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戦国武将 加賀00万石 前田利家のすごさを教えてください。

A 回答 (10件)

前田利家が参戦した戦は37です。


その中でも、近江箕作城の戦い及び越前金ヶ崎城の戦いでは槍をふるって敵の首を取っている。また、摂津・春日井堤の戦いは「堤の上の槍で」と信長に讃えられている。武勇に優れていた事は間違いありません。

慶長4年(1599年)2月、病躯をおして、利家は和解の実を示す為に伏見に家康を訪ねている。
また、同年3月、家康は病気見舞いと答礼をかねて、大阪城に利家を訪ねている。その際、利家は病状が悪化し、やっと床を這い出て中の間で家康と対面している。この二つの状況からも利家の「律儀さ」が窺えると同時に、家康が一目置いてた大大名利家の存在感を現しています。

石田三成は病中の利家を訪ね、看病と称して前田邸に詰めた。加藤清正、黒田長政、浅野幸長、池田輝政、福島正則、細川忠興、加藤嘉昭の七大名から逃れるためであった。七大名も利家の顔を立てて、三成に手だしをしなかった。ここでも、利家のすごさが窺えます。

意見の分かれるところですが、もし利家があと10数年生きていたならば、徳川幕府は生まれていなかったかもしれません。
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バサラですからねぇ。

彼は。
すんごい長~い兜をすてきに、かぶりこなします。
糟糠の妻であった、おまつ夫人が、冷や飯食いの時分の彼を見捨てなかったのは、見どころがあったためでしょう。
子どもに「父を見習え。あなたは、父の足元にも及ばない」と、言い切れる妻が他にいるでしょうか。
彼が、基礎を作った町、金沢は、今も、文化や、伝統を踏襲する、すてきな町です。
破綻のない円満な性格で、誤った選択をせず、今現在も、子孫が繁栄している。
これは、たいしたことだと、思います。
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利家は体格すぐれ、槍の又左といわれた剛勇の士ですが、合戦の軍略は平凡です。

  しかし形勢の判断が確かで、政治家、外交家としては抜群の、立ち回りの上手ないわゆるやり手です。  しかも経済家としてもすぐれ、当時家康と並ぶ算勘上手といわれました。  兵、金銀、米の計算に巧みで蓄財家でした。
これらが秀吉の死後家康が恐れた只一人の大名となった理由です。  加賀の一揆には手を焼きましたが、能登の平定には巧みな外交戦略をつかいました。   秀吉には娘を差し出して安泰を計でり、金に困った政宗などに、貯めた金銀を貸して親睦を計るなどです。
しかも死期をさとると、政宗や忠興など7,8人の大名の金子借用書を跡継ぎに見せ、「自分の死後味方になった者には返済を免除せよ」と命じました。   吝嗇ともいわれましたが、深い考えがあった訳です。 敵対関係にあった加賀一揆に対しても、文禄2年本願寺系の再興を許しています。
茶道、和歌、能なども好み書以外は、すぐれてはいなかったようですが、外交手段として利用しました。
毛利、上杉、伊達、島津より一段上のしたたかさを持った人物です。
 余談ですが私の好きな佐々成政は武勇にすぐれ、領民から慕われていましたが、正直一徹さでほろびました。  利家の十分の一のしたたかさ、ずるさがあればなあと思っています。
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賤ヶ嶽の合戦での利家の行動ですが、裏切りというより「遁走」と表現する方が正しいかもしれません。

押し寄せてくる羽柴軍と戦うのが怖くなり、接敵の前に自ら壊走したと。若いときから親しい秀吉と事前に通じていたとかいう話は、「敵前逃亡」の汚名を隠すためのフィクションだったと考えれば納得できます。羽柴軍の総大将である秀吉と事前に打ち合わせがあったのであれば、関ヶ原の裏切り部隊のように勝者の羽柴軍に合流すれば良いわけで、撤退時に損害を出すこともありません。

同じ賤ヶ嶽の合戦では、柴田側が攻勢に立った時に羽柴側の中川清秀が一歩も引かずに陣地を死守して全滅しています。利家が遁走を決意した時、清秀の「惨めな最期」(利家の視点)が頭を過ぎったことでしょう。この時点で中川清秀と前田利家は同じくらいの身代だったと思われますが、江戸時代には前田100万石に対し中川は数万石。なるほど、命あっての物種です。(笑)
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 「前田利家のすごさ」ですか。


 百万石の礎を築いたこと→数々の重大局面における判断に、誤りがなかったということでしょう。
 彼の最大の決断力を要したのは、賤ヶ岳の合戦で柴田勝家のもとを離れ、秀吉についたときのことでしょうね。
 これは裏切り行為には違いありませんが、当時と現代との倫理観は大きな差があると思います。
 親兄弟でも信用できない戦国の世です。皆生き延びるのに必死です。彼は勝家の家来ではありません。大先輩と後輩の関係でしょう。もちろん勝家には恩義を感じていたでしょうし、当時としても後ろめたさはあったと思いますので、苦しい決断ではあったったでしょうが、非情に徹し、誤りのない判断をしたわけです。
 戦国時代から江戸時代まで、沢山の大名の興亡がありました。
  1)小身者→大大名
  2)大名 →大名
  3)大名 →没落
 2)のケースの現状維持の大名でも、相当な人物だとおもいますね。 3)の場合は自分の暗愚を棚に上げて、家柄ばかりを誇り「世が世であれば」と嘆いている戦国大名失格者です。
 利家は1)の典型です。これは一にかかって彼の判断力の凄さによると言えます。
 極端な言い方をすれば、彼は確率50%のどっちに転ぶかわからない局面に、何回となく立たされたはずです。それを運もあったでしょうが、すべて間違いのない判断をしたということは、凄い人物、大した人物でしょう。
 また、自分の力をよくわきまえていたということも言えます。
(なんだかNO.5さんのご回答と同じことになってきました。ごめんなさい、NO.5さんのご意見に全面的に賛成します。)
 利家のような人物は現代の社会にも存在します。タイプはちょっと違いますが、不倒翁といわれた周恩来もそうですし、会社の中にもいますナ。
 3)のタイプの大名ならば誰でもできますが、1)は常人じゃできません。
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私はけっこうすごい人だったと思います。


なにがすごいというと、細川藤孝や今年の大河ドラマの山内一豊などにもいえますが、流れを読むという能力があったということです。また、自分の能力を見極めていました。自分は到底ナンバー1にはなれない、それならナンバー1になる人間についていく、ということを実践した人たちです。そのためには裏切りも辞さなかったのです。
歴史を後から見る私たちは、いかにも当然の決断をしたように錯覚しますが、実際にそれを実践するのはすごいことだと思います。
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前田利家が高く評価されるのは加賀百万石の基礎を築いたからです。


織田家の家臣団の中で幕末まで大大名で残ったのは
前田家ぐらいのものですし、何せ120万石ですから。
前田家は明治になって公爵家となり、現在まで続く家系です。
その開祖ともいえる人なので当然利家の業績は事実以上に
美化されるのは仕方がないでしょう。
実際の戦国時代の記録というのは我々がドラマで見るほどには
分かっていないので利家についてもそれほど分かっている
訳ではありません。

例えば賤ヶ岳の戦いで利家が柴田勝家を裏切ったとされていますが、
豊臣軍は前田軍を追撃して前田軍の武将もかなりの数が
戦死している、前田軍が府中城で豊臣軍の迎撃体制を
とっていた、敗走中の柴田勝家は前田利家に助けを求めている
などの事実から秀吉と利家の間に事前の取り引きは無かった、
秀吉側に寝返ったのではない等の説もあります。

利家の活躍と言えば織田軍による石山本願寺攻めでの
堤の上の槍といわれた奮戦が有名ですが、これにしても
土佐藩開祖の山内一豊の妻の内助の功みたいに藩開祖の逸話として
伝えられてきたものと見なすべきでしょう。

前田利家がすごいのはあくまで豊臣秀吉政権下で徳川家康に
対抗する布石として秀吉に用いられたことと織田信長の
直参として戦国時代を戦ってきた武将ということから
家康が警戒した存在だったというその存在感じゃないでしょうか。
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前田利家は、数千の兵を率いて鮮やかに勝利したとか、政治的に何か業績があるとか、はかりごとを巡らして主君を助けたなどの事績はありません。

彼が歴史に名を留めるのは「柴田勝家を決定的瞬間で裏切った」「加賀で大大名になった」ことだけです。

前田利家と比べますと、長久手の合戦で羽柴軍の面目を保った堀秀政、信長の娘婿になり器量を讃えられた蒲生氏郷、智謀で福岡50万石を得た黒田如水・長政父子、徳川軍の柱として家康の後半生を支えた井伊直政、関ヶ原の合戦で西軍に属して最後まで屈せず、戦後に大名に返り咲いた立花宗茂などの方が「すごい」武将です。

利家の経歴は、
1. 織田家の家臣としては平凡な経歴。柴田勝家の組下だったようだ。
2. 柴田勝家の下で能登(15万石くらい)を任される。明智光秀と細川藤孝の関係に類似。
3. 賤ヶ嶽の合戦で柴田を裏切り、柴田敗戦の決定的要因を作る。関ヶ原の合戦での小早川秀秋の役割に類似。
4. 羽柴軍に属した後は、柴田勝家攻撃の先鋒となる。(戦国時代の慣例で、降伏した者はそれまでの敵に対する先鋒となる)
5. 秀吉に引き立てられ、加賀と越中の一部を加えられて大大名となる。諸大名のうちで頭一つ抜けた官位の大納言を得る。五大老の一人となる。ただしこれといった実績はなし。
6. 柴田勝家と豊臣秀吉に非常な信頼を得ていた人物であることが伺える。極端な話、それだけで大大名になった男。
7. 吝嗇家であったと伝えられる。

利家が「律義者」とされるのは、秀吉が死んでから利家自身が死ぬまでのほんの僅かな期間に過ぎません。その期間に律義者であったことを裏付ける具体的な材料にも乏しく、律義者のイメージは後世に作られたものと見るべきでしょう。引き立ててくれた柴田勝家を決定的瞬間に裏切った点では、小早川秀秋と同じく「武士の風上に置けない」と評価されて当然です。

利家の子孫は加賀100万石の大大名となり、現在まで続いています。皇室・五摂家・徳川家に継ぐ名門となったといえます。利家が「律義者
と実際以上に讃えられるようになったのは、「前田家の始祖が裏切り者ではシャレにならない」からと思われます。実際、そのくらいしか褒めようがありません。
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 はじめまして。

平成14年の NHK 大河ドラマ「利家とまつ」の原作本、竹山 洋著の、「利家とまつ」という本があります。ただ、この大河ドラマは、史実に反する描写が多く(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A9%E5%AE%B6% …

 あまり評判は良くありませんが、彼の概略は分かります。

 また、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0% …

 には、詳しく書いてあります。
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 多分、すごくないです(笑)。

単に豊臣秀吉と若いころから近所で親しかったこと、賤ヶ岳の戦いの直前に秀吉方に寝返ったことで、地位を得た人です。
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