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もしも、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が勝利し、大政奉還も版籍奉還も無かった場合、その後の日本はどのような道を進んでいったと思いますか?

幕府による日本の近代化は無理だったのでしょうか?

武士階級の解体、旧習に囚われない新しい時代の人材etc・・・
幕府は、日本の近代化を進める能力が無かったのでしょうか・・・。

A 回答 (6件)

恐らく大政奉還はされたでしょうね。

そして廃藩置県は実施され、
幕藩体制は崩壊するはずです。

坂本竜馬が提案した「船中八策」で提言しているように幕府に進言力のある土佐藩が舵をとって
徳川慶喜を議長とした議会制政治へと動くと思います。

まして鳥羽伏見で幕府軍が勝つような勢いや戦力があるなら、坂本が死ぬ事は無かったと想定できます。

とすると薩長土肥に偏った政治ではなく、日本中の優秀な人材が幅広く登用される可能性もあります。
新撰組も彰義隊も幕臣も薩長連合も関係なく、統一した世界が作れそうになると思いますが、
幕府側が圧勝してしまえば、薩摩長州は「お家断絶」妥当なとこでしょうね。

どう転んでも、当時の戦力差では幕府が勝つ目は全く有りません。
薩摩長州連合が成立した時点で、国内最強軍になってしまったのですから。
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この回答へのお礼

各藩にそのような戦力の保持を許さざるを得ない位、幕府の国内の統率力が落ちていたのなら、混迷の時期が長かったかもしれませんね。

幕府の戦力が、そんなに弱かったとは思いませんでした。
慶喜に継戦の意思が無かったから敗れたのだと思っていました。

お礼日時:2006/12/01 11:26

追記で補足しますが、


薩長連合を作って反幕を行ったのは、幕府の不甲斐なさから始まっています。
鳥羽伏見以前の状況では幕府の権威も残っていますが、
第2次長州征伐を失敗したことで幕府も武力の差を理解したはずです。
長州・薩摩は列強諸国と盛んに交易し、武力を蓄えています。
恐らく近代部隊としては武装面では、幕府より上では無いでしょうか。
1人1人の力はもしかしたら、幕府が上かも知れません。
しかし、近代戦争においては個々の戦闘力よりも兵器です。
その差が負けの直接の理由かも知れませんね。

私の中では慶喜という人物を高評価してます。幕府の幕引きとして15代を引き受けたとも思えます。
長い徳川の世を終わらせるのはやはり面子の問題もあると思うし。

そして大政奉還を受け入れた思考回路も時代を理解していると思います。
鳥羽伏見の際は幕臣の指示にも最後まで反対し江戸に帰ったとも聞きます。
※実際は定かではありませんが。
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鳥羽伏見の戦いはなぜ行われたか?


大政奉還の段階で、反徳川系の公家は宮中での権力を失っており、有力者は、親徳川であった。
鳥羽伏見の戦いがなければ、幼主明治天皇の元、有力大名家連合政権、その最有力として徳川慶喜が座ることになる。
無論、その有力大名家連合からは、薩長は排除されるか、薩長内の反徳川は薩長内で排除されるだろう。具体的には、西郷や大久保、木戸など。薩摩は寺田屋事件で久光の指示の元、尊皇派を切ったことや、長州が第一次長州征伐で、尊皇派を切った事など、実績のあることなので、今後再度尊皇派(反徳川派)を切ることがないということは言えない。
実際に、上記の想定が予想されたので、西郷等は、鳥羽伏見の戦いを挑発したわけですから、西郷等にとって、あり得べき事であったと思われる。
幕府が勝てば、上記の想定がなされ、最強の大名家として、徳川家が旗本領・親藩・譜代層の地域支配権も手中に入れ、外様も江戸定府(京都定府かも)を命ぜられ、終身大統領 慶喜が誕生する。
この、徳川本家による領地編入は、天保の改革で水野が行おうとした、江戸・大坂一円幕領化の動きを外挿した、想定である。
※ 水野の失脚はこれが反対されたからであり、物理的な強制力が弱まった幕府のためできなかった。だが、戦争勝利の後は可能になる。

近代化に関しては、構想はある程度西欧を知った人間にとっては当たり前のことであった。No1さんにあるように。要は、実施するだけの強制力(戦争勝利という、有無を言わせない力)があるかどうかによる。
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この回答へのお礼

維新側も、藩の意思や、個人の思惑が入り乱れているみたいですね。
ありがとうございました。

お礼日時:2006/12/01 11:32

もし鳥羽伏見の戦いで幕府軍が勝利したら、というのは、もしミッドウェー海戦に日本軍が勝利したら、というIFだと思います。

どういうことかというと、結局局地的に勝利したとしても戦争全体の帰趨に影響はしなかったと思います。
武士階級の解体や旧習に囚われない人材活用そのものが徳川幕府体制を否定するものです。そもそも、徳川幕府が徳川幕府のままではやっていけなくなったから改革が叫ばれるのですが、改革というのはそのまま旧体制を否定することに繋がってしまう運命を持っています。
これは現代史でいえば、ソ連崩壊がそうですね。ソ連があのままではやっていけなくなったからゴルバチョフはペレストロイカという改革を行いました。ゴルバチョフは社会主義体制を変えずにゆるやかに改革しようとしましたが、保守派からは「けしからん」と批判され、改革派からは「手ぬるい」と批判され、結局ソ連は崩壊しました。

これは「国家の運命」なのだと思います。改革は常にドミノ式に社会全体を変え、結局は国家体制そのものを否定する方向に進んでしまうものだと思います。
ただ、明治維新についていえば、新政府体制が薩長主導にならなかったという可能性はあるかと思います。では、どうなったか。うーん、わかりませんが、大統領制はなかったでしょうねえ。一応四民平等とかありましたけど、それはアメリカ独立運動やフランス革命のような国民革命による改革ではなかったので、身分制度の完全否定までは繋がらなかったですし、当時の人々も「アメリカは誰でも国家の長になれる」と聞いて「なんつう野蛮な国だ」と驚いたそうですから。
結局のところ、大政奉還による天皇家を中心とする体制という点では変わりなかったと思います。尾張が新政権のイニシアチブをとって首都が名古屋になっていたら面白かったかも??
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この回答へのお礼

「改革というのはそのまま旧体制を否定することに繋がってしまう運命を持っています」なるほど、と思いました。 そうなんですよね・・・。
名古屋が首都というのは面白かったでしょうね!

お礼日時:2006/12/01 11:28

>幕府は、日本の近代化を進める能力が無かったのでしょうか・・・。



あったのでは?
実際、幕臣の小栗上野介が起こした造船所が明治の近代工業の基礎だし、彼の戦略が採用されていれば箱根で薩長連合軍は敗北し、日本は大統領制の国になる可能性がありました。
http://www.gpwu.ac.jp/ext/gunma_studies/start/st …

この回答への補足

回答、ありがとうございました。

補足日時:2006/12/01 11:20
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もし、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が勝利した場合、今度は徳川慶喜による幕政改革が行われたことでしょう。



鳥羽伏見の戦い以前に、幕藩体制に既に限界を感じていた徳川慶喜は、家臣の西周(にし・あまね)に命じて、西洋諸国を参考にした近代的政治体制の改革案を検討させます。

その内容は、三権分立をも盛り込んだ当時としては極めて先進的な内容であり、もし鳥羽伏見の戦いで徳川軍が勝利すれば、徳川慶喜が天皇をかついで新政府の樹立に向けて動いたのではないかと考えられます。

参考:『資料にみる日本の近代』-『西周の政体構想』
 http://www.ndl.go.jp/modern/cha1/description03.h …
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございました。
「西周」、名前は聞いた事あるのですが、よく知りませんでした。

お礼日時:2006/12/01 11:20

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