プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

漠然とした質問になるかもしれませんが、お願いします。
結構親しい知り合いの一家が、創価学会だと分かり、全く無宗教で関心が無かった私は色々調べ始めました。

創価学会は、もとは日蓮宗が分かれて出来たものだと分かり、その特徴で、他の宗教をすごく否定する、ということが上げられるようですね。

それで、他の宗派はどうなのだろうと思ったのですが、ものすごく沢山の宗派があることが分かり、全く基礎知識もないので、少し調べるのに疲れてしまったので。。。質問させてくださいm(_ _)m

仏教の沢山の宗派がある中で、やはり他の宗派を否定するものが多いのでしょうか?
そもそも宗派を分ける時点で、他と区別するということなので当然かもしれませけど。。。

あと否定すると言っても、その程度も様々ではないかと思うので、大きく分けて、この辺の派はゆるいとか、この辺の派は強いとか、そういうのが大雑把にでも分かれば教えてください。

日蓮宗系のは、やはりその中で排他的な傾向が強いのでしょうか?

宗教に関して全く無知な者の質問ですが、よろしくお願いしますm(_ _)m
身近な人が、宗教をやっていると聞いて、ちょっとパニックになって、こういうことを調べる経緯になったので、今も少々混乱気味で、早く知りたかったのです。
仏教とは、お釈迦様として仏陀を拝んでいるものなのかと漠然と思っていたのですが、拝んでる対象は色々あるんですねぇ。。。

A 回答 (7件)

そもそも宗教の源である自然信仰は自然本位で自然を崇め、在るものを許容します。



しかし、自然信仰を捨てた非自然宗教は全てを人間本位で考えます。
つまり人間の一存で二極化させます。
これはこれ。あれはあれ。と「分別する」のが基本です。

わかりやすく説明すれば、
自然信仰はかなり曖昧思考。アバウト。柔軟性や創造性に富む。
非自然信仰は0か1かの論理的思考。イエスorノー。頑固親父。一直線。

宗教を学ぶなら、日本の民族学を読まれると良いですよ。
民俗学こそ日本教の原型でもあります。今でも生きています。
神道や仏教、キリスト教といえど潰すことはできませんでした。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
自然信仰と、非自然信仰の違い、勉強になりました。

2の方が書いておられる、”八百万の神”という信仰の方が、なんとなくしっくり来る、というあたり、私はやっぱり日本人なんですかね。
神様なんて、まともに考えてきたことも無いですけど。

民俗学、興味を持ってみようと思います。
何宗、というより、なんとなくそっちの方に、自分の感覚があるような気がします。

お礼日時:2006/12/03 04:00

貴方の質問の中に、誤りがあるため先ずはそれを正したいと思います。



>創価学会は、もとは日蓮宗が分かれて出来たものだと、、、
創価学会は、昭和5年11月18日に牧口常三郎初代会長と後の第二代戸田城聖会長によって設立された、(当時の)日蓮正宗の“信徒団体”です。
出家者(僧侶)では、ありません。

それを踏まえて、、、

>他の宗教をすごく否定する、ということが上げられるようですね。
・他の宗教の誤りを指摘しているに過ぎません。

>やはり他の宗派を否定するものが多いのでしょうか?
・他の宗教を否定するほど、自身の信仰する“宗教”を理解していません。他宗を攻められるはずがありません。

※日蓮大聖人時代に、“塚原問答”というものがあり、当時の諸宗の僧侶との法門対決があり、見事に大聖人に破折されています。巷にうろついている僧などでは、相手にならぬほど、(今で言う)高学歴な僧だったのです。

>大きく分けて、この辺の派はゆるいとか、この辺の派は強いとか、
・やはり、日蓮正宗系は強いです。何が正で何が悪かを、教義の上で明確にしています。

>仏教とは、お釈迦様として仏陀を拝んでいるものなのかと、、、
・日本に数多くの宗教がありますが、真に釈尊の教義に従い、実践をしている宗教は全くありません。皆無です。鎌倉時代でさえその状況なのですから、現在においてはなおさらです。

ただ、唯一。日蓮大聖人は、釈尊の成道の因を経文(仏:釈尊の説いた教典)から取り出し、現世に顕してくれました。いわゆる「南無妙法蓮華経」の本尊と題目です。中国の天台宗の僧、天台大師や日本天台宗の開祖、伝教大師も唱えていた題目です。現在の天台宗は、葬儀の時に法華経の方便品、寿量品、を唱えますが、本尊は全くでたらめな物に摩り替えられてしまっています。(第三代慈覚大師が持論を用いたことによる。)しかも、葬儀の時のお布施が少ないと、寿量品しか唱えてくれません。

※基本的なことは、下記創価学会HPにて、確認してください。
アクセスしても、電話や勧誘などありませんから、安心して覗いてください。

参考URL:http://www.sokanet.jp/sg/sn/index.html
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
少しずつ調べていたのですが、今のところ、法華経の考えを理解せずに、日蓮宗(創価学会含め)を否定することは出来ないと思いますし、同じように考えると、他宗教もすべて否定することは出来ませんね。
(ただ、違和感を感じる程度には宗教によってありますけど。)

今回色々調べたことで、宗教の問題がいかにデリケートであるかを理解できただけで、大変自分の勉強になりました。

また宗教には良い面もあると思うので、自分が関心を持てる範囲で、それぞれを知っていくことが出来たら嬉しいと思います。

お礼日時:2006/12/04 05:21

なるほど・・・



簡単に述べます。

他の宗教を否定するかしないかは、一神教か多神教かによります。
一神教の場合その神が絶対的なものであるから、反する者を当然否定します。

多神教は絶対的なものが多数ありますので、必然的に許容範囲が広くなります。

仏教は多神教です。

法華経には、簡単にいうと“法華経だけが絶対正しい”とあるので(あくまで簡単にいうとです)、考え方によっては法華経以外の教えは排除したくなるでしょう。
創価学会の拘りはここにあります。
しかし“諸法実相(法華経)”ですから、他の教えも真実の姿です。

また、日本は“八百万(やおよろず)の神の国”ですから、日本人は他の宗教に寛容的な民族ですね。

以下、余談です。

仏教会で日蓮宗の方々と話しました。

問「日蓮は折伏のイメージが強いですが、法華経の行者だから温厚で心が優しい方だったのではないでしょうか」
答「いや、かなり気性が激しかったと思います」




って、とこです!
それではゴキゲンヨウ!!! (^^)v
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
法華経そのものは、温厚な考え方の教えなのでしょうか。

他を排除する、という部分は、日蓮の考え方、という風に捉えても大丈夫ですか?

お礼日時:2006/12/03 03:56

真実は一つと考えるか、真実は複数あると考えるかですね


真実は一つだけど、他の考えも許容するか、許容しないかでしょう

仏法はインドにて釈迦が教えを広めてからですが、
1)釈迦の死後、僧侶達は釈迦の生前の教えを残すために仏典(経典)作りました(仏門に入った者:出家した者が対象でした・・出家しないと釈迦の教えを実践できないとされていた):原始仏教→部派仏教(小乗仏教)
2)その後、一般の民衆も(在家:出家していない者)そのままの状態(在家)で釈迦の教えを実践できるとする仏典(経典)が作られました:大乗仏教
3)2)の経典(サンスクリット語等)が中国に伝わり訳され(漢訳)それが後に日本に入って来ました
3)その教えを元に、奈良時代は南都六宗(法相宗、三論宗、倶舎宗、成実宗、華厳宗、律宗)が、平安時代に平安二宗(天台宗、真言宗)が起こりました
4)鎌倉時代に日蓮が天台宗比叡山延暦寺で学んでいた時に、法華経(妙法蓮華経)にこそ仏陀の本意があるとし(仏陀の教えの真意は法華経に有り他の教えは真意に至る過程)、下山後、南無妙法蓮華経の題目とと共に布教活動を始めました
5)布教の基本は、他宗教は全て、謗法、邪宗である(間違った教えである:仏陀の本意、真意ではない)として、これに対し折伏により帰依(自分の教えに従わせる)させる事が正しい事としました
6)日蓮没後、六老僧:弟子(日昭、日朗、日向、日興、日頂、日持)により各地に寺院が建立され・・・日蓮宗(法華宗):現在の日蓮宗の総本山は身延山久遠寺
7)六老僧の日興の建立した大石寺の流れを富士門流・日興門流と言い日蓮宗とは教義(日蓮の教え)の解釈の違いがあった
8)大石寺は明治45年に名称を日蓮正宗としました
9)昭和3年に、牧口常三郎、戸田城聖が日蓮正宗に入信し、昭和5年に創価教育学会を設立し(初代会長:牧口常三郎)、戦後昭和20年に戸田城聖により創価学会と改称され(昭和26年より二代会長:戸田城聖)
折伏大行進(布教活動)により、他宗攻撃、他宗改宗、を行い各地で問題が発生しました(基本的に日蓮の布教活動と同様ですから、他宗は邪教ですから不寛容です)会員所帯数は75万所帯
10)昭和35年池田大作第三代会長に就任後、さらに折伏により会員数を増やし、現在に至る(現在公称:827万所帯)
11)折伏(布教活動)による軋轢が問題になった為、近年はその方法は以前より攻撃的ではなくなっています

日蓮系では真実は一つです、またその度合いは日蓮正宗、創価学会により強いと思われます(逆に言えば他宗に対する許容度が少ない、無いとゆう事になります)
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
古い歴史から簡潔に書いて下さってありがとうございます。
大変参考になります。

創価学会もよく知らないうちは、なんとなくイメージで不気味でしたが、こういう歴史のもとに生まれた一つということが分かると、意味不明な不気味さは無くなりました。

共感はありませんけど。。。。。。。。。。

お礼日時:2006/12/03 03:53

日蓮系の宗派は、他の仏教宗派との関連は、薄いようです。


創価学会にかぎりません。

一方禅宗系の宗派は、他の禅宗系の宗派とは、かなり深い関係を持っているようです。

他の宗派に関しては、よく知りません。

>仏教とは、お釈迦様として仏陀を拝んでいるものなのかと漠然と思っていたのですが、拝んでる対象は色々あるんですねぇ。。。

仏教には、本尊が宗派によって異なるという特徴があります。
禅宗系では、釈迦如来を、浄土宗や浄土真宗では、阿弥陀如来を、密教系では、大日如来を、といった具合です。
(日蓮系は、阿弥陀如来でしょうか?)

これは、禅宗では、自らの修行により、解脱する事が目的であり、浄土宗系では、死後極楽に行く事が目的であり、密教系では、仏の大いなる力を手に入れる事が目的であるためです。
これらの宗派では、その目的に従う限り、あえて他派を排除する必要が無いために、他派を拒絶しないのかもしれません。

キリスト教世界では、特殊な場合を除き、他のキリスト教教派を認めています。
ただし、キリスト教の異端とされる、統一原理、エホバの証人、モルモン教、クリスチャンサイエンスは、認めません。

イスラム教においては、スンニ派はスンニ派内の、シーア派は同一宗派内のターリカ(スーフィー教団)の存在は認められています。
さらにスンニ派には、スンニ派公認4法学派があり、スンニ派では、この4法学派のいずれかに属する事になり、相互の存在を認めています。
ただし、ハンバル法学派に属するワッハーブ派は、ファナフィー法学派派を認めません。

イスラム教から分派したバハイ教では、全ての宗教は、同一の神が、表現方法を変えただけであるとして、全ての宗教を認めます。

この回答への補足

追加。
禅宗をちょっと見てたところ、なんかすんなり入るというか、思いもかけず面白そうでした。
考え方とか悪くなさそうですね。
なんかちょっと宗教に対してほっとしました。

補足日時:2006/12/03 05:10
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
禅宗系は、ちょっと目を通してみようかと思います。(といってもほんと浅い範囲ですが。。。)
日蓮宗系との違いが分かれば、まずは良いので。

>仏教には、本尊が宗派によって異なるという特徴があります。

これは仏教の特徴なのですね。
宗派の目的により、本尊が変わったり、他派の拒絶が有るか無いか、に関わってくるあたり、勉強になりました。

キリスト教、イスラム教、のお話しも大変参考になりました。

他派を認める認めない、は、宗教の新しい古いとはあまり関係が無いのでしょうか。
寛容な方が、考え方として進んでいるように思うのは、私の偏見ですかね。

お礼日時:2006/12/03 03:44

<参考にならないかもしれませんが・・・>


これはやはり世界的に見られるものであろうと思います。
歴史を紐解いてみると,ユダヤ教やキリスト教といった宗教には,「世界の終末が訪れた際には,我々のみが救世主(メシア)によって救われる」といった排他的な選民思想があります。
また,最近では「自分たちの文化(言語であったり宗教であったり・・・)は他の文化に優越している」といった「エスノセントリズム(自民族中心主義)」も世界的に見られるようです。
<稚拙な文章で申し訳ありませんm(__)m
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>「世界の終末が訪れた際には,我々のみが救世主(メシア)によって救われる」

これもかなり過激な感じがしますね。

宗教って、どうしても危ない悲しいイメージが付き纏います。。。;

お礼日時:2006/12/03 03:33

創価学会の場合は聞くところによると、他宗教を一括『邪宗』 として総括しているようです。

このことからも言えるように、とても強い排他的要素を含んでいるように思われます。また発足当時から蜜月関係にあった富士大石寺との紛争決別などは、一般人の理解を越える泥沼事件でした。
世界的に見るといまだに内戦・内乱・戦争が途絶えることはありません
必ずといっていいほどに宗教対立がらみであり、平和を願わぬ宗教はないハズなのに、こんな騒乱の有り様の元凶となる宗教とはなんぞやと!言わざるを得ません 質問の回答にはなりませんが、信者としては唯我独尊排他的になるからこそ、逆に心のよりどころになるということなのかも知れません。
宗教を誹謗中傷するつもりは毛頭ありませんが
信じると信じ切るは、似て非なるものですよね。宗教に限らず物事を信じ切るということは、ある意味洗脳状態となることですので柔軟な思考ができなくなり、その部分での後戻りは非常に難しくなります。ということでどうぞ慎重に考え見極めて下さい 最後はあなたの判断次第です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
『邪宗』という呼び方は、創価学会、または日蓮宗、特有のものなのでしょうか。
宗教同士で争うというのは、無宗教の私から見ると、なんか切なくなってしまいます。

>信者としては唯我独尊排他的になるからこそ、逆に心のよりどころになるということなのかも知れません。

それもそうだと思います。現に、私の知人にも(今思えば)その”信念”というものによる良い所もたくさんあると思います。
かといって、私は何派に属する、という生き方には何か違和感を感じるようです。

>信じると信じ切るは、似て非なるもの

そうですね。宗教に限らず、物事なんでも、間違ってた!と思って考えが変わる(変える)ことはよくあります。
それが出来なくなってしまうのは自分にとって危ないことですね。

お礼日時:2006/12/03 03:30

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!