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小早川隆景は秀吉に引き立てられ、毛利宗家とは別に領地を与えられますが、どうして隆景は敢えて本家とは別に領地を受け、半ば独立した大名となったのでしょうか?
 その後は五大老となっていますが、独立大名として扱われたり、豊臣政権の大老職を拝命することと、三本の矢ではないですが両川が毛利・輝元を補佐することがどうもしっくりこないのですが、隆景は吉川のように毛利の一家臣でいるよりは、大名として扱われたり、大老に就任する方が大毛利の為になると考えていたのでしょうか。
 黒田如水が金吾中納言秀秋を毛利の養子にしようとしていると聞きつけて、本家の血筋を守る為に「ぜひ小早川家に」と所望して秀秋は小早川家の養子となったということですが、見方を変えればそれによって豊臣政権が続く限り豊臣連枝となった小早川家の家運も上昇するだろうとも言える気がします…

元春・隆景はどちらも好きな陪臣武将なのですが、秀吉を忌み嫌った元春とは対照的に、陪臣の身で豊臣政権の表舞台に出る道を選んだのだろうかと思いました。

この時期の隆景の選択についてご意見を伺えれば幸いです。

A 回答 (7件)

>実高でみると相当な領土だったように思います。


いい点つきますね。おおむね1,5倍の石高があったように思われます。ただそんなみみっちい話だけではなく、掘っても掘っても枯れなかった石見銀山(秀吉と折半ですが)がありました。関東に移封となった家康と経済力はほとんどかわらないと思います。
 秀秋を養子に送り込む件ですが、秀吉としても小早川としても毛利家としても、毛利家を豊臣家の有力大名としようとしていたとしか私には思えません。毛利家は一貫して割拠思想しかなく、覇権を狙うような家風はまったく見られません。家康に対する重石として、前田毛利を重用し、家康の暴走を抑えようとしただけではないでしょうか?

 秀吉としては家康に対抗する外様大名を各地に用意し、家康の暴走を防ぐべく準備していたものの、ちょうど関が原当時、景勝以外の有力大名が腑抜けばかりで何の役にも立たなかっただけで、隆景も豊臣の世の中でせっせと地位を上っていたに過ぎません。
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この回答へのお礼

石見銀山は大きいですね。
毛利家を豊臣の有力大名化ですか。確かに必要以上に厚遇されていて、背景はそういう感じがしますね。

秀吉嫌いを貫いて隠居した元春がもう少し長生きしていたら、自分とは対照的に表舞台に出た隆景のことをどう見たのか気になるところではあります。

ありがとうございました!

お礼日時:2006/11/20 18:10

毛利家は、守りの気風の家と聞き及びます。


秀秋が暗愚なので、毛利家という本家に入られるのを畏れて、「秀秋さまをくだされませ」と、自らが防波堤になる気持ちで、侵入を防いだと、単純に考えていましたが。
後世の作とはいえ、三矢の訓は、毛利親子、兄弟をよく表していると思います。
私は、隆景は、野望のために、小早川秀秋を受け入れたとは、考えていません。
むしろ、犠牲という考え方です。
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この回答へのお礼

私も隆景が野望・野心を持っていたとは思わないのですが、三本の矢に代表される両川が毛利を支えるという構図と、家臣の身の隆景が三十万石に上る領地を秀吉から直に与えられ、当主輝元と同地位の大老職に就いたという事が、少ししっくりこない感じがして質問させて頂きました。

元就は輝元に天下を狙うなと言い置いたみたいですね。

ありがとうございました!

お礼日時:2006/11/20 18:00

陪臣・直臣とか、あまりギチギチに考えない方がよろしいかと思います。


そもそも、毛利・吉川・小早川は、安芸および岩見国における国人層として同一であり、元就の時代でも、唐傘連判状をつくるように、毛利本家が圧倒的な支配力を持っていたわけではない。
現に、1634年には、毛利秀元は、吉川家とともに、本家から独立しようとした。(吉川広家の不同調により失敗)
また、紀州徳川家の付家老水野家などは、明治になってから、独立した藩扱いになっていたりします。

このような状況を考えると、毛利は親戚だけど、おれも大身になって別に問題はない。と思っていたんではないですか。

この辺が、同時代の三大陪臣といわれた、上杉家の直江とはちょっと違います。
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この回答へのお礼

秀元や徳山藩が本家の内分から独立して将軍家より直に朱印状を賜ろうと画策していたのは知っていましたが、秀元は吉川にも声を掛けていたのですね。知りませんでした。てっきり関ヶ原以来、吉川を白眼視しているとばかり思っていました。
吉川も広正時代までは本家と上手くいってたようですね。本家の一門八家のうち二家は吉川系ですし…。
毛利が関ヶ原の遺恨で吉川を大名にするのを頑なに阻止したと言われていますが、広正は輝元の娘を正室に迎えていますし、幕初は関係が破綻していた訳でもないので、その辺りが不思議な感じがします。

ありがとうございました!

お礼日時:2006/11/19 13:37

太閤殿下の命です。

断れる訳はありません。秀吉は毛利を二つに割るために隆景を引き立てたとも考えられるのです。隆景もそのことはわかっていたと思いますが、なにぶん人たらしの秀吉、彼の方が一枚上です。隆景は、毛利本家によそ者秀秋を入れるのを阻止することしかできませんでした。(それだけでも十分忠義を尽くしたと思われますが。)隆景没後、関ヶ原がおきますが、このとき毛利家は一枚岩ではありませんでした。秀吉の深謀遠慮が家康に味方したともいえるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

>毛利を二つに割るために隆景を引き立てたとも考えられるのです。
そういう意図はあったかもしれないですね。

秀吉は家康の圧倒的な存在と豊臣政権の行く末をホントのところ、どのように考えていたのか気になります。
いつ裏切るか分からない五大老と粒の小さい五奉行による集団指導体制でずっとやっていけるとは思っていなかったでしょうし…

ありがとうございました!

お礼日時:2006/11/19 13:23

小早川(安国寺も)の得た領土は、もともと毛利の領土というより秀吉の領土です。

毛利の領土のなかから小早川家の領地を割くより、新たな領土を持ち且毛利と秀吉との架け橋になるほうが、毛利のためにも小早川のためにもなると考えたのは、当時の状況として自然なように感じます。あらたに秀吉から大きな領土をもらえば、豊臣のために働くのもしかたありませんし、政権の表舞台に共に加わりながら、毛利家と共に存在感を増していこうと考えるのもおかしくないと思います。表舞台云々より、毛利小早川安国寺を含めた毛利グループの領地が大きくなることが、大きな意味を持つと思ったのではないでしょうか?実際は股裂きとなりましたが、もし毛利家が強いリーダーシップを持っていたなら、家康にも超越できる一大勢力をきづけるほどの広大な領土です。
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この回答へのお礼

確かに毛利百二十万石に隆景・秀包・安国寺の所領を合わせると、家康に匹敵しうる領地を持っていますね。
毛利本家の百二十万石というのも相当に過少申告しているように思いますし、実高でみると相当な領土だったように思います。

ありがとうございました!

お礼日時:2006/11/19 13:18

小早川隆景が豊臣政権下で大大名になったのは、先ず本能寺の変で秀吉が急遽撤退する際に追撃を主張した吉川元春に反対し、秀吉の天下取りに道を開いたこと、その後も秀吉の九州平定に積極的に参陣し戦功がありその能力と忠勤振りが秀吉の信頼をえていたためです。



勿論毛利家の為を考えての振る舞いでした。
彼は天下の形勢を考慮して秀吉に反抗するよりその部下として行動することにより毛利本家をまもろうとしたのです。

その現れが本家への養子を阻止した事です。
毛利本家当主の輝元は凡庸で嗣子もなく、それをみた秀吉が毛利本家を我が者とする為養子の秀秋を毛利本家に送り込もうとした際、一旦同意しながら自分も嗣子がいない事を理由に九州の大録を引き継ぎ秀吉に忠誠をつくすには是非秀秋を小早川家の養子にと懇願して毛利本家の乗っ取りを防いだのです。
もともと隆景の得た大録はその戦功によったものであり、毛利本家の枠外なので秀吉にこれを返上する名目もあったのです。

彼は最後まで毛利本家の防壁を勤めたと思います。
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この回答へのお礼

>もともと隆景の得た大録はその戦功によったものであり、毛利本家の枠外なので秀吉にこれを返上する名目もあったのです。
そうなのですね。
秀秋を養子にした時点で、自身の三十万石は豊臣家へ返上したものと考えていたのでしょうね。

ありがとうございました!

お礼日時:2006/11/19 13:14

政局がどう転んでも、御家が滅亡しないための配慮ではないでしょうか?

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この回答へのお礼

御家が滅亡しない為の配慮というのもあったのでしょうね。
その後の秀秋時代の小早川家をみると、もはや毛利一門ではないといった印象を受けますから、独立的な立場となったのが良かったのかどうかは難しいかもしれないですね。

吉川広家は関が原後に自分が与えられる予定の防長2国を自分はいらないから本家を存続させてくれと言って毛利家は改易を免れていますが、(忠義心ある広家の選択としてはあり得ないことですが)もし広家が自分で防長を賜って毛利本家が改易されていたなら、「大毛利滅びて残るは両川のみ」という状態もありえたのでしょうか…

ありがとうございました!

お礼日時:2006/11/18 15:02

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