秀吉が関白となったことにより戦国の乱世は治まりましたが、京の公家衆は秀吉のことをどう考えていたのでしょうか?

百姓・足軽階層出身の秀吉が天下人(それも将軍ではなく関白に)となったことに反発のようなものはあったのでしょうか?

A 回答 (7件)

信長には天皇制を廃止して自分が国王になるという意志があったようです。

公家衆にとっては足利義満以来の危機でした。
秀吉にはそのような考えはありませんでしたので反動で容認したのではないでしょうか。

この回答への補足

皆様、お礼が遅くなっていて申し訳ございません。
当方、試験期間中につき終わり次第お礼を書かせて頂きます。

補足日時:2007/01/24 20:50
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この回答へのお礼

信長の思想に比べたら朝廷権威を害しない秀吉は遥かに可愛いものだったのかもしれないですね。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/02/04 02:09

関白は五摂家(九条、近衛、鷹司、一条、二条)の者しかつくことのできない地位でしたが、天正十三年、関白をめぐる五摂家内部の紛争がおきます。

当時の左大臣近衛信尹が関白の職を望み、当時の関白である二条昭実と対立し、両者は内大臣であった秀吉の裁定を求めましたが、秀吉はこの機に乗じて自らが関白になる事を企てて、近衛前久の猶子となり関白に就任しました。当時公家社会では反対論が噴出し、ある記録には「前代未聞の事なり」と記されています。公家衆は百姓出身の武士である秀吉に公家の最高位である関白職を渡すまいと思っていたのではないでしょうか。公家は常に武家を蔑む傾向がありますので。しかし、秀吉は家領の加増などで公家衆を買収していきます。当時の公家は経済的に困窮していましたので。結局、秀吉は関白に就任し、それ以後、公家は秀吉に追随していくのです。
参考文献
池上裕子著『日本の歴史15織豊政権と江戸幕府』講談社
今谷明著『武家と天皇~王権をめぐる相剋』岩波新書
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この回答へのお礼

大変申し訳ございません。
うっかりしていてお礼を書くのを忘れていました。
大変失礼致しました。

秀吉は摂家同士の権力闘争に乗じて関白となったのですね。
やはり反対論が噴出していたのですね。さもありなん、ですね。

秀吉は人たらしですね。懐柔するのが実に上手いですね。

文献も挙げて頂きましてありがとうございます。

大変丁寧なご回答を頂きながら、お礼を忘れるなどあってはならない事でした。
改めまして申し訳ございませんでした。

お礼日時:2007/04/29 21:16

貴い血の威光など、かけらも尊ばない信長。


に、比べたら、ありがたい存在だと思います。
貴い血というだけで、やみくもにありがたがる、能力の高いご仁の存在は。
結果的にないがしろにした家康の存在までは、この時考えられませんから、歓迎だと思います。
心の内では、軽蔑もしたかもしれませんが、少ない選択肢の中だったら、よしとしなければならなかったでしょう。
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この回答へのお礼

確かに朝廷権威を脅かしていた信長に比べたら誰でも満足だったのかもしれないですね。
徳川時代、摂家クラスは別にして並みの堂上公家は貧乏だったようですね。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/01/31 13:10

 信長にも右大臣を与え、その後征夷大将軍、太政大臣、関白の三官のうちどれでも選べということであったので(信長は結局受けず)、秀吉が将軍ではなく関白になっても、まあしようがないというところだったと思います。


 そりゃ、陰では公家衆はいろいろ言ってたでしょうね。それでも大気で気前のいいところはあるし、逆らうわけにはいきませんから、尻尾を振った公家衆が大半であったと思います。
 ヒットラーも筋目正しき将軍連中に「あの伍長めが」と陰では蔑まれていたという話がありますので、時代や国が違ってもおなじですね。
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この回答へのお礼

ヒトラーも影では蔑まれていたのですね。
人間のやっかみ・僻み・妬みとはそんなものかもしれないですね。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/01/31 13:07

朝野驚愕したそうです。


先代未聞ノ事也と多聞院日記には記載されています。

藤原前久の猶子となり、「源平藤橘」と言う、
~のと言う天皇から頂戴した氏を名乗りましたから、

一応は関白職に就く筋目は立っています。

「しかし、元は百姓」と言う反論程度なので、
逆手に取るのはたやすかったと認識しています。

筋目が通っているのにあからさまには反論は出来ません。
逆に筋目が曲がってしまいます。

但し、
元百姓であるのが分かっていて逆らえないと言う事は認識したと思います。
つまり、公家より侍。
の時代が来たと言う目の前の事実を知ったと思います。
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この回答へのお礼

近衛前久の養子(藤原姓)となった上で豊臣姓ももらっているのですね。

現代では身分を問わず総理大臣になれますが、当時の価値観では驚愕モノのことだったのでしょうね。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/01/31 13:05

木曽義仲も 一時の 支配者


織田信長も 一時の 支配者
秀吉はんも そないなものでしょうなぁ
で、奪われていた荘園は戻らなかったけど、領地を確保してもらったし、まぁ、、、
そのうち おさるさんも いのーなりまっしゃるでっしゃろな

なんて くらいで たいしたことは 思ってない
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この回答へのお礼

なるほど、一時の支配者ですか。
信長と違って朝廷の脅威となる訳でないし、案外そのくらいの認識だったのかもしれないですね。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/01/31 13:03

勝手な想像ですが・・・


その時代の公家衆はお金が無かったので、苦しい生活をしていたと思います。乱世が収まり、秀吉などの献金で生活がましになってよかったと思うでしょうが、秀吉自体に感謝はしてないんじゃないかな~
反発や裏での蔑みはあったでしょうが、時の最高権力者にはおおっぴろげに逆らえなかったと思います。
その時代の公家=したたか が私のイメージです(*^o^*)
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この回答へのお礼

乱世が収まったというのは京都の人にとっては非常に大きいことだったかもしれないですね。

私も公家衆はしたたかだと思います。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/01/31 13:02

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