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一説には、単なる北条氏の「あやつり人形」だったという説もありますが、日本史の「通説」においては、彼自身に対してどのような評価がなされているのでしょうか。
「鎌倉(北条)幕府」政権事態は、それまで省みられなっかった「庶民」に対しても、ある程度目を向ける体制になった点で評価はしているのですが。
お教えいただければ幸いです。

A 回答 (6件)

>単に「東国武士に祭り上げられたお神輿」にすぎない程度の人物という評価が今日の主流の考え方なのでしょうか。



すいません、言葉足らずで誤解を与えてしまったようです。
鎌倉幕府成立以前は、「利害」のため頼朝と東国武士の立場はあくまでも「対等」でした。
そして、「東国武士」たちは「独立国としての鎌倉」を望んでいました。
しかし、頼朝は「朝廷国家内での鎌倉幕府」という位置づけに持って行きました。と、いうのも頼朝の目的が「朝廷国家内での地位の向上」にあったからです。
そして、「朝廷国家内での地位の向上」を目指すには東国武士の暴走はなんとしても阻止しなければなりませんでした。
そこで、「論功行賞」を行い敵方(平家勢力)から奪取した土地を与え東国武士を手なづけていきました。
そして、平家打倒後に「父・義朝」の名誉回復を行い、また「奥州合戦」を「前九年の役」の再現として行い源氏の後継者であることを内外に印象づけていきました。

ここにいたって、「鎌倉幕府内での頼朝」の地位は揺るぎないモノになっていきました。
このときの北条氏ですが、頼朝と北条政子とが婚姻していたので「血の繋がり」で他の武家よりは有利な立場を得ていました。
頼朝の死後も、この「血の繋がり」を利用して幕府内での有利を保っていきました。
その事は、「承久の乱」の時、京方の挙兵に動揺する御家人を前に、頼朝以来の恩を説いた事で、いかに「源氏」の威光を利用してたかが分かります。

頼朝個人の評価についてですが、「平家政権と後白河法皇の争い」という機会を利用して名誉回復を図り、またその後に「東国武士の暴走」を抑えつつ、「鎌倉幕府を朝廷勢力に組み込むように持って行った政治力は流石というべきでしょう。
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この回答へのお礼

たびたびのご回答、ありがとうございました。
私は単なる一中年サラリーマンでありますが、「源頼朝」というたった1人の歴史上の人物を分析するだけで、これだけいろいろな歴史の背景がわかるんですね。本当に勉強になります。
話はずれますが、中高生にもこうした視点を持って勉強してもらうと嬉しいですね。

お礼日時:2006/10/28 20:14

話題がそれたのに釣られて(笑



>中高生にもこうした視点を持って勉強してもらうと嬉しいですね。

これは、まさにその通りですね。
私も上では、結構断定的に書いてますけど実は「真実」とは思ってませんから(笑
私の『歴史』に対するスタンスは、「歴史に真実はない」ですから。
「通説」や「定説」の類はあくまでも、現在存在する「史料」から推察される「状況証拠」を突き詰めた「有力な仮説」でしかないと思っています。
そして、このことを頭に入れておかないと「歴史に(正確には歴史を利用する国家)操られる」ことになりかねませんから。
今の学校教育では、「通説」と思われるモノを「暗記」させられてるだけですからね。

もっとも、こんなに難しく考えなくても「歴史は昔生きてた人の物語」として親しむ心を教えてもらえれば、日本の大学から史学科が消えるという現象も無くなるでしょうし、もっと日本人の歴史(日本史・世界史関係なく)に対する意識も向上すると思うのですが。
(質問内容と関係ないレス、大変失礼しました)
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この回答へのお礼

どうもありがとうございました。
ご指摘のとおり、現在の事実でさえ真実が何かが不明であり、「歴史に真実はない」と思います。
ある事実(事件)に対して、自分のスタンスを仮設し、それに対する意見(反論)を参考にしながら自分の考え方を確立していくことが(事実はどうあれ)、日本史に限らず、大事な学習であるとか考えています。

お礼日時:2006/10/29 09:09

まず、鎌倉幕府ですが、頼朝は当初東国に幕府を作る気はありませんでした。


と、いうのも頼朝の目的はあくまでも中央政府、つまり京都内での地位を高めることにあったからです。
しかし、傘下にあったのは東国の武士だったので彼らの意向を無視しては自らが滅びかねませんでした。
そこで、仕方なく作ったのが鎌倉幕府だったのです。

因みに東国武士の目的ですが、自分たちの土地が中央(平家)に搾取されていた事に対する不満から、中央から独立することでした。そこで、当初は罪人として流刑にあった源頼朝の元に集ったわけです。
つまり、父の汚名をそそぎ平家に立ち向かうための兵力がほしかった頼朝と、自分たちの独立を守りたい東国武士との間で利害が一致したわけです。
故に、この利害を無視して頼朝が京都に行くことは出来なかったわけです。

「北条氏の操り人形」だったというよりは、「東国の武士の意向を無視できなかった」というのが昨今主流になりつつある説なようです。
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この回答へのお礼

どうも有難うございました。
確かに京育ちの頼朝には、その意向が強かったかもしれませんね。
ということは、彼は、単に「東国武士に祭り上げられたお神輿」にすぎない程度の人物という評価が今日の主流の考え方なのでしょうか。

お礼日時:2006/10/28 12:37

意志強固。

冷徹な官僚肌の武人、、といったところでしょうか。
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この回答へのお礼

どうも有難うございます。
まあ個人的には、政策を完遂するために、情に走らなかった彼に少し好感を抱いておりますが・・・

お礼日時:2006/10/28 12:33

まず操り人形説ですが、関東を制圧したころから、頼朝のもとには多くの御家人が集まっています。

そのころになると、北条氏の力より頼朝の力のほうが優越し、操り人形ではなくなったのではないでしょうか?そのご武家政権としての政治機構を着々と作っていったわけですが、侍所、問注所、公文所といった諸機関を作り北条氏でない御家人を長官に任命していったところを見ると、北条氏の操り人形どころか、北条氏の専横を防ぐような体制を着々と作っているように見えます。
 
 頼朝の評価といった点ですが、それまで曖昧だった在地武士の統治体制を、きちんと政権組織としての統治機構を作り上げ、その後の武家政権による支配の礎を作ったわけですから、その政治力は卓越したものがあると思います。また源氏は幕府を北条氏にのっとられるわけですが、そもそも頼朝固有の戦力や、代々の直臣や信頼できる一族郎党がいない状態からのスタートなので、個人的には彼の行動がベストであり、また限界でもあったのだと思います。
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございました。
また、わかりやすい説明をしていただき、勉強になりました。
北条氏ばかり目がいき、「御家人の統率」というベクトルを失念していました。
確かに、子飼がほとんどいない状態で、あれだけの軍事力をまとめあげたのですから、すごいですよね。

お礼日時:2006/10/28 09:13

通説はどうかは分かりませんが、一説では、北条氏からいろいろは言われながらも政治の中心を自分で最後までやりきったとなっています。


その証拠として頼朝は暗殺されずにその後の頼朝の子供の将軍達は暗殺されました。
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございました。
北条氏という「スポンサー」の制約にありながら、自分の戦略で戦った野球の監督のようなイメージを持ちます。

お礼日時:2006/10/28 09:09

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