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日本は欧化を進めて不平等条約を改正することに成功しましたが、45年に敗戦を迎える迄、日本という国は欧米列強からどのように見られていたのでしょうか?
有色人種の国でも一応は対応な相手と考えられていたのでしょうか。

攘夷が失敗しているように、欧米がその気になれば日本を植民地化することもできたと思うのですが(江戸をはじめ沿岸部の都市は艦砲射撃で壊滅できたはず)、なぜ日本は野蛮国から対等に同盟を結ぶに値する国際法主体性のある国へとなれたのでしょうか。

素人の質問ですみませんが、ご教示頂ければ幸甚です。

A 回答 (8件)

幕末から終戦までとなると時間的に長大で、また列国にもいろいろあり、どこを切り口にするかによって説明は様々でしょうが、日英同盟の少し前、日本が「極東の憲兵」として国力を認められ始めたあたりの背景を、イギリスを主に述べてみます。



明治初期の条約改正交渉では、アメリカ以外の列国は冷淡でした。ところが、日清戦争のころになるとイギリスの態度が軟化してきます。当時シベリア鉄道の建設が進み、ヨーロッパから陸路による極東への道が開かれようとしていた時期で、トルコ、ペルシャ、アフガニスタンでロシアと対立していたイギリスは、東アジアでのロシアとの衝突を極力避ける必要がありました。そこで国力を上げてきた日本を抱き込むために歩み寄りの姿勢を示してきたのです。(日英条約改正の調印は明治二十七年の七月。税権回復はさらにあと)

その後の日清戦争や北清事変でさらに軍事力を認められた日本は、明治三十五年、今度は対等のパートナーとして認識されるに至ります。日英同盟です。
当時、イギリスの外交方針は「栄光ある孤立」でした。しかし、ボーア戦争での疲弊で、北清事変を機に満洲に居座ったロシアに単独で対峙する余力がありませんでした。
そこでイギリス同様、ロシアの南下に警戒感を募らせていた日本に目をつけたのです。
(なお、このころから「大英帝国」の国力が徐々に傾き始める時期でもあります)

日本が条約改正に成功し、パートナーとして認められたのは、日本側から言えば、「富国強兵の成果」、イギリス側から言えば「日本の軍事力に利用価値を見出した」ということになりましょうか。

少し補足します。
列国、とりわけイギリスの清国における権益は大きく、内乱でも起こると経済活動に支障をきたすことになります。居留民保護の必要もあります。日清戦争がそうであるように、内乱から戦争に発展することもあります。事があったときの治安回復のためには軍隊が必要になりますが、まとまった軍隊を短時日に北京に送り込める国は、当時、日本とロシアしかありませんでした。

さらに補足します。
「イギリスの政治の特徴には、・・伝統を固守して変更を肯んじないと共に、一般現実の問題に対しては臨機応変に彌縫策を講じてその場を切り抜けて行くという風があり」(『外交と国際政治』内山正熊)その老獪な現実主義はヨーロッパ諸国から「不信な英国」と警戒されていました。これは、日英同盟に反対した日露協商派(栗野慎一郎など)の反対理由の一つでもありました。上記の日本への歩み寄りなどは、その現実主義の一典型でしょう。
当時は国家利害が外交の前面に押し出された時代です。有色人種や異教徒としての偏見よりも優先すべきものが、イギリスにはあったのです。(イギリスに限らず、また現在でも、外交の第一問題は国益でしょうが)


話は変ります。
『謎とき日本近現代史』野島博之著に「なぜ日本は植民地にならなかったか」という章がありますので、簡単に要点を紹介します。

幕末当時、イギリスの資本主義は絶頂期で世界中にイギリスの商品が輸出されていました。
その商品を輸出する際、相手国に高い関税をかけられないように、強力な軍事力を背景に自由貿易を強いていました。イギリスにとって、貿易に干渉してこない相手政府なら植民地にしたりする必要は低下します。
江戸幕府は、攘夷の世論に押されてイギリス製品のボイコットを積極的に指揮したりせず、明治政府も不平等条約を受け継ぎ、国際法を遵守する姿勢を示しました。イギリスが武力に訴える必要はなかったのです。

もう一つは、日本のシーレーン(ある国の商船や客船が安全に通航できる航路。対馬海峡など)の問題です。1861年にロシアが対馬を占拠したとき、イギリスは阻止しましたが、代わり占拠しようとはしませんでした。日本のシーレーンをロシアと奪い合うのは、コストが高いと考えました。日本を活用してシーレーンを確保させるほうが得策と判断したのです。


野島氏は主にこの二項を取り上げています。これだけみると棚ぼた式の独立のように聞こえますが、けっしてそんなことはありません。
開国から1881年までのあいだに海外に流失した金銀は、現在の価格で三百億ドルほどだそうです。たいへんな額です。中国やペルシャは、列国の「簒奪」からの赤字を補填するため、各種の利権を売りに出して半植民地に転落していったわけですから、明治人の苦労を思いやるべきでしょう。
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この回答へのお礼

丁寧なご回答ありがとうございます。

イギリスも国益の点から日本と手を結ぶのが良いと判断した結果なのですね。

開国からの十数年間で3兆円以上の金銀が流出したのですね。
本当に明治時代の人の苦労は大変なものだったでしょうね。
私たちが日本的だと考えている事の多くは、明治以後に形ができたものが実は多いみたいですが、幕末明治と昭和という時代は日本という国にとって本当に激動の時代だったのですね…

大変勉強になりました。

お礼日時:2007/02/08 08:50

当時の日本は輸出できるものといえば木綿などの繊維モノくらいで


とても植民地にするだけの魅力=経済的価値はありませんでした。
しかし国力の割には教育水準は世界でも有数で、
民族としては優秀な人間が多くいるという認識はあったようです。
しかも島国ということで、攻めるのにも一苦労します。
国力は少ないが人材は豊富で手がつけにくい…ということならば
ヘタに土足で踏み荒らすよりは仲良くなってこちらの都合のいいように
コキ使った方が得だろう、と判断したのではないでしょうか?
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この回答へのお礼

やはり日本は植民地にするほどの魅力はない国だったのですね。
ありがとうございました!

お礼日時:2007/02/08 08:07

 最大の功労者は、徳川慶喜でしょう。



 西欧列強が、直接日本支配のために、日本人と戦うというのはあまり効率の良い方法ではありません。

 イギリスは自国の10倍以上の人口があるインドを植民地化しましたが、それは、ムガール帝国内部の藩王国の内乱などに乗じてお金を貸し、その借金の形にその地域の税金徴収権を手に入れることで、徐々に全土を支配していきました。

 幕府が、徹底抗戦を行っていたならば、陸軍力の近代化では遅れていたものの、その海軍力は圧倒的であり、長期に渡る内戦で幕府も薩摩・長州も疲弊し、それぞれ戦費としてフランス・イギリスから多額の借金をして兵器・軍需物資の輸入をしていたはずです。

 結局どちらが勝ったとしても、その借金返済に苦労した挙句、明治初期の近代化するための資金が不足し、更には借金の返済に困りインドの二の舞になっていたはずです。

 徳川慶喜が戦争をする気がなかったのが、大英断だったのです。
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この回答へのお礼

>徳川慶喜が戦争をする気がなかったのが、大英断だったのです。
徳川慶喜が薩長との戦争を望まなかったのが大きいのですね。
長州から多くの志士が誕生したのも、そうせい公と言われた毛利敬親が自らは確固たる思想を持たずに(山内容堂にはバカにされてますけど)、家臣を信頼して「そうせい、そうせい」と右も左も全て認めていたという土壌があったのが大きいみたいですが、15代将軍が慶喜であったことが日本にとっては幸運だったのですね。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/02/07 07:05

イギリスは実際に日本を植民地化した場合についてのシミュレートを行いましたが


「地球の裏側に近い日本に莫大な戦費をかけて多大な兵力を送り、多くの犠牲を出してまで植民地にするだけの価値のある市場は得られない」
と言う結論を出しています。
これは薩英戦争でイギリス側が死傷者63人に対し、薩摩側が死傷者9人だけ(ただし薩摩側の物的な被害は甚大であり勝ちとは言えません)だったことも影響しているようです。
当時の欧米列強にとって植民地はあくまでも利益を獲得するための「市場」「資源の供給先」であり、その為の経費は「投資」でした。
損益分岐点を計算してワリにあわないのならば、わざわざ植民地化する意味はありません。
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この回答へのお礼

イギリスは実際にシュミレートしていたのですね。

>損益分岐点を計算してワリにあわないのならば、わざわざ植民地化する意味はありません。
日本は資源がなくて運が良かったのですね。
幕末に至っても国中に金山・銀山がたくさんあったりしたら植民地化された蓋然性が高かったのですね。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/02/07 06:57

アングロサクソンの思い上がりは今もですが、アジアなど


眼中にありません。その意味では、マレーシアのマハティール
の言っていることは正論です。
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この回答へのお礼

欧米紙は日本バッシングが大好きですよね。
マハティールや李登輝は良くも悪くも骨のある政治家ですね。今の世代の政治家が勇ましい事を言っても小粒な感じが否めないです。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/02/07 06:54

植民地にするためには、相手を屈服させなくてはなりません。

当時の西欧から見た日本観は、国民の多くが四六時中鋭利な刃物で武装し、外国人を見たら攘夷攘夷といって命がけで切りかかってくるなんとも物騒な国です。こんな国を屈服させようと思ったら、大量な陸兵を派遣し甚大な被害を受けることを覚悟しなくてはなりません。(最悪日本人を根絶やしにして、瓦礫の山しか残らんかも。)さらにいうと東洋で戦争しようと思ったらイギリスの補給を受けなくてはなりません(当時の蒸気船の石炭釜は、定期的に火を入れないとすぐだめになる)。すでに日本でも貿易で大きな利益を上げ始めているイギリスが、莫大なリスクを背負って戦争をするメリットはあまりありませんし、イギリスの頭越しに戦争を始めることは、他の列強にはとてもできません。
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この回答へのお礼

当時の日本はかなり物騒な国と映っていたのですね。
確かに艦砲射撃で江戸・大坂などを壊滅させても、その後の統治は極めて困難でしょうね。イラク戦争後のアメリカによるイラク統治の困難さと同じでしょうか。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/02/07 06:50

アジア人を黄色人種といいますが、見ての通り、肌が黄色いわけではありません。

帝国主義時代に流行した黄禍論↓ の影響でしょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E7%A6%8D% …

信号と同じで、黄色は注意。急速に近代化し、台頭してきた日本は警戒されていたわけです。

幕末の日本については、
植民地にするほどの魅力がなかった。
大軍を派兵し維持するには遠すぎた。
列強が他のことで忙しかった。などありますが、
試しに辺境を攻撃してみたら、けっこう手強かった(馬関戦争、薩英戦争)。
オランダの入れ知恵で、国際法を根拠としたしたたかな外交を行なうタフな交渉相手だった(徳川慶喜)。
という理由もあるでしょう。
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この回答へのお礼

日本人は肌が黄色い訳ではないのですね。
白人に比べたら色(肌色)がついているので、緑を青と表現する感覚で日本人やらインド人の類は多少の濃淡はあれどまとめて黄色と言われているのかと思っていました。

日本は資源がないから列強には魅力がなかったのですね。
繋がりのあったオランダの入れ知恵といったものもあったのですね。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/02/07 06:47

外交の基本は軍事力があるかどうかです。


ロシアも、ピョートル大帝が出現し、北方戦争で当時の列強であるスウェーデンと戦い、勝つまではヨーロッパの国とは認められていませんでした。ロシアは、モンゴル帝国の孫国家みたいなもので、一生懸命東ローマ帝国の後裔国家だと捏造していますが。
まぁ当時の欧州から見れば、欧州なのかアジアなのかよくわからん国。
戦争に勝ったので、欧州列強クラブに入れたと言うことです。

日本もロシアの南下政策に対して、防波堤になる!と踏んだイギリスに治外法権の撤廃がなされたのが 1894年、実に日清戦争勃発直前。
関税自主権は、日露戦争後です。

幕末に日本が植民地化しなかったのは、欧米がその気にならなかったからです。他の事で忙しかった。アメリカは南北戦争してましたし、イギリスはインド、フランスはインドシナと、もっとおいしい場所に力を傾注していましたので。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
ロシアすらスウェーデンに勝つまではヨーロッパと認められてなかったのですね。
今も、EUへのトルコ加盟をキリスト教圏の白人国家が頑なに拒否反応を示していますし、今なおヨーロッパに異民族を入れてなるものかという感情は根強いのでしょうか。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/02/07 06:44

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