水戸徳川家は江戸定府で将軍家を補佐する役目にあったとされていますが、尾州・紀州と違って具体的に何か政務に参与するということはあったのでしょうか?

A 回答 (9件)

水戸家に限らず、幕府の運営は将軍とその家臣によって行われ、他家が口出しは出来ません。


やくざ組織を見ると判りやすいのですけど、やくざは頂点に組長がおり、その配下に長男にあたる若頭を筆頭に直系の子分が連なり、組の運営をします。
これ以外に「おじさん」と呼ばれる、組長の兄弟分にあたる人間がいて、彼らは先代組長の子分で、代替わりのときに独立したり、他組織の人間で、組長と親しくなって渡世の義理を結んだりした者たちです。
彼らは集まりでは一門として遇され、高い席次を与えられますが、組の運営には一切口出しできず、組長と子分が一切を取り仕切り、求められれば相談に乗るという存在で、組長に万一のことがあった場合でも、跡目にはなれません。
御三家も似たようなもので、家康晩年の子供たちが徳川の姓を与えられ、将軍家の親族として代替わりに誓紙を出さなくてもよいとか、50万石程度の領地を与えられるなどの優遇された待遇を与えられますけど、幕政に関与する権限は無く、相談されたら話をする程度です。
幕政はあくまで、将軍とその家臣が行うべきもので、加賀100万石であろうと、御家門筆頭の越前家であろうと、御三家であろうと、蚊帳の外が原則になります。
代々の当主で、将軍家に逆らった方は尾張宗春などいますし、光圀も面当てはしていますけど。
水戸家も本家は35万石(実質は28万石)ですが、連枝の高松藩などを加えれば50万石で、御三家という定義も当初は尾張、紀伊、駿河の3徳川家であったり、変遷があり、水戸が御三家に固定されたのも、かなり後になってからです。
また、副将軍という称号も自称で、喜連川家も天下の副将軍を称しており、こちらは江戸にいても国に帰っても随意という破格の待遇を受けていますから、水戸家だけが定府ということでもないです。
幕末になりますと、老中阿部正弘が外様を含む諸大名に意見を求め、水戸の徳川斉昭を海防掛参与に任命したりしますが、これは混乱した時代だからこそで、結果的には幕政に諸大名が口出しするようになり、権威の失墜を招きましたから、これも功罪両面がありますね。
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この回答へのお礼

同じ親藩でも、溜間詰の会津家や越前家は政務について幕閣から諮問を受けていたのかと思っていました。

喜連川さんは仙台候が参勤で逗留してくれるのを頼みにしていたみたいですね。御所様直々に待ち受けていたとか。

斉昭の参与就任は例外なのですね。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/02/01 15:20

財政難に陥った水戸藩は、光圀の死後、養子である綱條が財政改革に乗り出すが、水戸藩領全体を巻き込む大規模な一揆を招き、改革は失敗する。

これにより水戸藩は、幕閣や譜代大名から「綱條公は将軍の器にあらず」との認識を持たれることとなり、1716年の徳川家継の後継者選びにおいては綱條が御三家の当主の最年長であるにも関わらず、紀州藩主の徳川吉宗が後継者に選ばれた。 以後、水戸徳川家からは将軍を出さず、将軍の補佐役として参勤交代を行なわず江戸に常駐することとなる。このことから水戸徳川家は「天下の副将軍」と呼ばれるようになる。(ウィキペディア辞典)家光と水戸家初代頼房は一つ違いで江戸城焼失時水戸屋敷で過ごした 余談だが慶喜は光圀が隠居した10月14日に大政奉還したが光圀が隠居した日を考慮したと渋澤栄一に述べている
その他は詳しい方に願いします
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この回答へのお礼

綱條は将軍の器にあらずという認識だったのですね。

水戸藩は表高三十五万石ながら実高はもっと低かったみたいですから、慢性的な赤字体質だったみたいですね。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/02/01 15:15

徳川幕府というのは、必要に応じて、その場その場対応して体制が固まったというのが実情で、水戸家をどうしよう?という発想から定府になったわけではない。


御三家に次ぐ、越前家が制外の家と言われたのは、秀康(家康の次男)がごねたのを丸く収めるための方便。
参勤交代が義務化したのは家光の時代ですが、水戸家の頼房が家光と馬があったとのこと、それで定府になったのではないかと<これは憶測
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この回答へのお礼

家光と頼房は歳も近く仲が良かったみたいですね。

家康の性格は理解できない面が多いです。
義直以下は寵愛を受けてますが、反面、顔が醜いとかの理由で我が子でも徹底して嫌ってますよね。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/02/01 15:12

政務に参与する事はありませんでした。


将軍が総理、家老などが現在の大臣に当たるようです。

しかし、他の方が述べているように、
綱吉に意見したり、
徳川斉昭が江戸城に乗り込むような事がありましたが、

決まった日でないのに江戸城に入城した咎めを受け、
徳川斉昭ら3名は、隠居や江戸城に入る事の禁止を命じられています。

権限は口を挟む程度、処罰は甚大なのでほぼ命がけの世直しとも言えます。
この付近が水戸黄門の漫遊記の出所でもあるのでしょう。
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この回答へのお礼

詰衆以外は登城日が決まっていたみたいですね。
格式だけは高いけど外様の国持ち大名とそう変わらない待遇だったのでしょうか。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/02/01 15:08

なかったと聞いています。


たとえば、水戸家は今でこそ「御三家」と言われていますが、最初の内は徳川宗家、紀州、尾張で「徳川御三家」でした。水戸家は「そう言う徳川家」です。
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この回答へのお礼

なかったのですね。
駿河が存続していれば、ますます水戸の存在は小さかったでしょうしね。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/02/01 15:04

尾張と紀伊は大納言、だけど水戸は中納言。


尾張と紀伊は将軍候補、だけど水戸から将軍にはなれない(徳川慶喜は一橋家です)。
幕府に冷遇されていたから、反幕府的な水戸学が生まれたのではないかと思います。幕府の政務に参与したくても、非常事態でなければ、させてもらえなかったのでは。
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この回答へのお礼

水戸が中納言なのは紀州と同腹だからなのかと思っていました。

水戸は将軍になれないという説と、水戸がなれないという制限はなかったという説があるようですが、どっちが正しいのでしょうか。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/02/01 15:03

水戸光圀がお犬様の将軍(5代でしたっけ?)


に生類憐みの令を取りやめるように意見を申し
て隠居したとまんが日本史に書いてありました。
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この回答へのお礼

光圀と綱吉は不仲だったのでしょうか。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/02/01 15:01

ぺりーによって強引に日米和親条約を締結せざるを得なかった


日本は、下田、函館、横浜などを次々と開港したわけですが、
しかし、この結果にほとんどの諸侯、在野が納得しませんでし
た。その急先鋒となったのが水戸の徳川斉昭だったのですが、
彼は一度目のペリー来航の前後に海防参与に補せられたものの、
実質、この役になにごとかの権限があるわけではなく、結局、
彼は手をつかねてペリーの再来と屈辱的和親条約の締結を傍観
しているほかなかったのでした。このことからして、水戸家の
発言権がどれほどであったかはわかります。
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この回答へのお礼

海防参与として何かした訳ではないのですね。
家格は高くても発言力は溜間の諸侯とそんなに変わらなかったのでしょうか。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/02/01 15:00

水戸藩は御三家の末端ですから、水戸藩だけに与えられた権限というのはないんじゃないでしょか。

歴史詳しくないのでよくわからず回答してしまいましたけど。
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この回答へのお礼

ありがとうございました!

お礼日時:2007/02/01 14:59

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