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鎌倉幕府が、守護地頭を置かれた年に変えられているようですが、幕府と言うものの定義がわからないのです。征夷大将軍によって、開かれるのが、幕府だと思うのですが…。
秀吉が、幕府が開けなかったのは、源の血ではないと言う理由で征夷大将軍にれなかった…。なので、代わりに、関白になった…。と思っているのですが…。違うのでしょうか?
そう思うと、征夷大将軍が、幕府を開くことができるのであって、守護地頭を置いても、征夷大将軍でなければ、幕府を開くことは出来ない…。と思うのですが?どうなのでしょうか?
ただ、幕府と言う言葉が、いつ名づけられたのか…。それによっても変わってくるとも思います。当時の人が、将軍が開いたものが、幕府と言ったのなら、当然、それは、将軍になった時点で、開かれたものだと思いますし、後世の歴史学者が便宜上名づけたのなら、問題ないと思います。
実際のところ、年号変更することは、適当なのでしょうか?

A 回答 (4件)

1192年から1185年に鎌倉幕府の成立が変わったのはなぜ?


という質問かと。
1185年説は、鎌倉殿(頼朝)の主従関係が公式なものとされたというタイミングです。
これが守護地頭制度。
それまでも、在地の武士は鎌倉殿の家来であったのですが、朝廷によって認められたというのがポイント。
言い方は悪いですが、やくざの親分が、ある時政府に認められて、地方の手下をそれぞれの地方の警察署長にしたというようなもの。

1192年説は、征夷大将軍任官を鎌倉幕府成立とするものですが、No1さんのご指摘の通り、1189年に右近衛大将になっておりますので、この段階で幕府とも言えます。
頼朝が征夷大将軍を望んだのは、それが、在京職でなかったからだという説があります。つまり、右大将では、朝廷からの「任官したんだから京都に来い、ずっといろ」という要請に対して抵抗できなくなるが、征夷大将軍は、現地将軍なので、京都に行く必要がないというものです。
※ 役職的には 征夷大将軍<<右大将です
吾妻鏡でも、1196年段階で、頼朝のことを前右大将家と呼んでいます。それは右大将の方が位階として上位だからです。

武士の統領による政府形態を幕府と呼ぶようになったのは、江戸時代後期に入ってからです。
それまでは 鎌倉殿 であったり 室町殿であったり 柳営だったりしております。
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この回答へのお礼

そうですか。ありがとうございます。
右大将のほうが偉いのですね…。
朝廷と武家社会との関係もよくわかりました。
確かに、行かなくて済むのなら、征夷大将軍のほうがいいですね。
ありがとうございます。

お礼日時:2007/01/17 12:57

征夷大将軍は臨時に置かれる令外官なので、源氏でなくともなれます。


例えば鎌倉幕府の四代・五代将軍は藤原氏九条家の人でした。源氏を将軍の家として尊んだのは武家の側でしょうね。
そもそも、幕府の成立が征夷大将軍という個人に立脚するものならば、三代将軍実朝の横死の瞬間、鎌倉幕府は滅亡したことになってしまいませんでしょうか? 幕府とは組織を指す名称なので、組織が機能していれば存在している、とみるべきかと。守護地頭の設置は、地方組織から全国組織へと飛躍した契機なので、全国支配の機関として成立したのはこの時、とするのは妥当だと考えます。
なお、幕府の最重要な機能は、土地所有権の認定と保証にあります。本来の土地所有者である朝廷との対立が前提ですが、有力武家を朝廷の内部に取り込もうとした秀吉が、朝廷と分離独立の幕府を欲したとは思えません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2007/01/17 12:58

補足


幕府
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%95%E5%BA%9C

征夷大将軍任官問題に関しては、説として「夷を平らげたかどうか」が必要だというものがあります。
この場合の夷は、広い概念で東国であり、朝廷にとっての東国は、関ヶ原の東です。
信長は、武田家を滅ぼした段階でOKという雰囲気でした。
秀吉は、小牧長久手の戦いで勝てなかったので NG。
そうこうするうちに、関白になったので、北条家を倒した段階で、いまさら将軍になる必要ないというので、将軍にならなかった。
※ 頼朝は意識したらしく、鶴ヶ丘八幡宮(だったと思いますが)にやってきて、「よりともちゃん、武力で日本統一したのは 君とぼくだけだね けど ぼくは 0からだから うふ」とか言ったそうです。そして、その後の奥州仕置きの道順も、頼朝の奥州侵略の行程をまねしたと言われております。
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この回答へのお礼

はははww。新事実発見ww。頼朝はホモだった。(激違
東ですか…。言ってみれば…。その時代、朝廷から見れば、首都東京の辺りなど
「けっ、あんな辺鄙な場所ど~でもいいじゃないか…。くそざるどもにくれてやるわ。」
とか言って、任命したら、なんだか知らないけど、
「けけけ…。ひっかかったな、ざま~みやがれ…。朝廷なんぞくそくらいだぜ…。」
とか言いながら、頼朝に、牛耳られて、鎌倉幕府を立てられたわけですね…。
まぁ、守護地頭のほうが先ですが、適切かどうか、微妙ですが;;(ぇ?

お礼日時:2007/01/17 13:12

幕府というのは将軍の幕舎(指揮所)であり、征夷大将軍でなくても開けます。


そのため現在では源頼朝が右近衛大将になったときに幕府が開かれたとする考え方もあります。
また守護地頭を置くことによって実質的に軍事指揮権を得たということで実質的に鎌倉幕府を開いたという考え方もあります。
豊臣秀吉については源氏ではなかったから征夷大将軍になれなかったのではなく、関東に対して支配権を持っていなかったから征夷大将軍になれなかったというのが正解のようです。織田信長は平姓でしたが、朝廷から征夷大将軍の選択肢もあったようです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
よく分かりました。
征夷大将軍は、もともと、坂上田村麻呂が、北の国の征伐に行ったのが、始まりだと聞いています。もちろん、武家社会の幕府とは、全く関係しろもだと思います。
幕舎というのは、征夷大将軍でなくても、(全国の?)武士の1大将であれば、誰でも、開けると…そういうことなのでしょうか?
征夷大将軍とは、武士に与えられる、最高の地位で、幕舎というのは、全国を支配する武士の1大将が指揮するところ…。と言う認識ぐらいでいいのでしょうか?
秀吉は、関東は支配していなかったのですね;;知りませんでした;;
信長が、征夷大将軍になれたと言うことは、秀吉は、信長のすべてを継いだのではない…。と言うことなのでしょうか?
あるいは、信長は、足利将軍の命を受けたから、征夷大将軍になれた…。ということなのかもしれませんね。
まぁ、秀吉は農民の出だからとか…。そういう、差別意識もあったのかもしれませんね。

お礼日時:2007/01/17 10:00

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