「真の自分」は理性か?感情か?それ以外か?それは真実在か?
似たような質問の繰り返しで恐縮です。
「真の自分」という言葉は、自分自身の、内的自意識・魂・こころ・人格、それらの概念をすべて含む
ものと考えてください。(どうも「真の自分」をぴたりと言い表せる言葉がないです)
みなさん、自分の「真の自分」を考えたとき、それは理性だと思いますか? 感情だと思いますか?
それとも両者を従える超越者だと思いますか? 「真の自分」は真実在だと思いますか?
それとも物理化学現象が作り出す幻影だと思いますか?
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「覚醒の炎」プンジャジ著、「あるがままに」ラマナ・マルハシ著、「アイアムザット」ニサルガダッタ・マハラジ著
この3冊を読んで見てください。人生のあらゆる問いの答えに決着がつきます。お勧めです。
私たちの本性は、外面でもなく内面でもない。時間も空間も超えています。それは私たちの傍に常にあった。疲れることも悩むこともありません。私たちは、生まれるたこともなく死んだこともなかった。私たちの本性を、この身体だと同一視することから人生の苦悩が始ります。
あなたの考え方は二元論ですね。これだと最終的な決着には辿り着きません。いやすでに解決しているのですから、すでにその場所にいるのですから辿り着くというのも間違いですね。
「自分」というものがあると思っていることが間違いです。「真の自分」も間違いです。
実在でも、非実在でもありません。理性でも感情でもありません。時間も空間も存在しません。心も存在しません。それらは、自我が創り出した幻想です。自我自体も幻想です。自我はどこから来たのでしょうか。
少し難しいですか。
問いを出してみますね。
「一羽のカラスが鳴きながら飛んでいきました。その鳴き声はどこから現れたのでしょう。そしてどこに消えたのか。」
「両手を叩くとパンと音がするでは片手の音はどんな音か。」(禅の公案)
二元論だと答えがでないでしょう。
私は誰か。これを見ているのは誰か。これを聞いているのは誰か。と常に問うてみてください。
私は誰か。この問いは、どこから現れますか。そしてどこに消えますか。
私・・・は・・・誰か・・・。どこから現れますか。それがあなたの本性です。
私は誰か。という問い自体には意味はありませんよ。
どこから現れるかが問題なのです。このことが分かれば私たちの本性は永続していることに気付きます。
そのことに早く気付いてください。
こんにちは。
テーマがおもしろそうなのでちょっと混ぜてください。
他の人の意見が多すぎて全部読めないので、同じこと書いてる人がいるかもしれません。
以下独断と偏見です。
僕の意見としては、真の自分は、感情と理性が一致する自分、と思います。
こうやってものを考えてるとき内面を考えてる時って集中力が少し落ちている、と感じませんか?
集中度が低いときは、人の内面は分裂します。
でも人が集中の度合いが上がると、特に単純に集中するのでなく、集中の質が深くなると、分裂してた人格が統合されます。
つまり、「自分は今感情であり、同時に理性である」という自分が存在します。
それは普通の場合、何か事情があって、極限の集中を迫れている場合ですが。
それは意志で行う集中ではなく、無意識部分の目に見えない集中のことです。
とても広い視野の広さや、客観視、深い感情移入などの状態は、単純に的に集中する集中力と違って、極めて質の深い集中で、環境や、自分自身の世界に対する解釈などで、この普遍的な無意識の集中度が質が上がると、人間の感情と理性は、全く同時に存在するようになる、と考えてます。
そういう経験はありませんか?
それは、この世に生きる人間にとっては、ある極限状態での話しですが、
でも、悟りや信仰、というのは、この集中が、自分の、自分自身や世界に対する解釈の変更によって、全く自然に維持される状態だ、と思ってます。
別の言い方だと、恐れ、と言う集中を乱す心理が無くなるので、自動的に精神は極限まで集中し、元々の自然な状態である、理性と感情の同時存在状態になる、と思います。
初めまして、偶然通りかかったお馬鹿ですが、興味がある(だけで素人です)のでおじゃまします。
回答もお礼も今は混乱しそうで(だったら回答もするなですが)目を通してなく、本当に学がないので、ある意味こざっぱりと、ざっくりと思うままに言いたいこと言って逃げます(滝汗)
後で心穏やかにじっくり参考にさせていただきます、勉強しますが、既出の回答にあったら失礼しました。ご了解のほどを…。
物質的な自分とは皮膚の内側の組織とか細胞、体液ですよね。でも「外側が本当の自分:個としての血肉」じゃないか?と考えます。
肉体は自然が作った創造物です(意思によって選択出来ません)が、自分が自分で育んだ経験、精神が「自分らしさ」なら、それに影響されている外界が自分だと思う。
最近では「出生前心理学」というものもあり、無自覚(無明)な胎芽のときに既に自分の心理・運命さえ用意されているというのです。
自分の内側はホルモンや自律神経が司っていますが、これが意思ではなく、自然が感じるように、命足りえるように成長(老化)させるべく与えたもので、自分の肉体でありながら努力の及ばない神の領域で自分の責任ではないになってます。
けれど、自分の意思、忍耐、努力で影響を及ばせれる、捉えどころは知覚神経や感覚神経です。環境で好くも悪くも発達したり、生き方の癖が成長しますね。
生まれる以前からの環境に既に自分が用意されていて、試されるのを待っている。それが自分の世界なのかと思います。
外と内をひっくり返した人(臓器が皮膚の外側、感覚器官と皮膚が内側)そんなキモイ人がいたとして(怖)、その人が自分らしさ、個としての価値観を主張したり、見出せるでしょうか?だから…えっと…その…あの…
御清聴ありがとうございました。失礼します!ピュー(逃)
「真の自分は…」という前に真の自分と真の自分ではないものとを比べてみてください。それに境界線があるでしょうか?、物理的世界で考えれば脳神経細胞と電気信号の旋律です。感情というのは脳の化学物質の変化によって引き起こされるのだそうです。ですからそれは時間が作り出した物理的変化に過ぎません。真の自分とは何か、それは人間が作り出した言葉であり基本的には存在しません。ですが、精神世界では別です精神世界の中で私達はいろいろなものを目で見て耳で聞いています。その情報を頼りに違いを判断しています。光は光の無いところから生まれ、音は音が無いところから生まれます。あなたが真実だと思い込んでいればやはり真実であり、それは真実が無いところから生まれたのではないでしょうか。ユリゲラーは言います「自分の真理を信じればそれに合わせ世界は変化する」超能力研究で有名なユング派の超心理学者はこの事を科学的に研究しています。僕が考えるに自分が何を真実とし、何を反真実とするかによって精神的にも物理的にも自分は変化するのではないでしょうか。
この回答へのお礼
timetimeさん、回答ありがとうございます。お礼が遅れて申し訳ありませんでした。
>自分が何を真実とし、何を反真実とするかによって精神的にも物理的にも
>自分は変化するのではないでしょうか。
「神は存在するか」「人間に自由意志はあるか」これらの問題にどう答えるかで
生き方も変ってきますから、そういう意味では、このお言葉は正しいと思います。
人間の肉体という「物質」の動きを左右するわけですから。でも、たとえば「人間には
超能力があって、その力は(手や道具を使わずに)周囲の物質現象を変化させる
ことができる」というような意味だとしたらそれは、誤りだと思います。(いまのところ)
精神世界は実在するか。精神世界は物質世界に対して力を及ぼすことができるか。
結局、物理化学法則を超越した「人間の自由意志」の存在を認めるかどうか、という
問題なんだと思います。
最近はやりのクオリアの問題と見ました。
私は脳の量子状態に個があると思います。
ノーベル賞も金メダルも犯罪を犯すのも同じ脳から生じたことです。
違いがあるとしたらその人の脳の使い方(状態)です。
状態は常に変化しまた,
様々な状態の重ね合わせにあるともいえます。
脳の状態は,おかれた環境や始めの状態(遺伝)によって,
次の状態が決まってきます。
ただ,その移ろいは確率であるので複数の未来が存在します。
真の自分というものは絶えず変化しています。
全ての生命は時間の矢の中で暮らしています。
真の自分というものは固有のものではなく,
任意の変数のようなものだと思います。
全ては時間の矢の中の現象であるので真のといった場合,
それは静的な状態,つまり死を表していると思います。
より良く生きるためにできることは,
いい状態に自分を保つことと思います。
真の自分があるとしたら,
犯罪者は一生悪人のまますくわれません。
ただ,サイコパスのように脳に明らかな損傷がある場合,
その人の真の自分というものは怖い気がします。
最後に私の好きな宮沢賢治の"春と修羅"序より
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
この回答へのお礼
greatcatさん、回答ありがとうございます。お礼が遅れて申し訳ありませんでした。
>真の自分というものは絶えず変化しています。
>全ての生命は時間の矢の中で暮らしています。
>より良く生きるためにできることは,
>いい状態に自分を保つことと思います。
個人としての人間の未来の姿は、不確定だと思いますが、いくつかの確率的可能性を、
まったくでたらめに選択し続けているわけでもないと思います。
「いい状態に自分を保つ」、それは、私は、真・善・美への道を歩み続けることだと
思っています。(時代がかった言葉ですけど)
生きるためだけに生きる、そういう動物的存在から、自分を超えさせようとする
何かが自分のなかにいる。それを私は「真の自分」と表現してみたのでした。
宮沢賢治の詩は、イメージはわかりやすいですけど、その解釈は難しいです。
(詩を「解釈」など、してはいけないのでしょうけど)
人のこころなど、物理学的な現象にすべて還元されてしまう、無実体なものである、
と言っているのか、こころこそ真の実在で、自然界の背後の霊的なものと
絶えることなく共鳴しあっている、と言っているのか・・・・・
私は前者だとは、思えないのですが。
ど~しても、どれかひとつに絞りたいとお考えと思われる、
mori0309さんに三上寛の歌の一節をささげましょう。
「幸せとは、ただ、一点において、全てを受け入れることである。」
で、これでもまだ、一つにしたいとお思いなら、
中国臨済宗(日本の臨済宗とは別物)の開祖、臨済義玄の言葉を。
「仏に逢うては仏を殺し、
祖に逢うては祖を殺し、
父母に逢うては父母を殺し、
羅漢に逢うては羅漢を殺し、
親眷に逢うては親眷を殺し、
始めて解脱を得ん。
物と拘わらず透脱自在なり。」
(これは、仏祖ですら、人を縛る枷になっているとまで論破し、
全ての経文もちり紙同然であるとまで言い切った、希代の禅客の
名言です。)
さてと、どちらの境地がお望みですか?
突き詰めると、この両極に辿り着くと思いますが。
僕はどちらにも賛同できますが、その間はないと思います。
自己とは認識されうるすべてなのです、僕にとっては。
私Caballeroの魂と、あなたmiro0309さんの魂が、「今」瞬間に変わりました!
果たして何が変わったと言えるでしょう(いや、言えない)。魂は、様々に個性をもつ肉体や記憶と違い、どれもいっしょなのだと思います。魂の仕事は、「自分」という確固たる「個性」をもたらす、自分、のみです。
重要なのは、魂だけあるとどうなるかだと思います。「自分」のみがある。それは、ないと言えばないと言えます(比較対照がないから)が、その存在は、なしで『ある』ということで、結局は「ある」、それだけだと思います。そこに自・他は存在しません。
又、私とあなたの記憶と肉体が、「今」入れ換わった!といってもすぐに嘘だと分かります。それは、私とあなたの「場所」が換わらなければならないからです。
(以上の話は、私以外の人物にも魂があるという前提で話しております)
ということで、真の自分は『私を私と言える「私」』、という事にしたいと思います。
この回答へのお礼
caballeroさん、ずいぶんと間をあけてしまって、申し訳ありません
でした。ご回答を何度も読み返しているのですが、よく理解できて
いません。「魂に個性はない」「魂はどれも一緒である」ということは
「同じものが複数同時に存在しているが、全体としてはひとつである」
ということでしょうか。そのイメージが、もうちょっとでつかめそうなの
ですが、なかなか結実してくれません、、、
わたしたち人間は、好きな人や尊敬する人を無意識のうちに模倣しようと
します。(すなわち良き人のこころは周りの人たちにコピーされるような
気がします)また可愛がってくれた(今は亡き)祖父母は、私たちのこころ
のなかに生きているなどと表現して、それを特に奇異であるともしません。
こころや意識は、わたしたちが思うほど肉体に閉じ込められているわけ
ではなく、相互交感しあう精神界という「場」のエネルギーみたいなもの
でしょうか。安易な空想をすると理系の方に怒られてしまいますね。
数日前に深夜のテレビ番組で多重人格症の少女を見たのですが、幼児期に
虐待を繰り返したという父親の人格が、その少女に現れたのには、本当に
驚きました。この事実はどういうことを物語っているのでしょう?
(自分自身への問いです)
西暦2834年、巷は火星旅行の話で持ちきりです。帰ってきた親友は、「めちゃ良かったで!お前も行きーや。」と言います。私も行く事にしました。
「では、記憶と肉体のデータをいただきます。その後に眠ってもらいますので。」と言われた。・・・・・・・・・・・・目が覚めると、「うおっ!殺される!」旅行会社の人は私が起きてしまったことに動揺しています。私は逃げました。「かくまってくれ!」私は親友に助けを求めました。「ちっ、しゃぁないな。かくまったるわ。」
一方火星では、私が再生され、旅行を楽しんでいます。帰る時も、火星で得た記憶と共に、肉体のデータを地球に送信し、火星の私は殺されるのでしょう。再び地球で再生された私は自慢話をしに親友の家へ行きます。すると、私は親友に言います「お前はだれだ!?」
ここで「私」が体験できるのは、逃げた私であるのは間違いないと思うのです。
この回答へのお礼
caballeroさん、ありがとうございます。もしかして「生物カテゴリ」の「違う精子
だったら自分は生まれなかった?」もお読みいただいたうえでの、ご回答です?
「真の自分」の新しい切り口ですね。ありがとうございます。
記憶情報はコピーできても、意識自体(魂)は絶対にコピーできないですよね。
同じ意識が同時に二つ存在するなんてありえないですよね。もしありえるとしたら
目が四つ耳が四つあって二人分の思考や行動を同時に行える人間が存在し得ると
いうことになってしまう。そんなこと原理的におかしいですものね。欧米には
人工脳が実現されて人間の記憶を転写することができれば、その時点で不老不死が
実現できるなどと本気で考えている学者がいるらしいですが。
本当に「意識」(魂)の正体は何なのでしょう。「情報」でもない「物質」でもない
「機能」でもない、、、、、
この謎が解ければ「死後の世界はあるか」とか「生まれ変わりはあるか」という
ことにも答えが得られるわけですよね。
「宇宙に目的はない」ということと「非線形・不連続」というのは同じこととして、言葉を用いました。宇宙の始まりから終わり(ビッグ・クランチ?)に至る歴史、それはたしかにあるでしょう。けれど、「目的」に向けてスタートしてゴールするという形に、線を引くことはできないだろう、ということを言いたかったわけです。
前の書き込みで「不連続をこそ見なければならない、尊重しなければならない」と言いました。そのことについて、少し補っておきたいと思います。
「線を引くことで見えなくなる不連続」について、具体例を挙げます。例えばナチス・ドイツによって虐殺されたユダヤ人たちのことを考えて下さい。彼らのことを少しでも学び、知った者ならば、あの出来事は心のどこかに重いしこりを残しているのではないでしょうか。「あんなひどいことを、二度と繰り返してはならない」と、誰しもがそう感じると思います。そういう意味では、ナチスによるユダヤ人大量虐殺という歴史的事象は、現代を生きる僕たちと「連続」しているのです。意味を持っている。
が、仮に、です。仮に第二次世界大戦でナチスが勝利を収め、そして今日に至っていたとしたらどうでしょう? おそらく、その痕跡そのものから完全に抹消され、知ることすらできなくなっていたはずです。これが「不連続」です。今の僕たちに何も語らない、意味を持たない、膨大な死。
逆に言うと、いちおう民主主義の世の中に生きている僕たちによる「線の引き方」は、また別の何かを「不連続」の領域に隠していることも考えられるでしょう。現に起こったはずなのに、不可視の領域の中、ただただ無意味に捨て置かれている事象があるのでしょう。
つまり、「一本の線を引くこと」は「他の線を消すこと」なのです。
だから僕は「史観」などというものは認めない。mori0309さんの好きな小林秀雄もそう言ってましたよね。ヘーゲル歴史哲学も、史的弁証法も、そして…「宇宙目的史観」も(ごめんなさい、「造語」しちゃいました)、僕は認めません。そんなのはもう、「観念」を立てて、その観念に合うように現実を都合よく裁断しているだけです。また逆に言えば、「観念を立てて現実を裁断すること」をせずに「一本の線を引くこと」などできないのです。
ですから、僕の言う「非線形・不連続」ということは「宇宙はより大いなる自由を生み出す性質を持っている」ということと同じでは、ありません。太古の昔に起こった超新星爆発という出来事は、僕たち人間に金や銀やプラチナをプレゼントするという意義を持っているかもしれません。でも、そんなのが「より大いなる自由」でしょうか。人類にとっては「意義」であっても、このまま人類が滅びてしまえば「無意味」に帰します。宇宙全体から眺めれば、何も起こっていない。本質的に新しい何物も、そこには生まれていない。
これが宇宙の「事実」です。そして…mori0309さんも言われたように「事実」と「真理」は必ずしも同じではありません。が、やはり「真理」は「事実」を土台として語られるものでしょう。あらかじめ「真理」を立てて(言い換えれば「観念を立てて」)「事実」を裁断してしまっては、かえって「真理」から遠ざかることになるのではないでしょうか。
それから、以下は「横レス」になりますが、oni-ocさんへのコメントの中で「《などない》思想や《すぎない》思想は、人を厭世的にさせ、無為にさせ、無責任にさせる」と述べておられますね。
僕は必ずしもそうは思いません。僕自身、実は現代思想の流行であるところの「価値のコキおろし」に食傷気味ではあるのですが、他方ではそれも必要な営みであると考えています。安易な「救済のイデオロギー」を立て、その安易さ、底の浅さを糊塗するために人に思考停止を求めるならば、それはオウムやら法の華やら幸福の科学やらのクソ宗教と変わるものではありません。逆にきわめて精緻な「救済のイデオロギー」であっても、その精緻さ、完成度の高さゆえに人を拘束する力が異常に強くなったとしたら、それはそれで危険です。
やはり僕は僕自身に立ち帰ります。「思想」、たとえそれが僕自身のものであったとしても、そう安々と認めはしない。あらゆる価値がコキおろされた廃墟の中でこそ、人は「他」に頼らない「個」に立ち帰ることができるのではないでしょうか。そしてそこから自分なりの「意味」や「価値」を創造していく。ならばこの廃墟は、むしろすがすがしい。
…書いているうちに、なんだか自分も「僕にとっての《真の自分》」が感じられるようになってきたような気がします。mori0309さんに感謝です。
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