No.15ベストアンサー
- 回答日時:
考え方にいろいろあると思いますが、
涅槃 = 無 という意味は、
人間の「心を波の状態」を表現しているように思います。
人間はいろんな事に対して反応し、感情が高ぶったりし、
心の波が大きく揺れる、そして、苦しいという状態になることが
よくあります。
快楽とは、ほどほどならいいかもしれませんが、あまり
のめりこむと、そこから抜け出せなくなります。
のどが渇いて、海水を飲み、さらにのどが渇く、という状態に近いです。
なので、もちろん、心がそのことに囚われ苦しい状態です。
涅槃の境地とは、心が穏やかで、全く波立たず、しーんと静かな心境です。全く囚われのない心境。
ですから、涼しい心境というか、心地よい心境が
「涅槃 = 無」
と思っています。
>涅槃の境地とは、心が穏やかで、全く波立たず、しーんと静かな心境です。全く囚われのない心境。
ですから、涼しい心境というか、心地よい心境が
「涅槃 = 無」
と思っています。
涅槃が最高っていう感じがしますね。回答ありがとうございました。
No.19
- 回答日時:
専門上ちょっと仏教からずれるかもしれませんけれども、
秘教では、混沌が素の状態で、バランスを生み出すのが叡智のつとめなんですね。
それでどうにかバランスよくしようとするのですが、この世はエネルギー的に崩壊をやめない。混沌へ戻ろうとするからです。
金属は金属元素へ、体は細胞へ、陸は塵芥へ、ってな感じでしょうか。
そうすると、涅槃はすごいところです。
超越した、この世ならざるものです。
エネルギーゼロ、バランス均等、揺り戻しなし、
叡智は「これを望んでたゆまず努力」しなければ、
医学もなく、錬金術もなく、平和もなく、日常もなく、天気予報もなく、という具合ですね。
昔の人は、津波や地震や雷や飢饉や流行病といった天変地異で、ほんとうにバランスを壊すものの力の強さを感じていたんです。
No.18
- 回答日時:
「無余涅槃」についてですが、今回初めて知った言葉だったのでwebで少し調べました。
涅槃に到達した状態で入滅すると、その後は永遠に涅槃の状態が続く、という考え方でいいでしょうか。これについての真偽は正直なところ、私にはわかりません。
理由は、私個人はそのような状態になった人を主観的に認識した事がない(単にそういう人を見たことが無い、また、おそらく自分はそのような存在を判断できる位置にはいない)ことと、理屈で考えてみても、その境地が本当に完全なものであったとしたら、確かに、絶対に「無余涅槃」が起こり得ないとは今の私には言い切れないものの、それにはっきりとした確信は持てないからです。
>宇宙は永遠に動くのでしょうか?
今は私個人はそう考えています。
ただし、実際にそうなのかどうかは、(私はこの世界を作った神の考えを全て理解しているわけではないので)わかりません。
ただ言える事は、
・今のこの世界は永遠の停止や収束をするようには出来ていないように私には見える。(本当に永遠にそうなのかどうかはわからないが、ただ単に今はそう見える。)
・世界が永遠には止まらないつくりになっているということは、
その構成分子である人間も永遠にあらゆる活動を止めるようには出来ていないのだろうと私は推測する。
・「無余涅槃」については、その定義に本人による能動的な動きが永遠に無いことが含まれるならば、前記の考えからすると、そのような境地があるという断言は私にはできない。
ということでしょうか。
この世界では、一定の歴然とした非常に強力な法則によって地球の整った動きや動植物の活動などが営まれていて、その法則は、生成流転をモットーとしているように感じます。(地球の自然は、調和と喜び、愛を基本理念としているように感じます。特に植物を見ているとそれを強く感じます。)
それ以上の事に関しては、わかりません。
「全ての存在が永遠に活動を停止するいうことは地球の自然を見る限りではどうやら勘定に入っていないようだ」
「人間を含めた地球上の存在には、安心して生きられる法則となる基本理念があるようだ」
「この法則に従っていれば、存在は(苦難もあるが)心の深部では安心することが多いようだ」
としか私には言えません。
はっきりとした答えが出せなくてすみません。
今もいろいろ試行錯誤で勉強中です。
>はっきりとした答えが出せなくてすみません。
今もいろいろ試行錯誤で勉強中です。
いえいえ、そんなことないです。いろいろと勉強になりました。回答ありがとうございます。
No.17
- 回答日時:
とても難しい質問なので、回答がわかりにくくなってしまうかもしれません……。
部分的に間違いもあるかもしれませんが、もしよかったら読んでみてください。
それから、支離滅裂で申し訳ありません。先に謝っておきます。
本題に入ります。
まず、涅槃というものがどのようなものなのかという定義の問題があると思います。涅槃=無という捉え方をされているようですが、この「無」という言葉がやっかいですね。
涅槃について考える時には、その場合の「無」という言葉について、その言葉は「有」に対しての「無」ではないのだという考え方が大切です。
有でも無でも無い状態を指して、便宜上「無」という言葉をあててしまっていると考えた方がいいと思います。プラス、ゼロ、マイナス、の中のゼロという意味なので、これは「何も無い」ではないわけです。
「何も無い」という状態ではなく、「全てがあって全てが無い状態」を表しているのだということです。それが見ようによっては単に何も無い状態とも取れるから、「無」と表現されているのかもしれません。
では、「全てがあって全てが無い状態」というのは、一体なんでしょうか。これは非常に言語化が大変です。この概念は、理解するのがとっても大変ですが、プラスでもマイナスでもない、ゼロなんだ、と考えればわかるかもしれません。これは、無限(数学記号の∞)でも同じ意味になります。いや、むしろ「無限」のほうがイメージ的に近いかもしれません。
「空っぽ」というよりは、限界まで詰まってるような感じもあります。粒子のようなものが、詰まって詰まって、極限までどこまでも詰まった結果として、何も無いようにも見えるといいますか……。個人的なイメージでは、ゼロよりもむしろ無限のほうがしっくりくるではありますね。
いずれにしても、それは、「完全に完璧な状態である」ということができます。
これは補足ですが、この状態に対して、
「完璧なものは常にあらゆる可能性を含んでおり、よってそれは常に動いている。
完璧なものは、常にあらゆる可能性に向かって動きつづけることで完璧を維持している。」
と言うことも出来ます。
人間がこの涅槃を体験することは、可能であると考えます。
ただし、完全な「無限」「ゼロ」「全て」を体感した状態は、永遠には続かないはずです。
人間として生きている限り、醒める時が来ます。
座りっぱなしで普通の意味での意思が吹っ飛んだ状態では、ごはんも食べられず、水も飲めず、遅かれ早かれ死んでしまいますね。(他に、普通にまぶたをあけた瞬間や立ち上がった瞬間に意思が働いて醒めることも考えられます。)
では死んだらどうなるかと言えば、おそらく、死んだ後でも醒める時が来ます。完全な完璧を維持している人がそのままで死んだとして、心に偏りがないので、死んで幽霊さんになったあとでも、山の神様にも人間の神様にもならない訳でして、たらい回し(?)でどんどん凄いところに行くでしょうね。太陽系の神様でも銀河系の神様でも無いとして、宇宙そのもの全部までどんどん広がって、もしかしたら、この宇宙の最高神(?)まで行くかもしれません。最終的には、宇宙全部が自分であるという存在まで行くかもしれません。(現実的に考えて、現在生きている人間がそんなところまで”健全な状態のまま”意識が拡大する可能性は非常に低いといえますが。)でも、それでも醒める時は来ます。醒めるという表現が悪ければ、何らかの意思を働かせたいと思う時が来るはずです。
なぜかというと、宇宙は永遠に動いているものだからです。宇宙と一体化した存在が居たとして、やはりそこから再出発という時が来ます。基本的にどこまでも前進、新たなる可能性の探求、なんですね。衣類乾燥機みたいなものですから、ぐるぐると流転があると考えた方がいいでしょう。
また、人間は、宇宙そのものから出て、完全な無に永遠に溶け込むこと(いわゆる狭義の解脱というもの)は出来ません。一構成分子は、全体に同化することは出来ても、全体から抜け、さらに、存在そのものを消す、ということは原理的に不可能でしょう。
ここのところを履き違えて、座禅などで無から自己の抹消という道を辿ると、発狂するなり、魔境に入るなりで、えらいことになります。(もちろん、存在そのものは残ります。その人の自己を構成しているものが消えることはありません。
絶対に消えないのだから、消えはしないが、本人が存在を拒否をする以上、あらゆる行動が取れない、そして、自我意識はそれでもなおあると考えた方が良い。これは非常に大変ですね。)
ともかく、確かに涅槃はある意味においては「最高」かもしれないが、そこにとどまる事は出来ないということです。第一、本人がそこに留まろうとはしないでしょう。進展主義になってくるんですね。十牛図という考え方が参考になるかもしれません。衣類乾燥機のぐるぐるです。
それから、涅槃が快楽であるかどうかについてですが、涅槃はそれこそ快楽の中の快楽だと思いますよ。
この回答への補足
>確かに涅槃はある意味においては「最高」かもしれないが、そこにとどまる事は出来ないということです。
有余涅槃の場合はとどまることが出来ないと思いますが、無余涅槃の場合、宇宙が永遠に動くとは限らないので、とどまるのではないでしょうか?
宇宙は永遠に動くのでしょうか?
No.16
- 回答日時:
しかし、世の中の彩が、想いの尽きることの無い様が、一体なんであるのか、それを観じて、本当の所を見抜き、なすべきことを知ったならば、仏が何を言わんとしたのかを、正しく理解するに至るのだろうと思います。
それは例えばどういうことかと言うと、事前にある事柄について正しい説明を受けていて(理法を聞いていて)、後にそのある事柄の真実を自分で見て、ああ、彼ら(先達)はこのことを言っていたのかと知るようなことではないでしょうか。もっと言えば、その、ある事柄についてたとえ事前に正しい説明を受けていなくとも(理法を聞いていなくても)、自ら世の真実を観じ、智慧を得たならば、彼は知り尽くした人、つまり(結果的には)覚者になってしまうということです。
無往にして生ずるその心、一なる境地、それを涅槃と言うのです。それは、汚れの付きようの無い心なのです。どうあっても汚れようの無い心、その心の明らかなのを知って、その境地は、「不退転」や「不動」とも言い表わされます。
世の中の事物を超えて、不可思議なものの認められる事が、おそらくは、あるのかもしれません。一切後悔しない行為しか成しえない境地(解脱)に達しながらも、不可思議の認められることは、あるかもしれません。一切を知ってしまって、つまらないということは、きっとないでしょう。
>どうあっても汚れようの無い心、その心の明らかなのを知って、その境地は、「不退転」や「不動」とも言い表わされます。
認知症とか、記憶喪失になると、また汚れてしまうかもしれない気もするのですが。
回答ありがとうございました。
No.14
- 回答日時:
素人ゆえ仏教における涅槃の定義と一致するかどうかは不明ですが、
「なぜ【無】が最高なのか」という点に関して私見を述べてみたいと思います。
私たちのこの世での生は、両親の卵子と精子の結合によって始まります。
卵子に向かっていった何億匹もの精子のうち、受精に成功した一匹を除いては全て死ぬ運命を辿ります。
この世に生を受けるということはまさに奇跡的な確率であることは疑う余地がありません。
同時に、受精したばかりの卵子は確かに生きているということは言えますが、それは限りなく死に近いものということが可能なはずです。
つまり、死に向かうベクトルに強く抗うことによって人間は生を得る、と言えるでしょう。
生まれて間もない頃は無抵抗で、外界のちょっとした環境の変化により簡単に死へ引き戻されます。
生きるということは、この死へ向かう力に対して生へのエネルギーを徐々に強めていくことに他なりません。
この死へ向かう力は完全に消滅はしているわけではありません。
生きるということ、すなわち自己を保存しようとすることは、
この死のエネルギーよりも生のエネルギーがわずかに上回っている状態で拮抗が保たれているということです。
この拮抗を保つこと(自己を保存すること)にも当然エネルギーが必要です。
つまり、生きるということは本質的にはエネルギーを必要とする(=疲れる)ことなのです。
しかし、それでもなお生を受けたということには、それなりの意味があるはずです。
意味など無いという見方もできますが、いずれにしても生まれてきて生きているという事実は誰にも否定することはできません。
そのように生の波に翻弄されながら、やがて行き着く先は、自分が生まれ出てきた場所です。
生まれ出てきた場所、とは取りも直さず「死=無」です。
元の場所に還る。
つまり、「死(=無)」とは「安定すること」でしょう。
自己を保存するという作業が中止された結果としてもたらされるのが安定という地平です。
もし「無」が最高だとすれば、そういう意味ではないかと私は思います。
ただ、意図的な死は安定にはつながらないとも思います。
「拮抗する(している)」という自然の摂理を人為で切断することによって得られるのは、真の安定とは言えないように思うからです。
保存する状態が頂点に達し得てこそ、真の安定に向けて自然な曲線を描きつつ収束していくことが可能になるのでしょう。
急上昇する人生には無理が生じるでしょう。
安定に向けて緩やかに収束する摂理を怖れる必要もないでしょう。
これらが体感できれば無を自分のものにしたと言えるような気もします。
これが涅槃の意味するところと何かつながるようであれば、いくらかでも回答らしくなるのだが、と願っております。
No.13
- 回答日時:
涅槃を無だと考えなければいいのだと思います。
なぜならあなたはそれを知らないんですから。
あなたがそれを知ったなら、なぜそれが無と言われているのか
知ることができるんじゃないでしょうか。
日常性のなかに埋め込まれている人こそが無なのでしょう。
この回答への補足
>涅槃を無だと考えなければいいのだと思います。
なぜならあなたはそれを知らないんですから。
あなたがそれを知ったなら、なぜそれが無と言われているのか
知ることができるんじゃないでしょうか。
死んで無かどうかは分かりませんけど、死んで無だったら、どうしようというところに問題があるんじゃないんでしょうか?
No.12
- 回答日時:
>快楽は執着を生み、その執着によって苦が生じるから、
快楽を得ることを考える
恐らく涅槃は「無」とか「空」で
執着や欲望から解放されている状態。
価値観が大幅に変更されているので
執着も苦も残っていないと思います。
執着するとはもっと充実して生きたい、
もっとやりたいことがある状態で
「涅槃=死」ならばどんなにやりたいことをやり残しても、
頑張っていたくても、愛し続けたくても
自然に帰った後は後悔しませんから幾らでもやり残せます。
涅槃は最高なのだというより救済です?
「生きるの飽きた、その後はあなたにすっかりお任せです」な、
それで安心しているような状態ではないかと思います。
No.11
- 回答日時:
こんにちは
単刀直入、簡単にで回答してみます。
(多くの回答が、あるので)
涅槃の状態、つまり密教、ヨーガでは、ニルバーナと呼ばれる世界に転生することを意味し、その状態は完全なる絶対なる静止、心が、動かない状態を意味すると、言われてます。
つまり、ありとあらゆる条件、欲求のデーターに対しても心が、動かない。つまり、一般的な快楽=楽しいのではなく、楽の裏に潜む"苦しみ"が、ない状態という意味での"楽"といわれてます。
そして、例えば、他の天界から比べた場合、大きな違いは、ここからは死、生、つまり、再び、生まれかわることが、ないということ・・と言われてます。
したがって、涅槃が、一番、楽(苦しみが、まったく存在しない)と考えるのです。
>仏教で涅槃(=無)が最高と聞いたんですが
これは、ヨーガ等では、コーザルの低い世界に入った時を"無"とよび、高い世界に入った時を"空"と・・呼ばれているようですね、本等では。
で、涅槃の場合は、わかりませんが、空とは別の次元と考えられているみたい。
以上、参考になれれば、幸いなのですが・・いかが??、(__)
この回答への補足
>したがって、涅槃が、一番、楽(苦しみが、まったく存在しない)と考えるのです。
これって、苦を感じずに、大宇宙として動けばいいと思うのですが。大宇宙が永遠に動かなくなると、なんか辛いというか、虚無感を感じて嫌なんです。
No.10
- 回答日時:
いや~、シンプルにして難しい質問ですねぇ。
>>仏教で涅槃(=無)が最高と聞いたんですが。
まずは「無」ということに関してお話しましょう。
仏教が中国にわたるときに、インドの仏教がそのまま伝わったわけではありません。中国にはすでに儒教や道教という固有の宗教を持っており、これらの宗教との間での葛藤を経なけらば中国には受け入れられなかったということです。その代表的なものが「無」といえることができるでしょう。老荘思想においては万物の根源は無であるという考えがあります。『老子』によれば「天下万物は有より生じ、有は無より生ず」という一文が代表的でしょう。ですから、「無」という考えは仏教よりも中国の固有の思想の影響が強いように思います。
それに対して、仏教特に般若経典や龍樹の『中論』などで説かれるのが「空」というものです。「空」は無というものが有との相対的な否定の認識であり、無が有に対応するものとして実体視されることさえ否定するもので、有無を超越した立場として「空」を説くのです。
ただ、空思想は中国仏教においては「無」に準じて解釈されていたことも確かです。『肇論』に説かれる本無説です。無と空は同義で、それを一歩勧めて空は相対的なレベルにとどまるもので、「無」は空と不空を超えた絶対的なものと理解されました。中国や日本の禅宗において「無」重要視するのはこの流れを組んでいるからといえるでしょう。
しかしながら、二つに共通しているのは「相対的なものを超えた境地」ということでしょう。「空」は有無の超越を説くものであり、また中国で解釈された「無」も空と不空の超越です。そういった意味では共通の思想といえるかもしれません。ですから、日本人が「無」という言葉で連想する観念とは少し違うのではないでしょうか。
>>快楽は執着を生み、その執着によって苦が生じるから、快楽を得ることを考えるよりも、快楽を得ない涅槃が最高だと考えたんですが、もっと快楽を感じたいと思い、涅槃が最高と思えないのです。
まずは、「苦」ということを考えたとき、その意味ですが「苦」とはサンスクリット語で「duhkha」といい、直訳は「圧迫して悩ます」となり、意訳すると「思い通りにならないこと」ととなるそうです。自分の思ったとおりになるという判断に執着してしまい、結果的に違うことが起きると苦しいってことですかね。
たとえば、コンビ二などに行くとレジはきれいなおねぇさんのレジに並んでしまって、執着に左右されてしまいます。それできれいなおねぇさんに応対してもらえればいいのですが、隣のレジのそうでもないおねぇさんから「隣のレジへどうぞ」と声をかけられたりします。
それが、質問の中のある「快楽は執着を生み、その執着によって苦が生じる」ということになりますかね。
また、「一切皆苦」という言葉があります。仏教ではこの世の中は一切皆苦って言うくらいでですから、世の中の出来事は全部苦なんでしょう。「苦」とは、「自分の思い通りにならない」ということなのです。苦にもいろいろありますが、日常的に感じる苦には、肉体的な苦と精神的な苦に分けたりします。しかしながらそういったものが苦ではありますが、楽しいと思ったりしてたことが壊れちゃったらその楽しいことが苦になったりしちゃいます。全てのことは無常であって壊れたりなくなったりするからこそ苦であるとされます。すなわち、苦になりえる可能性のないものは何もないってことです。
ですから、ご質問の中にある「もっと快楽を感じたいと思い」とうのは、もっと苦しみたいといっているのと同義語ということになります。ここで言われる快楽というのがどういった意味での快楽かは分かりませんが、それが苦を生む元でもあることは確かです。
ただ、涅槃(悟りの境地)は快や不快等の相対的なものを超越した境地であってそういうものがなくなるというものでもないかもしれません。なくなるというのでは有と無相対的な世界を抜け出した、絶対的な境地とはいえないからです。そういった「空」の境地はことは般若経典の影響をうけて成立したといわれる『維摩経』に説かれています。
『維摩経』は般若波羅蜜の教えや空思想の実践が主題として説かれます。象徴的な劇的な手法を凝らした物語性に富んだ内容が展開されます。一般にお経と呼ばれるものは、お釈迦様がお説きになるものですが、『維摩経』に関して言えば維摩居士という在家の居士が説法を代弁し説法の主役を勤めます。それは主家の仏教を批判的に捉えた、在家の菩薩の理想像が説かれています。
ある時釈迦の十大弟子の一人である舎利弗尊者と数人の菩薩が維摩居士の家を訪ねていき部屋に入ると、ひとりの天女が花びらを舎利弗はじめ仏弟子と菩薩たちにふりかけます。花びらは菩薩にはくっつかずに落ちますが、仏弟子たちにははりついてしまいます。仏弟子たちは天女(女性)から生まれた花であるから、神通力を使い必死に払い落とそうとしますが、どうしても落ちません。天女が舎利弗にいいます。「あなたには差別や執着があるために、あなたに張り付いた花びらは落ちないのです」といいます。
このように維摩居士という人は、執着というものを捨て「空」の状態になることを説きます。維摩居士は在家でありながらも、仏弟子以上に執着を捨てた空を体得しているのです。その維摩居士は今で言えばソープやキャバクラにも行きます、そこで仏教を説いちゃうというとんでもない人です。なぜそんなことができるかといえば、そういったことが快や不快・男と女・浄不浄といった執着を超えた、「空」という状態にいられるからです。だからこそ空という境地を仏教では求めます。
では「空」とは、全てのものは縁起というきわめて複雑な相互関係によって成り立っているものであり、少しでもその縁起が違えばそれは崩れさってします。そういったことから、縁起→無自性→空という概念が成立します。物事の本質を見抜く力を持つことで、表面的な差別的執着を捨てることができるということですかね。ですから、快楽がなくなるのではなく、快楽に執着しなくなるってことじゃないですかね。快楽があってもなくても、そういったものに執着することなく、その根本を見抜く力を「空(または無)」と呼ぶのではないでしょうか。
ただ、そういった状態が「涅槃」を表す一つの表現方法といえるでしょう。ただ、空=涅槃ということはいえるかもしれませんが、涅槃=空とはいえないかもしれません。涅槃は空以外にも多くの真理を含んだ状態ですから、一概に涅槃は空であるということはできないと思いますよ。
また、山頭火というお坊さんは「無にはなれても、空にはなれない」とおっしゃっています。物を捨てていけば、無にはなれるけれども、執着を捨てきった「空」という境地にはなれないということですね。それほどまでに難しい境地であるのかもしれません。少なくとも私では到達し得ない境地ですね。私も楽しいほうが好きなくちですから。
まあ、長々的外れなまとまりのない駄文を書き連ねましが、参考にしていただければ幸いです。
合掌 南無阿弥陀佛
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