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タイトル通りです。

天下統一をはたした豊臣家は、何故事実上一代で滅んでしまったのでしょう?

秀吉びいきの父などは「正室に子どもができなかったからだ」などと言っているのですが、養子や側室の子どもが跡を継ぐなんてよくあることだと思うし、これが原因とはならない気がするのですが…。

私が考えたのは
・家康が際立って有能な上、際立って野望マンマンだったから。
・秀頼と淀君が無能だったから。

かなー。と思ったのですが、全く根拠はありません。感覚的な感想です。

歴史に詳しい方、詳細を教えていただけないでしょうか。

A 回答 (7件)

「秀吉が秀次を殺してしまった」これが豊臣政権にとって致命的であったという見解があります。



秀次の事績を詳しく見ると決して無能な人ではありません。秀次が1591年に関白となり、秀吉の後継者として認知されると、多くの大名が秀次に忠誠を誓い、秀次は無難に政務をこなしています。文化人としても及第レベルであったようです。逆に、秀次が無能であったとか人望がなかったという具体的な証拠(同時代史料)はありません。

伊達政宗、最上義光、細川忠興のような、関ヶ原の合戦以後まで見事に生き残った有能な大名たちが秀次と親密であったようです。秀次の人物の大きさが推定できます。

秀次が「殺生関白」と言われる奇行を繰り返したという話は、秀次を悪者にするための創作と見てよいと思います。また、秀次とその家族を地獄に突き落とした「秀吉の実子・秀頼の誕生」ですが、秀頼が本当に秀吉の子だったのかは極めて疑わしいと思いますね。これは私見ですが。

秀頼が登場せず、秀次が豊臣政権を確実に受け継いてから1598年に秀吉が死んだとします。史実では関ヶ原の合戦があった1600年に32歳となっている秀次は、まったく異議なく関白として国家運営を継続したでしょう。豊臣家の家臣に過ぎない徳川家康による政権奪取など、誰も夢想もしなかったはずです。家康は一人の大名として生涯を終えることとなったでしょう。

国力を浪費した朝鮮出兵は行われず、聚楽第の破壊、肥前名護屋城や伏見城の建設といった無駄な大工事も行われません。恐らく、16世紀最後の10年間の日本史はまったく違った平穏なものになったでしょう。

実子がなかった秀吉や弟の秀長と異なり、秀次には4人の男子の他何人も子供がいましたので、秀次の死後(1630年代?)に後継者を巡って世が乱れることもなかったでしょう。この時代、権力者の重要な仕事は「後継者を確実に作ってお家騒動を防ぐこと」ですから、秀次はこの点でも合格です。

家康は多くの男子を儲け、彼らが「御三家」といった形で別家を立てて徳川家の権力継承をサポートしました。秀次の多くの男子(史実で死んだ時点で4人、その後もどんどん生まれたはず)は、長男以外は別家を立てて豊臣家の柱石となります。秀次の娘たちは、有力な大名の正室となり、その大名家と豊臣家との関係を深めます。要するに、家康や秀忠がやったことを秀次がやるわけです。

ウィキペディア 豊臣秀次 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3% …
秀次の子孫がずっと関白位を継承し、「江戸時代」ではなく「大坂時代」が17世紀後半から続く、という形になったと推定されます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
豊臣秀次!歴史オンチの私は彼の名も知りませんでした。すみません。でも名も知れぬ人物が歴史を変えたかもしれない…というのは興味ありますね。ともかく、秀吉は後継者育成に力を入れるのが遅すぎた(もしくは力を入れていなかった)ということかもしれませんね。

お礼日時:2006/12/24 19:10

>「正室に子どもができなかったからだ」


>・家康が際立って有能な上、際立って野望マンマンだったから。
>・秀頼と淀君が無能だったから。

上のことは全部当たっていると思います。
 正室に子供がいたら、当然跡継ぎはその子供になっていただろうし、しかも秀吉死亡時には、その跡継ぎはもう壮年であったと考えられます。
 子飼いの大名、福島正則や加藤清正ほかは正室に育てられたようなものですから、家康につくようなことは起こり得ません。
 前田、毛利、上杉などの大大名も、関白太政大臣の跡継ぎに従うでしょうし、家康も抵抗できないでしょう。
 その跡継ぎが暗愚でない限りは、豊臣家は続いたと思います。

 さて、北の政所に子供が実際に生まれなかったんだから、家康VS淀君秀頼のどっちがエラかったかということになるわけです。
 結果から見て、家康の方が有能であったということには違いありません。関が原の合戦以降、秀吉子飼いの大名までも家康についたということは、三成憎しのことはあったでしょうが、やはり自分が大事、誰に付いたら生き残れるかということを、冷静に考えた結果だろうと思います。
 関が原で他の豊臣方の大大名も、まともに戦っていませんね。家康が怖かったんです。家康の有能を認めていたんです。
 この時代の大名は、後の徳川時代のような忠君思想には染まっていません。どうやったら生き残れるかということを第一義に考え、行動していたと思います。
 淀君秀頼サイドは、本当の家来はほとんど持っていないわけです。大大名も秀吉が存命のときは、秀吉が怖いから形の上で臣従していただけです。
 だから、淀君秀頼サイドは諸大名の力のバランスの上に、うまく乗っかるより仕方ないわけですが、その乗っかり方が上手でなかったんでしょうね。結果から見てそのように思います。 
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
私や父の「素人感想」も「当たらずとも遠からず」だったのですね。その後豊臣サイドについた石田三成の問題もあったようです。家康は三英傑の中では最も人気のない大名だと思うのですが、皆様の回答を読んでいるうちに、なんかとても偉大な人に思えてきました。

お礼日時:2006/12/24 20:46

いくつか大きな問題はありますが、最大の問題はあの一族の繁殖力の低さです。

秀吉だけではなく一族全員。
たとえば、秀吉自体には異父含めて数人兄弟姉妹(日秀、豊臣秀長、朝日姫)がいますが、彼らの子供を見てみましょう。
まず、秀長。子は2人のみ(あの当時、この数字は相当少ないのです。もちろん0と言う人もいますが。)でしかも女性。
朝日姫にいたっては子がいたと伝わっていません。
そして、秀次の生母である日秀。彼女のみがある程度の子孫を残しており、秀次、秀勝、秀保の男子3人です。

つまり、秀吉の一門であり、かつ配偶者であるねねの系列を除くと、日秀の残した3人と、秀吉晩年の子である2人(1人は存在が怪しいので除外)であり、しかも1人は幼年期で死亡。残る一人は秀吉が死んだときにまだ子供。秀勝、秀保は早世。まともに生きていたのは秀次と秀頼しかいません。

秀吉の場合、側室多数なのですから、あの地位にいれば10人、20人子がいてもおかしくない位置なのです。
しかし、わずか2人。しかも晩年です。本来ならば死亡時に40歳くらいの子がいても、不思議ではないのです。壮年期の実子を残せなかったのが、彼の問題のひとつです。
また、家康のように「婚姻」を外交戦略として使えなかったのも問題です。結局これは繁殖力の低さが原因なんですけどね。養子を放り込めば、その家とは不和になりますし(はっきり言って、この方法って送られる側は面白くないのです。家を乗っ取られるわけですから)。諸外国でもそうなのですけど、波風立てずに関係を良好にさせる方法で最も上なのは婚姻なんですね。結局。

もうひとつは下の人が言っているように秀次事件の問題です。
これが、最大の愚行とされるのは、No2の方がいっているとおりです。最上なんかは愛娘を殺されていますから、心穏やかではなかったでしょう。もともと彼は家康とのかかわりがかなり強かったのですが、いっそう家康に近くなったのは疑いがありません。
ただし、秀次の器量を考える際には要注意であり、特に武の面で不安が残ります。
当時、いわゆる武功派(福島正則、加藤清正等など)と官僚(石田光成等)の軋轢が酷く、最悪分裂の危険性もありました。秀次の場合、明らかに官僚的な人物であり、武勇に疑問が残りますので(特に小牧・長久手での大敗が悲惨です)、福島や加藤が家康に近寄った場合、家康は戦国的手法で天下盗りに乗り出すことは十分可能です。
また、この軋轢は、豊臣政権自体の内包した問題ですから、難しいところでしょう。最悪秀次の代、しかも初期の段階で解消しないと間違いなく崩壊に直結する問題です。豊臣政権の問題については下記URLの私の回答を読んでいただければ、おおむね分かるかと。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2536827.html
問題は秀次にそれだけの器量があったかどうか。一般の評価が不当に低いのは間違いないのですが、政権の抜本的な改革を出来る人物か・・?というと、ちょっと微妙ではないでしょうか。
なにせ、家康が死ぬ16年間、政権を維持し切らなければならないのですから。この点、家康の後継者である秀忠とは少々状況が違うのはわかるかと。

また、家康政権と秀吉政権の違いは、諸大名のパワーバランスです。
秀吉政権の場合、結局は「大名連合」なのです。たとえば、徳川を筆頭に、毛利、上杉、前田といった、100万石クラスの大名が結構残っていまして、彼らの力が非常に強いのが問題です。五大老なんていう大名連合が政権に参画していること自体、豊臣家の基盤が脆弱なのは明らかです。また、秀吉存命中の家康への仕置きのように、豊臣家であっても手出しできない部分が多く、このあたりも弱かったのです。婚姻の問題は先に言ったとおり。

方や家康政権では、表石で100万石以上を有していたのは主家である徳川とその一門、外様で出費を強要されて財政破綻している前田家しかありません。しかも譜代をうまく配置し、堅固な基盤を作り上げています。
また、婚姻も女性たくさん一族にいますから、どんどん行えました。家康が2年であそこまで豊臣政権を切り崩せたのはこれが大きい。

まあ、こんなところでしょうかね・・・ついでに言えば、秀次が継いでも家康に切り崩されてジリ貧なんて可能性もありますし、最悪家康が「豊臣秀頼こそが正当なる後継者であり、秀次は養子でありながら亡き太閤殿下の実子から政権を奪った逆賊である」と言ってしまえば、武力行使の正当性も出せるのですよ、これが。発想の転換ですけど、可能です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
側室が何人もいたのに子どもができなかった、言われてみればその通りです。女好きとの評判とは裏腹に、実は女性が好きじゃなかったのかな?…とっとっと「一族全員」なのですからそういった理由ではありえませんね。冷徹な合理主義者のようで「婚姻」を戦略として扱えなかったというのも、「身内に対しては話は別」という弱点(よくいえば情)があった人物なのかもしれません。秀吉に対する印象がいろいろ変わってきました。

お礼日時:2006/12/24 20:37

いくつか挙げれば・・・



1武家の棟梁では無かった事。
これははっきり言って秀吉の力じゃどうしようもありません。秀吉が尾張の農民出身だったことは既に周知の事実です。流石に秀吉は実母と実父との子では無く、さるやんごとなき御方と実母との間との高貴な御落胤であると主張し太閤に就任しています。
一方で征夷大将軍への就任は源氏の血筋限定という慣例が成立して久しくこれが不可能だった事によります。
これがどういう意味があるかというと現在でいえばミリタリー(武家)への指揮権が無いシヴィリアン(公家)の頂点に立ってしまった事です。もっともこれは秀吉の実力によって武家への指揮権は確保していましたが死後はそれだけの実力者が不在となった事も原因の一つといえるでしょう。

2基盤の脆弱さ
これもまた秀吉の力ではカバーしきれない部分です。
簡単に言えば譜代の家臣が居ない事に尽きます。勿論、加藤清正らをはじめとした家臣は多く居ますが彼らとて譜代大名の初代なのです。譜代の強みとは戦力の安定的な供給と多少の無理な命令が行き届くところにあります。この弱点が露呈したのは小牧・長久手の戦いです。
この戦いでは秀吉軍は圧倒的な戦力で家康と戦っていますが結果は良くて互角。下手したら家康側の戦術的な勝利とさえ言える戦いです。反論として家康は秀吉に降伏した事実もありますがこれは同盟者の信雄が無断で単独講和してしまい事実上孤立してしまった為の事です。
さて、この戦いも含めた秀吉軍の戦力は単純に一枚岩ではありません。内部では戦功争い・秀吉への微妙な反感(彼らと秀吉は少し前まで同僚・先輩の関係でした)があり確実に命令が遂行される保障が無かったのです。一方家康は譜代でありまた多くの苦楽を分かち合った関係であった為相当に命令が遵守されています。家康がいかに海道一の弓取りと謳われていても率いる部隊が命令を守らなければ戦術的な勝利さえもおぼつかなかったでしょう。






個人的にはこれまた動かしようが無いのですが秀頼の生まれが遅すぎた事が響いていると思います。あと30年いや20年早ければ晩年の秀吉の甘やかしも無く北の政所らの養育を受け初陣を飾り日本各地への遠征に従事し大名達にその実力を認めさせる・・・そんなシナリオもありえたはずです。秀頼が英明な主君であった証拠はありませんが少なくとも淀君の養育を受ける事は無かった筈ですから無難なラインには収まる可能性は十分にありえたと思います。
ここまで淀君に対しての評価が厳しいのにも理由はあります。
関ヶ原以後の寺社への過剰な寄進・清正らの譜代への高圧的な態度を取った事による戦力低下等は最たるものです。聚楽第の建設等は浪費と言えるかも知れませんがそれとて財力の誇示としての側面はあります。また譜代への態度としても同じ事を淀君と北の政所とでは影響は相当に違ってくる事でしょう。
ここまで来ると彼女は確信犯的とさえ思えます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
「下克上」「立身出世」「一介の農民から天下人へ」 秀吉人気の理由は、平民から大政治家に成りあがった秀吉の生き様にあるのでしょうが、それが結局は彼の弱点でありそれを超えることができなかった、というのはなんだか切ないですね。

お礼日時:2006/12/24 20:18

よく秀吉は文治派を可愛がりすぎて、武断派に冷たかったという意見があるけど本当にそうなのだろうか?


むしろ逆で武断派を可愛がりすぎたのではないか。
例えば朝鮮出兵も武断派に働き場所を与えるためではなかったのか。
秀吉としては清正や正則はやはり可愛かった、戦もなくなってくすぶっていてぐちをこぼされると何とかしてやりたいという気持ちになったのではあるまいか。
もちろん三成は反対しただろう、あまりにもリスクが大きすぎる。
しかし秀吉にそれらを十分に承知の上で何とかしてやりたいといわれれば、三成も不承不承に従わざるを得なかったのではないか。
もちろんふたりの間には武断派のガス抜きが出来た適当な時期に引き上げるという密約はあったろうし、そのためのお目付け役としての行長には因果が含められていたのだろう。
しかし政治オンチの清正は働き場を得て行け行けどんどんとばかり暴走してしまい、行長にも止められなくなってしまう。
慌てて清正を呼び戻すが、清正としてはうまくいっていたと思っていたのにこういう事態になったというのは、きっと三成が何か仕組んだと思うし三成は三成で清正の政治オンチに苦虫をかむ思いでも、秀吉との密約をばらすわけにいかないので自分を悪者にしてその場を乗り切るしか手はなかったのかもしれない、結局こういうことが必要以上に内部の対立を生む。
やはり秀吉は非情といわれても、戦がなくなって働き場を失った武断派を切るべきで、それができなかった秀吉はトップとして失格、それが豊臣が短命に終わった一因でもあるのではないか。
その点家康はその秀吉の失敗をじっくり見ていて、二の舞はしなかった。
関が原の後にいわゆる徳川配下の武断派は政治の中枢から遠ざけられてしまった、大久保彦左衛門の「三河物語」における怨嗟の声もそれを示している。
徳川政権があれだけ続いたのを見ても、やはり秀吉は武断派に執着しすぎたことが大きな失敗だと思う。
(一部推測が混じっています)。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
歴史オンチの私は、秀吉が武断派を冷遇していたと言われていたことも知りませんでしたが、朝鮮出兵が働き場を失った武士達の為のものだった、という話は聞いたことがあります。歴史上の人物は、語る人によって全く評価や視点が異なっていて、それがやはり歴史の面白いところですね。

お礼日時:2006/12/24 20:13

既に詳しく解説があったので、此れは異見として述べたい。

日本の祭り事は天皇家でも後継ぎの祭りを重視した。よって曲がりなりにも2000年の皇統を維持した。此れは世界に比類ない文化遺産である。

それが今の大嘗祭に伝わっている。庶民の場合も血筋や能力によって後継者を決めた。ただ大義名分がなくては人は従わない。信長の後継者を秀吉が標榜するなら先ず大義名分として、信長の墳墓と寺社を建てて盛大な祭り事としなければならない。

日本の伝統は武力や金力よりも此の祭り事にあった。広く大衆に支持されるものが此の祭り事の正当性であり道理となっていた。所が秀吉は本能寺を別の所に再建したものの朝鮮出兵などに目を向けてしまった。

其れもまた今で言う公共工事、箱物作りの政治なのであろうが、これは必ず利害の対立を生む。戦争ならば恨みを残す。其れを見た家康は東照宮を遺言とした。

よって此の霊的な基盤により徳川300年の平和を維持できた。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
よくも悪くも「成り上がり」の秀吉は「霊的基盤」を重要視していなかったのかもしれません。#1様の回答から「では徳川家が続いた理由は何だろう」と疑問をもったのですが、家康は霊的基盤を重要視したということですね。

お礼日時:2006/12/24 19:15

トップが死ねば次は誰が?という問題は常に起こります



秀吉自身、信長の死後織田家から政権を奪いましたし、自分だけ世襲制でお願いしますとは虫が良すぎるでしょう


おねも家康か利家に・・・と思っていたらしいですしね
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
なるほど、豊臣家が特殊なのではなく、世襲制を確立した徳川家が特殊だったのですね。

お礼日時:2006/12/24 16:31

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