プロが教えるわが家の防犯対策術!

●最近わたしの長年の哲学研究の成果ともいえる「意識のファッションショー」
 というスレッドが削除されてしまいました。ふと 思いました・・・。
 なるほど哲学するということは いとも簡単に既製の概念やモラルや
 倫理や規範を超えてしまうのだなぁ・・・と。

 越えまい越えまいとするから まともに哲学できない。越えていいじゃないか。
 いや 一歩すすんで越えてしまおう!

 みなさんの哲学する視点は「どこ」の高さにありますか?
 また もっとも高い視点とは あらゆるものを俯瞰できる視線 それは
 いったい「どこ」だとお考えですか?ご意見教えてください。

A 回答 (31件中11~20件)

●また、わたしです。


ご免なさい、もうこれでホントに最後にします。
おまけにまた学んだことをカキコもうとしています。
イヤなら無視して下さって結構です。

下のカキコみで、知識の披露に見えそうなので
削った部分を復活させます。

>その時点でA自信の考え方を俯瞰することはできないわけです。
(中略)
 普通はここでおしまいです。
 でも わたしなら こうします。
 視点とは考えない領域と定義しなおすのです。

以前、否定神学なるものを学びました。
観念的には理解出来るような気になったあとで
生理的に違和感を感じました。
何か、本能が「それは間違っている」と言っているように思いました。
でも頭が悪いので何が間違っているのか分かりません。

上記のレスの引用部分を含むあなたのお考えは
否定神学と同種の思考のように感じました。
(だから良くない、とか、聞くに値しない、などと
いっている訳ではありません)
いま、あのときと同じ違和感が蘇っています。
私もその辺に興味があるのは事実ですが
今は考えても閃かないので放っといてます。
(そのうちピンと来るとウレシイな)

例えば否定神学問題の構造をモチーフに
法月輪太郎が推理小説のトリックをつくることに挑戦しています。
彼は、かつてエラリイ・クイーンが
(哲学における)ゲーデル問題の構造をモチーフに「Yの悲劇」を書いたことに触発され
自分のテーマとして応用していますが
(法月輪太郎がそう言ってました)
私のレベルでは「そういうのって面白い」ぐらいで
そこを掘っても泥沼化するだけじゃないの?と思ってしまいます。
まあ、切実な問題として実感出来ていないんでしょうね。
正直、実利に寄っているという自覚があります。

さいなら。
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この回答へのお礼

●たぶん あなたが 生理的にうけいれがたい感じを覚えたのは。
 単一化への恐怖だと思います。
 どれほど正しい論理であろうと 多様性を否定してしまう力が生まれる
 可能性のあるものは 排除するべきでしょう。
 しかしながら 時間と空間において 単一化して論じたものが
 多くの枝葉に分かれて 現実に繋がる構図をみてとれるのなら
 その単一化は 受け入れられるべきです。
 なぜなら それを真理と言うからなのです。
 時間はあります ゆっくり考えましょう・・・。

>哲学の「視点」の「高さ」ですが、高さも「視点」です。
 つまりこれは「視点」の「視点」を問うという自己言及的な質問であり
 トートロジーになっています。
 ●「視点」とは名詞です「高さ」は形容詞の高い低いの度合いを示す名詞です。
  つまり視点の高さとは 視点の高い低いがどうなの?を問う設問なのです。
 これくらい普通にわかってくださいね。

 ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2002/05/14 00:58

さて、またあなたの嫌いな勉強、というより


解釈論の話をあえて致します。
哲学の「視点」の「高さ」ですが、高さも「視点」です。
つまりこれは「視点」の「視点」を問うという自己言及的な質問であり
トートロジーになっています。
だから、最初は質問の意図が分からず
よって何回かカキコみを重ねながら
その真意や背景を考察させて頂きました。
中には挑発的な発言もしました。
もし気分を害してしまったらお詫び申し上げます。

さて、この質問に対し私は以下のように考えます。

俯瞰しようとする志は大切だと思います。
ただ、本人が俯瞰を意識しても
実際の行為としては「視点を変えた」にすぎないと思います。
実質的に大事なのは想像力を駆使して
視点をたくさん獲得することだと思います。

そして、その際、あまりに「俯瞰すること」にこだわると
その自意識が偏見となり
かえって視点を限定してしまうのでは?と危惧します。

俯瞰を志して見えてくるのは「いろんな見方/見え方」がある
といった程度だと思い
結局は自分の見方を選ばないと先に進まなくなります。

この時、私はこれまで
観念よりも「直感」「本能」「生理」のようなモノを重視してきました。
きっとこれからもそうです。
まあ、感覚的にいえば
さんざん情報を詰め込んでから、啓示がやってくるのを待つ
という感じです。
あたりまえ、といえばあたりまえのことをやっています。
でも、それでイイと思ってます。

大切なのは考えるよりも「動き」そして「感じる」ことを繰り返すことだと考えています。
↑これまた教条的な・・・
このとき全てを俯瞰する、といった頂点の想定は
私には終着点/限界のようなモノに感じられます。

まあ、これは「考え」といいより「姿勢」のようなもので
あなたのおっしゃる通り「そういうのもあるのか」くらいのコトです。

>哲学をすることは、科学ではなくとも
 科学する人間に方向性を提示できるのです。
逆を言えば、科学も経済学も哲学から生まれるものです。
利己的な遺伝子もミームも、元は(ドーキンスの)哲学ですし
現代経済学はスミス、リカード、ケインズの哲学が生んだものです。
哲学は、考えているだけでは世の中は動きませんが
実践することで世の中が動き始めます。
解釈論ではありません。
いいだしっぺが他者を巻き込むのです。

現に、あなたの質問が、他者を巻き込み
このスレッドが動いています。
それなのに
>削除するかしないかはgooさんの問題で
 わたしの問題ではありません。
は、ないでしょう。
もはや「わたし」でなく「われわれ」の問題なのだから。

つまり、いろんな視点を考えて
その前にまず、自分の居場所をしっかり自覚して
さらに相手の目線に合わせる努力もして
でも最終的には自分の直感に従う、と
まあ、そんな感じです。

おしまい。
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この回答へのお礼

●CUE009さんが おっしゃるように たくさんの視点を持つことは
 とても大切なことだと思います。
 ここでわたしが提起している問題は
 いかにすれば よりよく考えることができるか ではないのです。
 たとえば ガリレオが教会から嘘つきとして告発された事実。
 現代人であれば 多分多くの方々が ガリレオを支持しますよね。
 ガリレオの時代に 教会の考え方のワクのなかで 思考しても
 つまり 視点をどれほど多角的にしてみたところで ガリレオには
 なれないであろうと思うわけです。
 現在の天文学ですら 星の運行をシミュレートするのは 天動説であると
 聞いたことがあります。天動説の時代に地球がまわると言えるのは
 すごい飛躍だと思うわけです。
 酒鬼薔薇聖斗が現れたとき 三島由紀夫の午後の曳航を連想した方は
 少なくないと思います。モラルや規範を超えて思考してしまうとき
 多角的な視点というよりも 単一的にとがった先の視点を感じるわけで
 その鋭角故に 高みを見るのだろうと推測するわけです。
 こどもに 親の成しえなかった夢や 引け目や 劣等感 希望を押し付けない
 これは 三島に教わった 我家の子育ての教訓です。

>観念よりも「直感」「本能」「生理」のようなモノを重視してきました。
 ●観念とは 根拠のない概念を 指します。わたしなら 観念ということば
 の代わりに「既存の概念」と断言します。あやふやな言葉は言いたいことを
 あやふやにしてしまいます。

 あなたのお考えはだいたいわかりました できればもっとアバンギャルドで
 あってほしいものだと ちょっと感じました。
 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/05/14 00:26

>独創性ということに すこし触れます。


>こんなことを考えます。独創性とは学習の先にあるので
>はなく。 いかに 殺ぎ落としたか その先にあるもの
>じゃないか? と。

このことは理解できます。というより私も実践しています。
主に職場でですが、仕事情の難問にぶち当たり、過去の
経験がまったく役にたたないケースがあります。
(変化の激しいIT産業で働いているもので)

そういう時には、いったん自分の過去の経験をいったん
切り捨てて、頭の中を空白状態にします。
その状態で、人にいろいろ聞いたり、インターネットや
文献で新しい情報を探してみます。

それでも駄目なら、もう一回頭の中を真っ白にして、深く
思考します。そうしていると、不思議なことに新たなアイ
デアや知恵が浮かび、問題解決の糸口となることを、頻繁
に経験しています。


>真理はだれにもわからない。だからだれが一番真理に
>近いかもわからない。
>大切なのは独創性だと感じています。

絶対的な真理は、たしかに私もわかりません。
しかし、ある考えが真か偽かは、考証や検証を重ねれば
判断できます。
様々な事態を想定し、考察を重ねます。時には科学的な
知識も動員します。
そういった考察を重ねていけば、その考えが普遍的に真
なのか、ある限定された条件下でのみ真なのか、あるいは
偽なのかが判断できます。

独創性おおいにけっこうです。
しかし、その独創的な思考の結果が、本当に真理なのか
どうかを判断するには、考証・検証という過程が必要なの
ではないですか。

普遍的な真に近ければ近いほど、その考えは真理に近いの
ではないかと、私は考えています。


>だから こうして述べているわけです。
>考証・熟考するにも 個人差があるわけです。
>あなたが考えておっしゃってることは すでにわたしの
>過去の考証なのです。
>ほんとうは お答えするもの辛いんですが(繰り返しな
>ので)

確かに、同じ内容を何度も記述するのは面倒な作業です。
過去に考証して、その内容をどこかで発言しているので
あれば、その箇所を記述してください。
OKWeb/教えて goo!であれば、URLと発言Noを記述して
くれれば、きちんと読みます。(少なくとも私は)

しかし過去の考証があなたの頭の中にしかないのであれ
ば、それはきちんと発言しておかないと、誰もあなたが
過去にどういう考証をしたか、理解することはできない
でしょう。
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この回答へのお礼

●おっしゃることは たいへんもっともなことだと思います。
 まず 哲学は科学ではありませんから わたしが言っていることを
 鵜呑みにする方は 無いと思います。そういう考え方もあるのか くらいが
 ただしい受け方というものです。
 わたしは 科学者ではありませんが 以前バイオの研究機関を立ち上げて
 その母体の会社事態が思わしくなくなり 解散したことがありました。
 哲学をすることは 科学ではなくとも 科学する人間に方向性を提示
 できるのです。そのような観点で わたしの話はお聞きください。

 わたしの過去の考察は 別にとりたてて見るほどのものでは ありません。

 ただ恐竜にかんしては cse_ri2さんがおっしゃるようなことは
 すでに考えましたと 言ってるだけです。事実ですから・・・。
 
 とにかくcse_ri2さんは 神の視点が一番高いとお考えなわけですね。
 かたくなだとは おもいますが そのようにしておきましょう。
 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/05/11 01:02

>哲学することと 学ぶことは


 ちがいますよといっているわけです。
どーしてそーなるの???

あなたが
>あらゆるものを俯瞰できる視線 それは
 いったい「どこ」だとお考えですか?
と質問するから

私は
>>あらゆるものを俯瞰できる視線
>など、ありゃしない。
と答えただけです。

私はそう考えているが、それはフッサールをきっかけにしている、と
わざわざ過去の考証体験まで明示したんじゃないの。

さて、あらゆるものを俯瞰できる視線などない、と答えると
これまた過去が繰り返されれば「神の視点」が出てくるだろう、と。

で、私はまえまえから「神には根拠などない」と考えております。

ただ、やっぱり過去にもそー考えた人たちがいたんで
これまた正直に事実を書いておくからさ。

何で過去の検証をしたか?というと
独創性を意識したからでしょ?
もちろん過去の検証はひとつの手法に過ぎないが
一方で最も普及したやりかたであり
実際あなたも
>わたしの過去の考証
を通過しているんでしょ?

自分の過去の考証体験を明かしているのは
>ウソとは たとえば
 他人の考え方をいかにも自分が考えたかのように
 申し述べることをいいます。
などと曲解→脱線していくと困るからです。
温度差を解消したいから、手の内を正直に明かしているんです。

だからさ
>>あらゆるものを俯瞰できる視線
>など、ありゃしない。

>わたしが 簡単にその壁を乗り越えてご覧にいれましょう。
話を外らさずに乗り越えてご覧よ。

>社会は哲学では 動きません。
私はそーは思いません。
見方/見え方は様々であり
個人差は解消されずとも
触発はあります。
触発は人を、社会を動かします。
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この回答へのお礼

●わらゆるものを俯瞰できる視線などありゃしない
 その根拠をつけくわえるべきです。ことばは 唐突につきつけられても
 さまざまに その根拠となる状況が想定できてしまうわけで
 焦点をしぼる意味で根拠も併記するべきです。でも とりあえず答えて
 おきましょう。(あなたのその真意はよくつかめないけれど・・・)
 ここでわたしが提起している設問とは
 例えばソクラテスが裁判で有罪になったように
 規範やモラルを有する社会において その社会の持つ視点を超えて哲学
 することが その規範やモラルを超えてしまうという ごくリアリティのある
 設問なのです。しかし もし すべてを俯瞰しなければならないとするなら
 まず リアリテイを無視してみる とにかく俯瞰できることにこだわる。
 さて 俯瞰とはどういうことをさすのか が まず考察されなければ
 なりません。ソクラテスが俯瞰したのはソクラテス以前の考え方です。
 つまり 俯瞰とはその全てを見る視点を言います。ここで光学的な発想は
 やめてください(前を見れば後ろがみえない)。あくまでも論理的に
 考えてください。つまりあるAという考え方でBという考え方を俯瞰できても
 その時点でA自信の考え方を俯瞰することはできないわけです。
 つまりすべてを俯瞰できるとすれば考え方すらない「無」という視点で
 あれば俯瞰できるのです。しかし無では考えることができない。
 普通はここでおしまいです。
 でも わたしなら こうします。
 視点とは考えない領域と定義しなおすのです。
 つまり ソクラテスは考えない視点がまずあり そこにいちばん近いところで
 考えたと定義しなおすのです。するとどうでしょう
 無を視点として全てを 俯瞰して そこに一番ちかいところで考えれば
 全てを俯瞰した視点で考えることができるでは ありませんか。

 あとなんでしたか

 社会は哲学でも動くということですね。
 星の光でもひとは触発されますよね
 でも星の光で社会が動くとは言いませんよね
 星のひかりや 哲学で社会が動いたと感じる
 社会の到来までは あと50年はかかりますよ。
 わたしは ごく一般論を言ったまでです。
 
 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/05/11 00:49

>結局高い視点で 神がでてきちゃいますか。


>みなさんが神に たどり着いちゃう その感覚に弱さを感じます。

その通りだと思います。人は自らの限界を感じたり答えを見出せない時に、よく神を持ち出します。
Only GOD knows it ! などと言って…
そこで関連事項として「神」について触れさせてください。

教義は全くといって良いほどに知らないのですが、僕は心情的にヒンドゥー教に好感を持っています。カースト制度とか嫌な面もあり、それをそのまま受け入れることは出来ません。ただ人それぞれが自分の神を持つことができる、この一点がとても魅力的なのです。それに力を得て、僕も自分の神を考える自由と権利を持つことが出来たのです。

正直言って僕は神を感覚的に自ら捉えたわけではありません。その過程は「神」と他人が呼ぶ言葉を知り、その概念を他人事のようにして自分なりに考え把握したのです。実態が証明できないということでは捏造に近いと思いますが、その考えが大きな拠りどころになってもいます。
その結果「神」とは人間が想像して考え得る、より大きな事柄という意味で、「無限」「宇宙」「自然」といった概念たちと僕の中ではほぼ同列に並んでいます。(これらの言葉や概念を考えつく人間て凄いものだと思いました)

僕の「神」にはいろいろな側面があります。知ということでいうと、間違いなく起こっているのにとても自分では知りようがない事柄、例えば宇宙の起源だとか、物質が生命化するきっかけといった神秘的なことから、ブッシュは同時多発テロを事前に知っていたのではないか、などというつまらない真相までを知っているのです。
逆にいうと、自分には分からないが、そこに在るものを知っている存在が神なのです。知っているけどそれだけで、何も教えてはくれません。ただ結果を現象として提示するのみです。恐らく理論や予測といった、人間的な営みにも関与していないのだとも思います。何より自然の流れを重視する存在だからです。

そんなふつつかな「神」ですが良いところもあって、こちらが観察検証することは妨げないし、誰かが森羅万象の興味ある謎に迫ると、その便りをいろいろなメディアを通して心ある者に伝えてきます。向こうは気紛れなので時としてこちらから探したり、信頼度を測ったりしなくてはなりませんが、あいつには知らさないでおこうといったケチな分け隔てはありません。
自分が確かめたことでもないのに、何故月からみた地球をある程度のリアルさをもって想像できるのか、その不思議の謎解きの答えがここにあります。
ですから隣りの叔父さんから、赤ん坊、この場での共通の知人では littlekiss さんや cse_ri2 さん達も、その意味で神の多様な分身とも言えるのです。
いかにも乱暴な論ではありますが、ヒンドゥー教の聖人ガンジーが提示したハリジャン(神の子)と言った考え方も、この論理で蘇らすことができると思います。

>もっとも高い視点とは あらゆるものを俯瞰できる視線 それは
>いったい「どこ」だとお考えですか?ご意見教えて下さい。

ここまでの「神」への考察を経た上で言いたかったのは、上の問いの答えについてなのですが、前のアドバイスと同じことを繰り返すことは避けましょう。

高みにこだわって宇宙から見たヒマラヤは、ペタンコでさぞかし面白味に欠けることでしょう。
ですからそれは Only GODs know it ! です。


>人類がはじめて人類に進もうとしたとき 概念すらないときです。
>知性と自らの運命に ウロウロする姿が見えるのです。
>わたしは そうありたいのです。
>ご先祖様の不安と悲しみを自分のものとして感じたいのです。
>一番不安におののいた人々と手をとりたいのです。

美しくオリジナリティー溢れる発想だと思います。
貴方のアフガンへの実践にも通じた想いであったろう、と感じ入りました。

PS
ある坊さんが、悟りの例を赤ん坊として挙げ、人は生まれながらにして悟っている、と横尾忠則に言った話を読んだことがあります。
参考にして下さい
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この回答へのお礼

●お坊さんと横尾のエピソードは おもしろいですね。
 おぼうさんから その話をきいたときの 目をまるくして口をとんがらせた
 横尾の表情が 目に浮かびます。

 ウロウロではなくオロオロですね (笑い)

 さて本題のmcqgogoさんの神について ですが
 すべての事象を知っているという 神ですが
 その手のテクノロジーは そう遠くない将来
 人間が手に入れてしまうと思います。
 つまり 現実でおきてしまったこととか 人間の脳が考えていることは
 その事実が 空間に何らかのかたちで残されていると考えるからです。
 空想科学だとお考えかもしれませんが
 多分実現すると思います。
 ただ そうなったとき 人間の意識がサイバースペースの
 セキュリティの高いゾーンへ 逃げ込む可能性もあります。
 そんな時代が来ても あなたの神は神として有り得るのでしょうか?
 それ以前においても 人間には善というこころの深い部分により
 ウソや人を欺いてまで 幸せになれる機能を持っていません。
 不幸が不幸を呼び 幸せを希求すつ人々まで 巻き込んでしまう構図は
 なんとしても避けたいわけで そういう意味ではmcqgogoさんの神は
 はやく現実化しなければならない技術のひとつだと考えております。

 たのしいおはなしを ありがとうございました。

お礼日時:2002/05/11 00:08

>まず 実証できないから哲学が必要なのでしょう。



哲学というのは、実証できないことを考えることもあります。
哲学的に考え、物事を推測することは自由ですが、推測か
ら得た結論を検証または考証する作業も必要でしょう。
何らの考証なしにその考えを正しいと受け入れることが
できますか。

考えることは自由です。しかしその考えが偽りであった
場合、その考えを人に伝えることはウソをつくことと
同じでしょう。それは世に害毒をもたらすことです。

自分の考えがウソでない、間違い無く真実であるとする
ならば、それなりの考証が必要なのではないですか。


>しかし視点を高くすれば 公園は社会がそこに必然性を
>もって  設備した公共材で あなたがいてもいなくても
>存在しているわけで。 神もかかわりないことが見えてく
>るわけです。

公園を例にあげるのは少し違うのでは?
公園は人が造ったものであって、神が直接造ったものでは
ありません。
神の直接の創造物でない公園を例にあげることは、ただの
こじつけではないですか。
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この回答へのお礼

●わたしの考え方をわたしが自信をもって述べることは
 ウソではありません。
 ウソとは たとえば 他人の考え方をいかにも自分が考えたかのように
 申し述べることをいいます。

 宇宙も公園も美術館も神の創造物も同じです。
 あなたが それをどう捉えるかだけのちがいです。
 真実はだれも明言できないのが 現実ですから。
 科学を超えて考察を進めるのは そのひとの捉え方にかかわるのみです。
 幅広くみれるか ミクロに見るか 見方はさまざまでしょう。
>推測か ら得た結論を検証または考証する作業も必要でしょう。
 ●だから こうして述べているわけです。
 考証・熟考するにも 個人差があるわけです。
 あなたが考えておっしゃってることは すでにわたしの過去の考証なのです。
 ほんとうは お答えするもの辛いんですが(繰り返しなので)
 あなたに真摯なお気持ちが感じられるので 敢えていろいろ
 創造者が哲学の視点の高みにいるわけじゃない 考え方を述べているのです。
 宇宙が人間の認識において 存在するとする考え方の偏りかたを
 知っていただくために公園を例にしたまでです。
 論理としては まったく同じもので論じているわけで
 公園を創ったひとが 明らかなことだけが 違いなのです。
 ↑ここに気づけなければなりません。こじつけなんかじゃありません。
 なにがなんでも神にむすびつける姿勢こそ こじつけと言うものなのです。

 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/05/09 23:15

chihokoさん、お返事ありがとう!



ねぇ、歌える立場ってどんな立場なの?
おもうんだ、だれだって歌いたいっておもえば歌えるよ。ただ、歌うか歌わないかは本人次第だと思うんだ。歌うことはわたしにとっては、気持ちいいことなんだ。ただ、それが誰においてもそうであるとは思ってないよ。それにね、悲惨な状況下だととても歌える心境にならないんじゃないかってお尋ねのようだけど、悲惨な状況下をいかに過ごすかも本人次第だよ。所詮見え方に他ならない。人のこころの中はだれにもわかんないもんだよ。見え方で物事を限定しちゃうとつまんない。

うん。わかり辛いかきかたになってたら、「これ、どういうことですか?」っていつでも尋ねてね。補足でちょっとづつ書きますのでご遠慮なく。(*^^*)v
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この回答へのお礼

●見え方 見方 って おっしゃるように様々ですよね。
 極論すれば 銃弾に射抜かれても 笑いながら意識のフェードアウトを
 楽しむことも可能なわけですよね。
 さまざまな見え方見方をどうチョイスするかで わたしが心がけていることは
 POPであるかどうか POPになりうるかどうかです。
 それともう一つ もっとも少数派の方の見方です。
 この二つは なるべく押さえようとしています。

 楽しく歌えればいいじゃないか
 赤いほうがいいじゃないか それで死ねるのなら それはなにも申し上げる
 ことはありません。強がりでもなんでもなく 自然体でそのようであるなら
 最強の境地かもしれませんね。
 わたしは サルサで腰をフリフリする赤面な暮らしの一面ももっておりますが
 そればかりで 人生は終わらないところに哲学の必要な理由があるわけです。

 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/05/09 22:52

>たとえ 恐竜が絶滅していなくても哺乳類は存在できて


>いるし事実恐竜と同じ地層から 哺乳類の化石も出土し
>ています。

恐竜の存在していた時代にほ乳類は存在していましたが、小動物にすぎませんでした。


>つまり 恐竜の絶滅があろうとなかろうと哺乳類の
>DNA的多様化と適応能力により人までは たどり
>ついたと推測します。

推測にしかすぎませんよね。あなたの意見を立証する物証
がありますか。
恐竜が絶滅することで、はじめてほ乳類の大発展が可能に
なったのが生物学的事実ではないですか。

恐竜が絶滅せずに生き残った時にほ乳類がどうなったかに
ついては、ifの話になりますので生物の専門家でなない私
としては割愛します。


>人間にこだわって 神にむすびつけて それで気持ち
>いいですか?
>わたしは きもちわるいですよ。なぜなら 人間がいな
>くとも地球は十分美しいからです。むしろ居ない方が
>いいくらいです。

人間にこだわる理由は、私が人間だからです。(笑)
ま、これも理由ですが、もう少し考えてみます。

自然や地球を美しいと感じるのは、何でしょうか。
人の心ではないですか。
chihokoさんが地球を美しいと思うのは、あなたに人の心
があって、その心で美しいと評価しているのではないですか。

人の心なくして、誰が宇宙や地球・自然や生物などの存在
を観察し評価できるのでしょうか。
すべてが人があってこそ可能であると思います。

見物客が誰もいない美術館に何の価値がありますか。
美術品を見物し喜んでくれるお客さんがいてはじめて
その価値が出てくるでしょう。
それともchihokoさんは、見物人のいない立派な美術館を
望んでいるのですか。


>受けての心がしっかりしていれば 何の影響もうけない
>と言うあなたが神の存在を感じているわけです。神の
>存在を感じることは間違いだとは申しませんが 存在を
>感じることも理解できるし感じない感覚も理解できる
>さて どちらがニュートラルでしょうか? というのが
>この設問のポイントなのです。

A.「存在を感じることも理解できるし」
B.「感じない感覚も理解できる」

どちらがニュートラルかという問いですが、両方というの
もあるでしょう。
私はどちらの感覚も理解できます。


>かたくなに神を信じる人よりは居るようなきもするし
>居ないようなきもするという方のほうが哲学の視点は
>高いと思いませんか。

私は真理に近ければ近いほど、その考えのレベルが高いと
判断しています。
逆にchihokoさんに問いますが、何をもって哲学の視点が
高い低いを判断していますか。
自分で「私の考えは、誰よりも高い!」と思っていても、
それが真理から遠ければ、何の意味がありますか。

真理から遠い偽りの思考は、何の役にもたちません。
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この回答へのお礼

●まず 実証できないから哲学が必要なのでしょう。
 恐竜が絶滅したことで 哺乳類がおおきくその種を増やしたのなら
 なぜ神は恐竜をつくったのか?という疑問がでますよね。
 はじめから居なくてもいいのでは?
 あなたの言うことも良く分かるのですが 実証がないのですから
 このように考えることもできますよ ということをわたしは言っているわけです。
 
●あなたが散歩していたとしましょう。そこで公園を見つける
 公園は気持ちよく たのしい遊技器も揃っている。あなたは この公園は
 自分のために創られたと思う。神が自分のために創ったのだと。
 なぜなら 公園をかんじているのは自分でもし自分がいなければ
 公園はあったとしても 無いとおなじだからだ・・・と。
 そういう考え方は それでいいです。
 しかし 視点を高くすれば 公園は社会がそこに必然性をもって
 設備した公共材で あなたがいてもいなくても 存在しているわけで。
 神もかかわりないことが見えてくるわけです。
 どちらの考え方が正しいかではなく 視点の問題のなのです。

●独創性ということに すこし触れます。
 こんなことを考えます。独創性とは学習の先にあるのではなく。
 いかに 殺ぎ落としたか その先にあるものじゃないか? と。
 真理はだれにもわからない。だからだれが一番真理に近いかもわからない。
 大切なのは独創性だと感じています。
 殺ぎ落とすためには 高い視点が必要なのです。

 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/05/09 21:47

まず、世界で一番のクソったれ野郎は誰か、ということについて触れておきます。


それは「私」です。
何故ならこの際、そう宣言しておいたほうが発言しやすいからです。良し悪しを超えたところで論じたいと思う時の手立ての一つです。うっかりすると差別とか、妬みとか、詰らない次元の話になってしまうことを回避するためでもあります。
このことに異論のある方は、次に進まないで下さい。きっと読んでも面白くないと思うからです。

垂れ流しは困るのだけど、chihoko のオリジナリティーはこのサイトでは群を抜いたものがあります。
女性哲学者自体が貴重な存在だと思うし(本当は人の数だけ哲学者がいるのですが、分かりやすくするためにそうしておきます)、時に感情を交え持論を堂々と立ち上げられる人間もそうはいません。
それはある意味既存の学をつまみ食いしながらも、懸命に自分で考えようとする姿勢が一貫しているからだと思います。ミームを語る人間が既存の学を知らぬはずがなく、それらを自分なりに解釈し論理の中に取り入れようと極めて現実的な哲学を実践しているように思います。それはもちろん彼女なりに、ということで言えることです。
発言録をウォッチしてみるならばそのことは明らかです。

今まで数々の人が chihoko を論破しようと様々な視点から挑戦していますが、彼女はめげません。その秘密はオリジナリティーに欠ける人間が、ルールや権威といった押付を以って挑んでいることに気付いていないからです。彼女はそのことを直感的に見抜いてしまうのです。
表現を変えると、「頭の良い不良」と「頭の悪い優等生」の会話になってしまうのです。この構図が理解できれば一連の日本国外務省の事態も納得できます。勝負は火を見るより明らかです。

以上の評価をもって、いま少し困っている彼女が謙虚に問うた問題の解を「世界一のクソったれ」が「頭の悪い不良」なりにおせっかいを交えて考えてみたいと思います。

>哲学するということは いとも簡単に既製の概念やモラルや
>倫理や規範を超えてしまうのだなぁ・・・

それは貴方の言うところの哲学がもつ宿命です。
とことんまでやる人間は、多少変わってきて当たり前です。
たとえそうであっても、軌道修正に気付くモラルさえもてれば、風通しがいいというものじゃありませんか。

>越えまい越えまいとするから まともに哲学できない。

せっかちな感情的要請から少し離れると、知らないうちに隙間が見つかることの方が多いと思いますが…

>みなさんの哲学する視点は「どこ」の高さにありますか?

心の想像力の高さ低さです。

>もっとも高い視点とは あらゆるものを俯瞰できる視線 それは
>いったい「どこ」だとお考えですか?ご意見教えてください。

そのことを真剣に考える人が心で神を考えます。
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この回答へのお礼

●出だしの二行は 黒澤明のシナリオを彷彿とさせる 意外性が
 おもしろいです。結局高い視点で 神がでてきちゃいますか。

 みなさんが神に たどり着いちゃう その感覚に弱さを感じます。
 人類がはじめて人類に進もうとしたとき 概念すらないときです。
 知性と自らの運命に ウロウロする姿が見えるのです。
 わたしは そうありたいのです。ご先祖様の不安と悲しみを自分の
 ものとして感じたいのです。(知識が邪魔して無理なのですが)
 一番不安におののいた人々と手をとりたいのです。

 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/05/09 21:25

ご丁寧な助言をありがとうございます。


お礼に私もあなたにひとつだけ助言をさしあげましょう。
>哲学とは自分で自分なりに考えることなのです。
これに異論はありませんが
引用をするなら正確にしましょう。
>哲学を学ぶ
ではなく、引用を正確にするために
最低限の知識はおさえましょう。
あなたの主張は凡庸で単純なものですが
あらゆる引用の我田引水な解釈による誤用が
あなたの主張を分かりにくくしており
>ただ わたしが言いたいことが
 あなたにはご理解いただけていないようです。
このような事態を招いています。
クリエーターによるアカデミックな引用の誤用は
クリエーターとしての自信のなさと
知的コンプレクッスの典型的な発露であり
読む者を悲しくさせます。

さて、アドバイスです。
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この回答へのお礼

●哲学を学ぶとは あなたのような方のためにある言葉なのです。
 哲学することと 学ぶことは ちがいますよといっているわけです。
 なかなかご理解いただけないようで ずいぶんオツムがかたい感じですね。
 あなたご自身の主張のない文の羅列をみてますと
 典型的な思考力欠如型人間を連想します。
 削除するかしないかは gooさんの問題でわたしの問題ではありません。
 とにかく「哲学すること」と「哲学を学ぶ」ことのちがいだけは ちゃんと
 押さえておいてください。

 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/05/09 14:56

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