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日本史上、初めて外国(中国でしょうか?)と外交したのは
遣隋使なのか、他の方なのか分かりませんが、
質問は、その頃どうやって言葉のやり取りをしていたのでしょうか。
どう理解していたか

辞書も何もないのに。疑問です

A 回答 (9件)

現地へ行って生活すれば、言葉は覚えられます。


そういう人が通訳したのだと思います。

現代でも、総計六千以上あるといわれる世界の言語のうち、外国語辞書のあるものは、多めに見ても一割程度でしょう。
つい100年ほど前までは、辞書どころか文字そのものさえない言語(例えばお隣のアイヌ語とか)もたくさんありました。

私も外国生活経験者ですが、辞書よりも実施習得です。
辞書を何万回見ても、正しい発音ができるようにはならないし、聞き取りができるようにもなりませんから。
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聖徳太子の時代の日本は朝鮮半島との交流が盛んで、仏教なども入ってきており、上流階級の人間や僧侶は常識的に朝鮮や中国の人間と話が出来ました。


ちょっと後の時代になりますけど、空海は唐に向かう途中嵐で航路を外れ、福州長渓県赤岸鎮に漂着し、海賊と間違われますけど、福州の長官へ嘆願書を出して、無事長安に入京し、間もなく西明寺に行きますけど、これらは彼が中国語を理解できたということかと思われます。
このように古代日本には大陸の文化が流れ込み、知識人はそれを貪欲に吸収しますから、言葉の不自由は無かったと思われます。

尚、全く未知の言語を習得する方法ですけど、めちゃくちゃな絵を描いて現地の方に見せます。
そうすると大抵は「これは何ですか?」と訊いてきます。
ます、「これは何ですか?」という言葉が分かれば、次にいろいろなものを指してこの覚えた言葉を発音します。
 Q:「これは何ですか」→A:「りんごです」
 Q:「これは何ですか」→A:「犬です」
どんどん名詞が分かってきますから、これを書き留めていけば辞書が出来上がり、言葉が理解できるわけです。
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あなたの周囲に、日本にやってきた、外国人のかたは、いらっしゃいませんか。


ブラジルの3世の親子と、同じ保育園に子どもが通っていましたが、一番下の4歳の男の子は、1ヶ月で、日常会話に不自由しないくらい、日本語に通じていくのを目のあたりにしました。
3人兄弟なのですが、日本語の習得には、スタートラインは、同じなのに、おびただしい差ができました。
ジョン万次郎もそうだと思いますが、手製の辞書を作り上げるくらいの人は、いたと思います。
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NO5のかたの回答に誤りがあります。


通詞は江戸初期の頃から読み書きを習っています。そうでないと貿易業務自体をこなせなかったのでしょう。
延宝年間の商館長日記にも「奉行の命で少年達が商館員にオランダ語の読み書きを習っている・・・。」との記述があります。
またシドッチと新井白石の通訳には、今村英世(商館医ケンペルの日本研究の手助けをした。)がラテン語の筆記で通訳を行ったようです。
歴史的観点からは蘭学事始の記述は色々と問題がありますので鵜呑みにしない方が良いでしょう。
また解体新書が出される100年前に既に長崎の通詞により解剖書も翻訳されております。また杉田玄白らもわからない言葉については通詞に聞いたりしておりますので、杉田らが日本で最初にオランダ語を解し翻訳を行ったというのは大間違いです。
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古代の日本には、多数の人々が大陸あるいは朝鮮半島から渡来していました。


また彼らは、その高い教養と技術を持って政治の中枢に参加していたようです。
古代日本の支配者階層は、かなり(古代)中国語、朝鮮語が堪能だったのではないでしょうか。
また,奈良の平城京はシルクロードのターミナルといわれるほどの国際都市で、遠く西域や、アラブ、あるいはヨーロッパの人々が闊歩していたようです。通訳には事欠きませんでした。
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以前オランダに行ったときに、オランダ語、ドイツ語、フランス語、英語に堪能な青年に会ったことがあります。

どこで覚えたのかと聞いたら「友達に教わった」といっていました(英語は学校で習ったそうですが)。オランダというのはフランスともドイツとも近いですから、ご近所にドイツ系の家族とかフランス系の家族なんかがいるのでそういった友達から教わるんですね。つまり、言葉ってのはそういった環境で学ぶものなんです。どちらかというと、学校などで「学習する」というほうが語学習得としては特殊な方法です。質問者さんも日本語を誰かに習ったわけではないでしょ?

ちなみに、江戸時代のオランダ語の通訳(通詞)は代々口伝で親から子へとオランダ語が伝えられたそうですが、実は彼らはオランダ語は全く読めませんでした。というのも、幕府が彼らに読めるようになることを禁じたからです。聖書などの禁書を訳してしまったらいけないからです。
その誰も読めなかった文字を大変な苦労の末初めて翻訳されたのがあの「解体新書」です。前野良沢、杉田玄白らの苦労は想像に絶するものがあったと思います。(蘭日辞書が作られるようになったのはもっとずっと後です)
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こんばんわ。


一番メジャーなのは旧渡来人の子孫がいたからです。かれらが中国語を理解していました。勿論、朝鮮半島も漢文でしたから通用しました。
後の時代のなると、通訳は庶民、多くは商人やその使用人が務めました。貿易は民間が主にメインだったからです。貿易は勿論、相手国のヒトが関わりますから、付き合いが続けば自然とわかるのではないでしょうか。
江戸時代になると、主に坊さんがやっていました。なぜなら、お経は漢文だからです。また、他の言語は?の疑問ですが、大概の国は中国に朝貢していましたので漢文で十分でした。
江戸時代以降は知ってのとおりです。
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今の私たちでさえ外国語会話に苦労するのに、昔の人はどうやったんだろ? って思いますよね。


実は、その当時から通訳という人がいたのです。おそらく遣隋使以前、かなり昔からいたようです。多くは渡来人かその子孫や家来ですが、漂流民や中間地帯の商人(対馬や博多)、命じられて習得した人なども含まれていました。また、中国や朝鮮の方にも日本語通訳がいました。昔だからといって、そうバカにしたもんじゃないんですね。
通訳の存在については遣隋使や遣唐使、その他の記録にあります。
江戸幕府では、明確に職務として従事している人がいました。オランダ語、中国語、朝鮮語、琉球語で、幕末には英語、ロシア語の通訳も任命されていたようです。

参考URL:http://rakureki.fc2web.com/page025033.html,http: …
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遣隋使の前から、渡来人がいましたし仏教僧もいました。


まず日本人僧侶が彼らから中国語を学んだわけです。
外交は、日本人が中国語を覚えることにより、進められました。
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