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江戸の多摩郡は幕末でも10万石あまりと聞きましたがもうちょっととれてもいいのではと思うのですが畑が多かったのですか?なぜ平野の大きな郡が石高がいまいちだったのでしょう。

A 回答 (4件)

地元民です。


武蔵野台地(多摩川北部)を中心に畑が多ですね。
細かい人口と石高は把握していないのですが、理由は耕作に適する地域が少ないからだと思います。
平野の大きな郡とはいっても、西半(現在の奥多摩町、檜原村他)は山地ですし、多摩川南岸は丘陵地、北岸は武蔵野台地が大部分をしめていす。
現在、水田は多摩川沿や北岸の河岸段丘の国分寺崖線・立川崖線(崖線をハケと呼びます)の下の湧水を得られる地域を中心に分布していますが、多摩郡でこのように水を得やすい地区は多くはないです。

特に、北岸の武蔵野台地上は水に乏しく、玉川上水開削まで開発は進んでいませんでした。(余談ですが大きな杯を「武蔵野」とよぶそうですが、「飲み(野、見)尽くさず」ということで、かつてはそれほどに野原が広がっていたそうです)
開削後の開発も、土質が悪い上に(関東ローム層が厚く堆積しています)高い税率などの制度のまずさもあってなかなか進まず、農民の定着が悪かったとか。この地域は薪炭と野菜生産、麦作が殆どだったと思います。

ただ今酔ってるので勘違いがあるかも知れませんがお許しを。
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この回答へのお礼

地元の人の貴重な回答ありがとうございます。やはり水田に不向きな面と制度などの環境面のアシストにまずさがあったと言うことですね。m(._.)m

お礼日時:2006/10/31 16:43

関東ローム層が厚く、地味が乏しく、水を得るのに苦労したため、農業に適した土地ではなく、新田開発などは行われましたが、余りうまくいきませんでした。


今ではほとんど残っていませんが、井戸を掘るのでも、地上からでは透水層まで容易に達しないので、わざわざすり鉢状に掘ってから井戸を掘っていました(まいまい井戸など)。また、生活用水では天水に頼ることも多く、生産量はその程度だったのです。

また、明治以前の江戸の規模では、武蔵野に大きな期待をしなくても、それなりの食料生産と流通がということもあります。
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この回答へのお礼

井戸にそんな井戸があるのですか、参考になりました。どうもありがとうございます。

お礼日時:2006/10/31 16:45

くわしくは知りませんが、多摩郡は丘陵や扇状地が多く、水はけがよすぎ灌漑に不向きではないでしょうか?江戸時代の技術では水田には向かないと思います。

大規模用水を引くといった手も有りますが、土地の高低差があるので、水田に汲み上げるのも一苦労だと思います。そこまでするよりは、養蚕のほうが手っ取り早く現金収入に繋がったことでしょう。
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この回答へのお礼

なるほど、水問題、地質だけでなく土地の高低が結構あって水田にむかないと言う事ですね、どうもありがとうございました。

お礼日時:2006/10/31 16:35

武蔵野平野といっても大半が水の不便な台地ですから、稲作は少なかったでしょう。

明治になっても雑木林の原野が多かったはずです。
http://www.ippusai.com/hp_home/edo_tokyo/edo011. …
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この回答へのお礼

添付サイトも参考になりました。ありがとうございます。

お礼日時:2006/10/31 16:30

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