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北条氏について。

なんですが、歴史読本や街道などの雑誌で戦国時代の北条氏を
”後北条氏”ないし”小田原北条氏”、”北條氏”って
記載し鎌倉のは、ただの”北条氏””鎌倉北条氏”って記載
あります。

どっちが定説なんでしょうか?

トリビアですが、お願いします。

また”ほうじょうし”の表記って北条氏と北條氏のどっちですかね。

2点目は、なぜゆえに小田原を本拠地にしたんでしょうか?
関東を牛耳るんでしたら武蔵の国が、ほぼ中央で利便性が高いような
気がするんですが。

2点をお願いします。

A 回答 (3件)

基本的にはオリジナルのほうが「北条氏」と呼ばれます。

つまり鎌倉幕府のほうです。普通冠詞はつけません。鎌倉北条氏というのは、一種不適切な呼び方ですが、意図的に「分けよう」としている本の場合、十分ありえますが・・・

後北条、つまり戦国時代の北条は、伊勢宗瑞が祖であり、二代目の氏綱の代に執権であった北条氏、つまり鎌倉時代の北条氏の子孫を「自称」して北条氏と名前を変えました(多くの方が勘違いされていますが、早雲本人は北条を名乗ったことは一度もありません。そのため、彼をどう呼んでいるかで回答の正確さが出るかなと考えていますが・・・)。
なぜ小田原か・・・というのは、後北条氏の版図の拡大が分かっていればはっきりするのですが・・
宗瑞は韮山城とよばれる、伊豆の城を根拠地にしていました。彼の代ではまだ保有領地は伊豆と相模のみです。武蔵は敵対している勢力の領地です。
で、二代の氏綱が、小田原を本拠に変えたのですが、この時点でまだ武蔵は平定されていません。
氏綱の代、北条氏は敵対する扇谷上杉氏の城である江戸城(現皇居ですね)を、太田氏を寝返らせることによって奪います。そして、敵対する里見や足利を打ち破り、武蔵の南側を平らげます。

つまり、氏綱が本拠を小田原に移したとき、武蔵の大半は敵領土だったのです。
江戸城は氏康の代に国府台合戦で大勝利し、里見を房総半島に完全に押し返すまでは前線基地でして、とても本拠が置ける土地ではありませんでした。

また、武蔵でも要所である川越にはいまだ扇谷上杉氏が居座っており、これを排除するのは結局、三代目である北条氏康の代になります。名高い川越夜戦で上杉氏勢力を完全排除、ついで足利氏を排除しました。この時点でようやく1551年。
しかし、まだ武蔵は安定した土地ではなく、やっかいな国人(成田氏など)が居座っていたりでした。
問題は、彼らが表向き従属していても、何かあるとすぐ寝返る程度の関係であったことです。成田氏なんかは上杉氏が1561年には大挙して相模の小田原を包囲したときにあっさり寝返っていたり(ただし、恥をかかされたとかですぐに戻っています)と、辛い情勢でした。これが1561年。
そして、里見も上総から武蔵に攻め入ります。しかし、1564年の国府台合戦でこれを打ち破り、武蔵における地位は少し安定します。そして、氏康の晩年になってようやく武蔵は安定したのです。安定していない土地に拠点をおくのは・・・よろしくないのは分かるかと。

また、当時の武蔵は、後の江戸とは程遠く、河川の氾濫も結構ある湿地帯で(水を支配したのは四代である氏政の代)、しかも平野のため堅城が作れなかったという問題もあります。
北条氏が上杉、武田を退けることができたのは、天下の堅城とよばれた小田原城の力も大きく、やはり籠城にもっとも適した城では、小田原の右に出る城はありませんでした。

なお、氏政は江戸城を隠居先としています。つまり、氏政の代なのですね。江戸を本拠として機能できるようになったのは(といっても氏政は小田原にいるほうが多かったようなのですが)。そして、この江戸の発展は、徳川の時代にも引き継がれ、徳川によって世界最大とも言われる都市へと発展していくのです。
以上が、江戸、ひいては武蔵が本拠地に成りえなかった理由です。基本的には、伊豆から東へ領地を拡大していった勢力ですから、武蔵は常に前線だったわけです。
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 北条時政以来の北条氏は天下を取った一族ですから、これに冠をつけることはないでしょう。

鎌倉北条氏というのは不適当ですよ。北条早雲を始祖とする北条氏については後北条、小田原北条などの呼称がありますが、紛れる心配のないときはただの北条氏を使う場合もあります。ともかく早雲側の北条氏はせいぜい関東を統一しただけの一族ですから仕方のないところでしょう。北条氏と後北条氏は時代も離れているし、血のつながりもないので並べて話題にすることは稀でしょう。ですから両方とも北条で通る場合が圧倒的に多いのではないでしょうか。名に時がついていれば鎌倉、氏がついていれば小田原と一目で区別する方法もありますね。勿論政村なんて例外はいますが・・・。
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鎌倉時代の北条氏は頼朝を助け、北条政子を頼朝に嫁がせた北条時政の一族です。


戦国時代の北条氏は北条早雲を始祖とする一族で、時代も後なので後北条氏ともいわれます。この一族は小田原を本拠地としましたから小田原北条氏ともいわれます。 この両者の間には血縁はありません。

小田原を本拠地にしたのは北条早雲が駿河の土豪の出身で、小田原に城をもっていた相模の領主の不意をついて城を奪ったからです。
当時は早雲がようやく相模の国主になったばかりで、それから関東に領地を拡大していったのです。

当時の武蔵の国には堅固で本拠地とするような城はまだありませんでした。  これに対し、小田原は海に面し、背後に箱根の山脈を負い防御に便でしたしなにより城が既にあったのです。
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