織田信長の性格 考え方
ここで、織田信長についてかなり論じられていますが、
織田信長の性格、考え方を深く知りたいと思っています。他人がどう思っているかの洞察力はかなり長けていたようです。豊臣秀吉、徳川家康よりも実際はそれ以上の大きな器の人物ではないかと思っております。
まあ人生訓的水先人の師的にもこの人物を深く知りたいと思っています。大雑把なことはなんとなく評判だった行動(実父の死の墓前での行動、坊さんへの討伐等でわかりますが)で推測がつきますが、それ以上つっこんだ記事を見たことがありません。
ぜひ、思われていることがあればご意見をお聞かせください。
また、くわしい文献も知りたいです。
志半ばで倒れたので文献的には書かれたのが少ないのかもしれませんけど。
回答(10件)
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「信長公記」は、身内が書いたものだから、多少の割引はして、読むとしても、まず、おもしろいです。
堅実な人間であろう家康の身内の書いたものは、まぁー、つまらない。
おねさんが、夫婦げんかのいきさつを訴えた時、書簡を出して、ていねいにたしなめているというエピソードが好きですが、これが、とてもきれいな字。
こういう字を書く人間と、狂気が結びつきません。
自分を神と信じていたとしたら、全ての言動が理解できる感じです。
どこまでが、デフォルメか、後世の脚色か、見極めるのも大事なことだと思います。
この回答への補足
ありがとうございます。そうですか。そういう部分もあるのですね。
信長公記まだ時間がなく読みきっていません。できるだけ早く読みたいとは思っています。
ここの紙面を借りて申し訳ないですが、A9のところで回答をいただいた歴史改定は歴史を再発見して改定したということで、それを必ずしも教科書に載せる事柄があればおこなうでしょうけどすぐ反映はしてないですね。
A9でお礼(補足)で教科書改訂まで話をのばしましたが、余計でした。あしからず。
この回答へのお礼
皆様、回答をたくさんありがとうございました。
テレビ・映画では前面に気が強いというイメージが出ている織田信長公
ですが、研究してみたいと思います。
織田信長公ならばどうするかということも・・。
No4です。
最近の歴史の改訂が凄まじくて,昔私が習ったものとは大きく変更されています。No5さんのご指摘通りです。
今年に入ってからもお馴染みの「源頼朝像」が改編されたようです。
斉藤道三について油売りから西村勘九郎になり主家の土岐家を乗っ取った下克上の代表格として我々は学びましたが,最近の説ではこれも否定されているようです。
歴史の変更については
http://www.h2.dion.ne.jp/~kyokasho/1106kousin/47 …
も参考になるでしょうが,これも私見が多いようです。
しかし,信長の革新的,進歩的な業績を否定する説はないようです。間違いなく日本史上で,最大に天才であると思います。
この回答への補足
歴史改定は、文部省とか教科書作成委員とか、時の政府の方針も関わりがあるのでしょうが、近代戦争について、180度変わったことをかかれると私など年ですから面食らいます。第2次世界大戦は、アメリカが大きく日本に不利になるように動きました。対外国が絡んでおれば事実をそのままとか書くのは難しいのでしょう。教科書に書くのは自国民が優先されるとはしょうがないし、でも今の年代になってみると余裕が出て100%は過去の教科書に書かれていたことを信じてはいません。
ネットで過去の知られざる事実を見ると、公表をしないにつけてもフーンと思うことはあります。
この前、ある施設で第2次世界大戦の時の日本の新聞を復刻か?またはコピー?したのを30枚くらい綴じてあるのを見ました。
娯楽欄など全然なく薬も貼り薬とか古風なものが多い。まあ、戦争一色(70%)記事でした。
この回答へのお礼
源頼朝像 とはこのことなのでしょうか?http://www.mmjp.or.jp/askanet/rediscoverofhistor …
信長は世界的に見ても天才です。もっと評価されてもいい。あの時代に政教分離を進めた政治家はいませんし、現代でも政治と宗教が強く影響し合っている国は多いのにです。
信長が本能寺で暗殺されたのも、宣教師らによる爆殺で死体が出なかったという話があります(八切史観)。
それから晩年、イライラしていたというのは糖尿病によるものかも知れません。糖尿病だったとすると、本能寺で炎に焼かれて死んだといいますが、糖尿病性の神経障害で熱さを感じなかったのかも知れません。
歴史上の人物の血糖を測ったわけではないので推測ですが、藤原道長の糖尿病だったといいますし、宣教師から金平糖をもらってボリボリ食べていた、というので糖尿病になっていても不思議はないです。
この回答への補足
ありがとうございました。
すばらしく理論的な考えを持ち、迷信のたぐいを一切受け付けなかった天才。
宣教師が信長に地球儀を献上し、「これが我々の住んでいる世界である。」と言ったところ、信長は直ぐ理解したそうです。この時代に世界は球形であり、日本はこんな島国であることを理解し得る人間は他に居るでしょうか。かつてウツケと言われていたのは本人が才能を隠していたのではなく,周りの人間が彼を理解できなかったと思います。
ただ、器が大きいか,というのはちょっと疑問です。確かに信長は,才能があれば身分に関係なく、かつて敵対した人間さえも用いました。しかし、才能が枯渇すれば、どんなに功績があっても簡単に捨られてしまいます。本能寺の原因はこの辺にあると考えます。
この回答への補足
ありがとうございました。
理想はかなり高いが、現実を有る程度理解はしている。
ある意味、長所ではなく短所を見破る能力に長け短所のカバーが上手い。
明確な目的を持ち、目的を達成すれば固執せずに引く。
正確に情報を収拾し分析力も高い。
尾張兵のや国力の弱さを以前よりも痛感している。
親が美濃に攻めた時に道三の手勢数百騎に歯が立たない10倍の尾張兵。
洞察よりも観察眼はかなりのモノだと思います。
おもしろいのは当代の名将である斉藤道三の存在でしょう。
自分の親、今川義元は生まれながらの豪族であって道三のように当代髄一の英傑ではありません。
その当代の名将を親父とともに見てきたのですから。
恐らく、桶狭間は信長にとっては道三の亜流をしてみせただけでしょう。
道三は幾度も危機を乗り越えてきた武将です。
道三ならどうするか。弱兵寡兵でどうやって打ち破れば良いのか。
その危機の脱し方。構え方は身をもって知っていたと思います。
家督争いも道三に倣っていると思います。
桶狭間の勝利の割りには、道三が居ない美濃の攻略には約十年かかっています。
龍興の代でも中々打ち破る事は出来ませんでした。
何よりも道三が作り上げた美濃の国力は尾張には到底及ばなかった。
当代の名将が居ないのにその強固さの秘訣を自分で調べ上げ自分の物にしました。
かなりの勉強家であったと思います。
美濃攻略により、自分の師と慕う人物を超えれた事が覇者の道を切り開いたのだと思います。
比叡山の焼き討ちですが、北条早雲がすでに神社仏閣への焼き討ち行為と坊主の首はねをやっています。
性格もありますが、世論を考えて比叡山を攻撃しています。
昔から、サイコロの目、鴨川の水、叡山の坊主はどうにもならん。
と言われるほどの政治団体でしたので、何の問題はありません。
政治に口出しする宗教団体は民衆から嫌われます。
カルト教団の本願寺には徹底抗戦。
やはり、師とあおぐ道三との早すぎる別れが信長の決断に大きく関わっていると思います。
中国の覇者毛利元就も尼子経久を師とするほど実の親に対する感情よりも、師と仰ぐ人物の方に並ならぬ感情があります。
ハッキリ言って真似できません。
一流の師を傍に持ち、早くに先立たれる。
この現実の非情さが本人の性格の非情さにも影響しているんですよ。
信長の中には「道三ならばどうするか」が頭をめぐらせていたと思います。
この回答への補足
道三さんは、初め商売人でしたね。その経験から得たのも兼ね備えた戦略的にもすぐれたすごい人物です。解説の終りの方は誠によくわかりました。
ちょっと外れますが、道三を殺すのは、織田信長が私ぐらいなものだと、縁組をした際に面と向かっていったそうですが、なんとも恐ろしい時代ですね。
休戦かおびやかされない目的のために縁組をする。目的は、このあたりで
果たされたと早く感じて準備が整った方から戦争をしかける。
なんとも時間稼ぎとしかいいようのない時代ですね。
現代は、結婚も見合いの場合は、その習性なごりが残っているような気もしだいでもないですが。でも、相続とかお金を残すとみにくい争いになるのは現代でもいっしょかなと思っています。
No.5ベストアンサー20pt
いまだに桶狭間の戦いを梁田出羽守の情報による奇襲と信じている向きが多いようですが、この説は今では信憑性が低いです。当時信長の家臣であった太田牛一の著書である信長公記には、奇襲と読み取れる文言はありません。寧ろ正面攻撃をかけたと読み取れる内容で、正面の今川軍を鷲津、丸根両砦を攻略した後の労兵と誤認して(実際は新手)攻撃をかけたようです。
長篠合戦における鉄砲三段撃ちも江戸時代の創作であり、実際の主な勝因は酒井忠次の別働対が長篠城の救援に成功した為、腹背を敵に圧迫された武田軍が厳重に野戦築城された織田、徳川連合軍を正面突破せざるを得ない状況に追い込まれたからです。織田、徳川連合軍は第三次川中島の戦いに於いて武田軍の採用した啄木鳥戦法と同じ方法をもっと堅実にやったとも言えるでしょう。
このように、信長と雖も情勢を読み違えることもありましたし、軍事的には割合常識的な作戦行動を取る事が多いです。さらに、美濃攻めや長島一向一揆相手の戦闘で何度も敗北している事を考えると、兵農分離が精兵を養うのに有効だったかも疑問です。実際に、当時の人口構成では農兵の方が精強だったと主張する論者も存在します。信長の行った合戦で勝ちが多くなったのは、上洛以降圧倒的大軍を動員出来るようになってからです。このように見ますと、安易に信長を軍事の天才と称えるのは早計かと思います。
人材を抜擢して競争させる人事方針も、組織の膨張期には威力を発揮しますが、安定期に入ってからは害になる事もあります。どこかで方針転換が計られなければ、永久に膨張を続けるしかありません(ナチドイツと似た構造)。この点をどうするつもりだったのかは、信長勢力が安定期に入る前に信長が死にましたので、何とも言えません。
最後に参考になりそうな書物としまして、藤本正行氏著、信長の戦争-信長公記に見る戦国軍事学 をお勧めいたします。
この回答への補足
詳しい解説ありがとうございます。書籍も機会があれば見たいとおもいます。
No1さんが信長像を詳しく述べられています。
別の解析をすると信長は日本の歴史上では軍略と政治面を兼ね備えた希有の人物ではないでしょうか。
軍略面では未だ尾張の少領主であった時代に今川義元の上洛戦に際して,密偵という情報を駆使して桶狭間で大逆転劇を行いました。また戦国最強と言われた武田騎馬軍団に対して鉄砲という近代兵器の威力を始めて実体化した等があげられます。
一方,政治面では楽市楽座を設けて経済の活性化を計るとともに平安楽土を願って安土とい街を作りました。
戦国時代を終わらせるため古いものは打ち壊す必要性から,叡山焼き討ちや一向宗への弾圧を行った事のマイナス面もあった事は当時としては致し方なかったと考えますが。
この回答への補足
そうですね。近くに見た本当に!!新規な部分にすばやく反応し、求めて馬上で走る血気さかんなイメージですね。
織田信長ですけど、一言で言えば「世紀末覇者」という役割ではないかと思います。
時代が閉塞感に満ちると、それを打ち破る人物が登場します。
既存の制度や仕組みを一旦壊して、新しい秩序を作る人物、こういった人物は幾らでもいるのにも関わらず、条件が揃わないと世に出ないのか、それとも突然変異的に出てくるのか分かりませんけど、歴史を振り返ると、器の大小はありますけど、節目には出現するような気がします。
藤原不比等、持統天皇、源義経、後醍醐天皇、足利義満、徳川綱吉etc。
さて、彼の場合幼児体験にあるのかも知れません。
よく知られるように、母親の土田御前は弟の信行を可愛がり、家臣たちも江戸時代のような主従関係ではなく、非常にドライな連中で、父親の信秀は成り上がりですから、いつ寝首をかかれるか分からない、不安定な地位にいます。
こういった環境ですから、腹を晒せる人物はいませんし、隙を見せられない。
彼がウツケと呼ばれたのは、正体を隠すためだったと思います。
江戸初期の大名達は、幕府の目を逃れるため、態と鼻毛をのばして愚かなまねをして、無能な藩主を装ったり、精神的に切れてしまってめちゃくちゃなことをするものもいましたが、信長も自分の本性を隠し、周囲によく分からない人間と不気味に思わせたのでしょう。
彼の真骨頂は、桶狭間の合戦を否定することと不要なものを捨て去ること。
桶狭間の合戦は、大軍を擁した今川を、小勢で破った、将に誇るべき勝利で、常人であれば戦巧者はかくあるべしと、これを手本に難しい戦略を練りますが、信長はこれは偶然の産物と考え、大軍で敵に当たってこれを打ち破るを座右の銘にしました。
また、大将が生き延びれば捲土重来をきせるというのも彼の考えで、不利になれば部下も何もかも捨てて、真っ先に逃げ出します。
これは武士としては寧ろ恥ずかしいことで、大軍で勝っても誰も感心しませんし、逃亡中に土民に殺されれば、不名誉な話で、いっそ華々しく戦って散るという選択肢を、常人ならするでしょう。
そしてこの桶狭間ですが、東の今川が壊滅したのですから、当たり前の武将なら東に向かい、三河を併呑し、浜松まで勢力化に置いたでしょうが、彼はそうせず、西に向かう、これは出来ないことです。
もし東に向かえば、豊かな旧今川領を支配し、東海一の大大名となりますが、彼の代ではここまで、天下を狙うことは出来なかったと思います。
要約すると、彼は目的をしっかり持ち、それを実現するために常識を捨ててこれに当たる、そして見極めが巧い、これに尽きると思います。
この回答への補足
ありがとうございます。なかなか信長という人物は隠すということが
大きくその裏がはっきりと見えてこない。対何々がその裏側がよく見えない。今まではそんな気持ちにさせられていました。誰かに仕えたという出発点が秀吉、家康とはケースが違う側面があったからかもしれませんね。
参考になりました。
この回答へのお礼
>彼の場合幼児体験にあるのかも知れません。・・・
こういった環境ですから、腹を晒せる人物はいませんし、隙を見せられない。彼がウツケと呼ばれたのは、正体を隠すためだったと思います。
自分の周りの状態が、人に与える影響というのは、測りしれない大きな
ものですね。戦国の世は、そんな状態が普通だったのでしょうが、とりわけ
厳しい環境だったのでしょうね。解説本当に本当に参考になりました。これでほとんど人となりが50%わかったような気になれました。
それでは文献の方を。かなり有名ですが、『信長公記』のご一読をおすすめします。
■町田家本の読み下し
http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/kouki.html
■私的現代語訳
http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shisaku.html
■アマゾン
http://www.amazon.co.jp/%E4%BF%A1%E9%95%B7%E5%85 …
http://www.amazon.co.jp/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E8%AA …
首巻廿八「火起請御取り候事 」、巻八五「山中の猿御憐愍の事」などいろいろ逸話が残されています。
この回答への補足
ありがとうございます。じっくり推測もしながら読んでいこうと思います。
No.1ベストアンサー10pt
小生の信長像を参考までに
1.迷信の類は一切信用しない及びそれらを言いふらす連中は大嫌い
2.自信過剰と言ってしまえばそれまでだが、家臣からの進言を重く用いない。
3.モノに執着が殆ど無い(使えるモノは惜しげもなく使うし、本拠地もかなり変えています。人に至っては言うに及ばず)
4.人を懐柔しようと言う考えが殆ど無い。(浅井長政ぐらいではないだろうか?)
5.恐怖と言う感情を持っていなかった。(恐怖が分らないから当然他人が感じる恐怖も分らない=敵になると言う事が分からない。当時の武田ですら『強敵』と考えこそすれ恐怖or脅威とは感じていないと思われる。)
6.強運の持ち主(信長ほど絶体絶命と言われる状況を幾度と無く切り抜ける奴も珍しい)
7.怒りっぽいが、怒りに任せると言う感情的な所は殆ど無い(プライドで敵が殺せる訳が無い事を知っている。)
その他にも細々ありますが大雑把に言ってこんな所です。
この回答への補足
回答ありがとうございます。歴史については、前に家康の譜代、外様討論で参加(純粋討論)させていただいたことが、あります。
syuitilwoさんが、感じられたのはどういった文献からでしょうか。すみませんがよろしかったらお願いいたします。
私ども、10年前くらいは、家康に気がひかれましたが、最近は信長に心境が近く親近感が沸いてまいりました。質問でそのこともチラと記入しましたのでちょっとひねくれた気分でしたのもあり、ご回答をいただけないかなと本当は心配しておりました。重ね重ね大変ありがとうございます。
つい先ほど発見しましたが、下記のような回答がありまして感心しました。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa839656.html
信長について
質問者:noname#6213 信長についていくらか気になることがあります。
教科書とかにのっていた信長の絵は色白で華奢で神経質そうですが、
信長」の姿を書き記したものですが、ルイスフロイスがローマ教会に送った書面には
「・・・長身でやせている。髭は少なく、声は高い。非常に武芸を好み、粗野だが、
正義と慈悲を楽しみ、
傲慢にして名誉を重んじる。・・・理解力はあり、判断は明晰。・・・
彼の事業は完全で巧妙をきわめ
ており、人と話す時には回った言い方を嫌った。」
また日本西教史には
「性格は、勇猛強忍、英慢果断、道理を守る良将である。」
などと記されています。
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