとつに瞬時に溜めなく発生させる、ねじらない、捻らない、うねらない(だと思った。ちょっと怪しい)という身体操作をするという、現代スポーツとは違ったものによるのだそうです。
 甲野善紀氏の抜刀はDVDで見れるので一度見てみられるといいと思います。派手さは無いけど、納得の動きというか、これは早いなと思えると思います。
 甲野氏の本でよく出てくるのが、抜刀術の開祖(名前忘れました)は、相手より長い得物で鞘うちから如何に抜き身の相手に対して形成を逆転するか、といったような課題を自ら科していたそうです。現代武道、古武術では、このように不利な形勢をどうして反転するか、という古来の稽古法はほとんど絶えているのだそうで、常軌を逸した動き,常識では不可能とされている動きというものを編み出せていないという内容でした。

 昔、現代武道・古武術の方の映像を見ていたとき、居合いでは親指を落としてしまうことが多いと武道家が話していたのですが、当時はそれを聞いてそんなものかと思っていたのですが、甲野氏によるとそうではないと。抜刀より納刀のほうが難しいのですが、甲野氏は暗闇でも簡単に納刀してしまって「昔の剣術使いなら当たり前にできた」と言っています。それぐらい今の常識とは、かけ離れた精緻な動きができるのです。武術的な動きの特徴としては、力と正確さとスピードが同時に高まるという点でしょう。スポーツでは力をつければスピードが落ちますし、正確さも落ちます。スピードを磨けば力が落ちますから。現代武道である剣道とも違う動きなのです。今、剣道では並足理論というのが出てたり、蹴らない動き(二つは同じものかもしれない)が出てきていますが、それは元々、剣術の動き、武術の動き、ナンバ的な動きとも言えるかもしれません。宮本武蔵の歩法と剣道の歩法は異なるんですよ。

 武術を含む東洋的身体操作と、現代武道的、スポーツ的動きは違うものなので、現代の常識的動きの概念では推し量れないものがあるのが古来の抜刀術なのだと言えると思います。
 甲野善紀氏の本を一読なさると抜刀術というものが如何に廃れたかわかると思います。時代劇俳優では、なし得ない動きなのでテレビは参考にならないですよ。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

甲野善紀さんの著書は読んでいませんが、あるドキュメンタリー
番組で甲野さんの動きは拝見したことがあります。

古武術が現代武道(いわゆるスポーツ武道)の常識では測れない
のは理解できています。

しかしながら、いくら古武術であろうと超能力をつかうわけでは
あるまいし、人間の骨や関節の構造が変わるわけでもありません。

やはり、人体は骨格に沿って筋肉が収縮することにより動きを
発するのだし、重力や慣性といった物理法則に則った動きを
することも間違いないでしょう。つまり古武術が現代スポーツ力学
で測れないのは、現代スポーツ力学にない着眼点と目的
(生き残る)からの発想と訓練法が異なるからではないかと
思いますし、遠い将来は合流すべきものではないかと思います。

わたしが「テレビで見た」と書いたので、時代劇などと
思われたのかも知りませんが、私がみたテレビ番組は、
ドキュメンタリー系の、本物の武術家の映像だけです。

時代劇の俳優の動きは、「殺陣」ですから、あれが本当の
人を斬る動作と異なるくらいは、わかります^^

甲野善紀という方のDVDや本を一度きちんと見てみようと
思います。どうもありがとうございます。

お礼日時:2006/10/21 12:19

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