戦国大名 伊達政宗のすごさを教えてください???????
戦国大名 伊達政宗のすごさを教えてください???????
回答(9件)
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No.9ベストアンサー20pt
ピンチを何度もしのいだ。たしかにそうですね。関が原の時もそうですね。本戦では無く東北戦ですが上杉勢に攻められて彼は一騎がけで逃げた。危なかった。大坂の陣では敵将の真田幸村から自分の娘を託された。家康公に匹敵する正宗と幸村から評された。おべっかを差し引いても凄い武将(政治家、経済家としても)だったのでしょう。ifの歴史シュミレーション小説にも伊達幕府なんてあるし。
No.8ベストアンサー10pt
粋で、かっこいいことを「だて」といいます。
何百年も後の人間が、スタイル、フォルムをかっこいいものと、評しているところが、すごいです。
鎧、兜には、着用した人間の人間性が不思議と現れます。
伊達政宗着用の鎧、兜は、数ある戦国大名の中でも、トップ3には、軽く入ると思います。
現代人からも、慕われ、伝統が踏襲される人物となると、そうは、多くあげられません。
先々月、仙台在住のかたと、お話する機会がありましたが、仙台を中心とする人々は、たいてい、政宗公が大好きです。
遅れてきたヒーローです。
あと、せめて、10年早く生まれていれば、と、未だに、本気で、悔しがるひとも少なくありません。
軍団と産金を背景にした「したたか」さでしょうか。
山形南部の鉱山をほとんど掌握。昭和40年代頃まで
稼業していた物も多い。小田原遅参の時の金は南陽市
川樋地区の産金と時期が一致。
お国替えの時は,これをつぶしてから行く。
宮城に移封されても,山形側に戦を起こし,藩境を
300m拡大する。何の意味があるかと思ったら,
その場所は金鉱山。山越えた山形側に,見張りの
詰め所を置く。
同時に福島の高玉金山,秋田の和賀銅山に戦を
起こす。もう,移封されてもさいごのあがきを忘れ
ない
本吉や気仙郡の砂金を鉄砲隊つけてネコに行かせる。
移封後のまだ産金少ないときも,大和町の宮床
火打ち石を商品化し,日本3大火打ち石にのし上げる。
サンファンバブテスタを幕府に黙って,2年も
前にフライングして建造。阿部?水軍とも渡りをつける
サンファンバブテスタ船内での脚気防止のため,
巡行先の桃生郡のお寺で栽培されてる茶を見つけ,
多いに奨励する。煉茶にして,積み込んだらしい
貞山堀を県南から石巻まで伸ばし,水運を向上
あ,時間です。
かれ(17代・貞山)は,9代伊達政宗(儀山)
とともに,山形の誇れる智将です。まぁ,当地山形
の人は,何とも思っていないようですが・・・。
秀吉が政権をとり、天下をとることが無理とわかった政宗は仙台を豊かにすることにつとめ、治水、新田開発を熱心にやりました。このため、仙台藩の石高は大幅に増えたそうです。江戸時代、江戸や大阪に送られてくる米の半分が仙台米だった時もあり、仙台藩はあたかもアメリカの穀物メジャーのようでした。秀吉が政権をとった後は朝鮮出兵など失政が多かったのに対して、内政を充実させた政宗は名君だったと思います。
いろいろなご意見があるでしょうが、私は伊達政宗のすごさは「フツーの人なら絶対乗り切れないような大ピンチを何度となくくぐり抜けた」ことだと思います。
最初の大ピンチはいわゆる「人取橋の合戦」のときです。三倍以上の敵に攻められ、善戦はしたものの、もし戦いが続いていれば政宗は討ち死にしていた可能性も大いにあったと思います。突然佐竹軍が撤退するというとてつもない「運の良さ」を持っています。
二度目の大ピンチは小田原参陣。死装束で現れるという「前代未聞の奇策」も功を奏し(それだけで助かったわけではないですが)、伊達家滅亡を救いました。やってきた政宗を許した秀吉もまた天下人だけあって大政治家だったと思います。
そして三度目は葛西の一揆扇動がバレたとき。あまりメジャーではありませんが、実はこれは大変なピンチでした。「自分の花押は針で穴が開けてある」というすさまじい詭弁で切り抜けました。
秀次騒動のピンチは本人にはピンチとは思えない程度のことだったでしょう。
そして江戸時代になると周りは合戦など生まれてこの方一度もやったことがない二世、三世のボンボン大名ばかりになったのでもう格が違いすぎてお話にならなかったでしょう。
こんばんわ。
彼のすごさは言い尽くせないでしょう。
まずは豊臣時代から。秀吉にはかなり恐れられていました。証拠に、小田原攻めに遅れてきたものの改易にはなりませんでした。伊達軍団を恐れてのことだと言います。また、秀次事件にも取り潰されかけましたが切り抜けています。また、秀吉さえも恐れ、そして織田信長の娘を妻に持つ蒲生氏郷ともやりあいましたが見事切り抜けています。
勿論、徳川家康も脇に見ていたのですから家康も彼を恐れました。政宗自身も恐れられていることを知っていたようです。そして、若干鼻にかけていたようです。その証拠に徳川秀忠に対して60万石では体裁が悪い、だからもっと石高を増やしてくれといったりしていたようです。秀忠も2万石程度増やしたようです。さらに自分の長男の秀宗にも領地を、といって宇和島10万石を拝領させています。
家光の時代になると刀を帯びることを許されたりしています。
すごい破格の待遇でした。
私は伊達政宗を傑出した武将であり、立派な統治者だと思います。
現在の仙台市を中心とする東北地方の繁栄は、彼のおかげでしょう。
ちなみに、下記サイトをご覧ください。
正宗を理解できる本が紹介されていますよ。
私はただの過大評価だと思いますね。
20年どころか100年早く生まれても
天下人になれた可能性は全く無かったでしょう。
国際戦略やスケールの大きさ、派手好みと、
いかにも大人物のようですが、
宿敵の最上は倒せずじまいで、
関東への南下も佐竹ほかに阻まれ
拡張政策は行き詰っていたわけで、
実際には東北の統一すら望み薄でした。
せいぜい若くして大名となったことで
可能性があるかもしれないと、示せたぐらい。
豊臣や徳川は、東北経営に彼を利用しただけであって、
結局はおだてて乗せられただけでしょう。
長曽我部元親を信長は「鳥なき島の蝙蝠」と称したけど
伊達政宗もその類ですな。
世渡り上手というところは、島津や毛利、長曽我部よりも
上だったわけですが、親から受け継いだ領土・家臣と
藤堂高虎なみの才気の人物という感じ。
ま、東北唯一の希望の星なだけに、悪く言うひとは少ないけど
過大評価であることに変わりは無いと思います。
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